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龍虎の境界 ―第4話:黒い名刺、白い粉―

1996年、12月。

横浜の街に、本格的な冬が牙を剥き始めていた。

海から吹き付ける風は氷のように冷たく、吐く息は白く濁って闇に溶けていく。

深夜二時。

国道沿いにある、油とタバコのヤニで壁が黄ばんだ深夜営業のダイナー。

客はまばらで、有線放送から流れる古い流行歌だけが、気怠く店内を満たしていた。

一番奥のボックス席。

大澤龍也は、冷めきったブラックコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込むように持ち、窓の外を流れるトラックのヘッドライトを無感情に見つめていた。

向かいの席では、白岩虎伯が山盛りのカツカレーを猛烈な勢いで胃に流し込んでいる。

【咀嚼音】

スプーンが皿に当たるカチャカチャという音。

虎伯の旺盛な食欲は、彼が日々振るう暴力のエネルギー源だった。

「……お前、よくそんな時間に重いもん食えるな」

龍也が視線を窓から戻し、マグカップをテーブルに置いた。

「腹が減ってちゃ、喧嘩はできねえよ。龍也、お前も少しは食っとけ。最近、少し痩せたぞ」

虎伯が口の周りを紙ナプキンで乱暴に拭いながら言う。

龍也は答えず、ポケットからジッポーを取り出し、手の中で転がした。

カチッ。

蓋を開けるが、火は点けない。

その冷たい金属の感触だけを指先で確かめている。

その時だった。

カラン、と入り口のドアベルが鳴った。

入ってきたのは、よれたトレンチコートを着た、無精髭の男だった。

男は店内を一度だけ見回すと、迷うことなく龍也と虎伯のいるボックス席へと真っ直ぐに歩いてきた。

【侵入者】

男は、虎伯の隣の席に無言で腰を下ろした。

酒と、安物のオーデコロン、そして……血の匂いとは違う、奇妙に生臭い匂いがした。

虎伯がピタリと動きを止め、フォークを握る手に力を込める。

いつでも相手の喉元に突き立てられるよう、全身の筋肉が瞬時に硬直した。

だが、龍也は動じなかった。

ジッポーの蓋をカチリと閉め、男を静かに見据える。

「……相席を許可した覚えはないが」

「冷たいこと言うなよ、少年。俺はお前らに、特大のクリスマスプレゼントを持ってきてやったんだぜ」

男はニヤリと笑い、懐から革張りの手帳を取り出した。

パクリと開かれた手帳の中には、警察の紋章である旭日章が鈍く光っていた。

【権力】

「神奈川県警少年課の、佐藤だ。……『夜犬』の木場の指、派手に潰してくれたな」

虎伯が低く唸り声を上げ、腰を浮かせようとした。

だが、龍也がテーブルの下で虎伯の足を軽く蹴り、それを制止する。

龍也はマグカップの縁を指でなぞりながら、佐藤の顔を観察した。

「……警察が、こんな夜中に迷子の補導か?」

「補導なら、制服警官を十人連れていくさ。今日は『商談』に来たんだよ、龍虎会のトップさんよ」

佐藤はトレンチコートのポケットから、一枚の黒い名刺を取り出し、テーブルの上を滑らせて龍也の前に置いた。

そこには名前も肩書きもなく、ただ携帯電話の番号だけが印字されている。

「商談?」

「あぁ。隣町の川崎との境に、寂れたトランクルームがある。そこを溜まり場にしてる半グレ上がりのクソガキ共が、俺のシマに勝手に『白い粉』を流し始めてな」

佐藤が、自分の胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。

紫煙が、龍也の顔に向かって吹きかけられる。

「本職のヤクザが出張ると色々と面倒でな。……そこで、最近横浜で元気のいいお前らの出番だ」

「俺たちに、そこを潰せと?」

「潰すだけじゃない。中にある『粉』と、売上の『現金』を全部回収して、俺に渡せ。……そうすれば、木場の傷害事件は、俺がもみ消してやる。悪くない取引だろ?」

佐藤はニタニタと笑いながら、龍也の返事を待った。

自分のような大人が脅せば、中学生のガキなど震え上がって言うことを聞く。

佐藤はそう確信していた。

だが、龍也の瞳には、怯えも、怒りも浮かんでいなかった。

あるのは、ただ氷のような【計算】の光だけだ。

龍也は、テーブルの上の黒い名刺を指先でつまみ上げ、光にかざすようにして眺めた。

「……一つ、確認したい」

「なんだ?」

「そのトランクルームを掃除した後、俺たちに何のメリットがある? 『逮捕されない』というのは、マイナスがゼロになるだけで、プラスにはならない」

その言葉に、佐藤の笑みがピクリと引き攣った。

「……テメェ、警察に向かって口答えしてんのか?」

「商談と言ったのはアンタだ。タダ働きをするつもりはない。……回収した現金の半分は、俺たちが貰う」

虎伯でさえ、龍也のその大胆な要求に息を呑んだ。

相手は、腐っても警察権力を持った大人だ。

佐藤は数秒間、龍也の漆黒の瞳を睨み返していたが、やがて腹の底から楽しそうに笑い出した。

「ハハハッ! いいぜ、気に入った! クソ度胸だけは一人前だな。現金は半分くれてやる。だが、『粉』は一グラム残らず俺に渡せよ。……明日の夜だ。期待してるぜ、龍也くん」

佐藤は吸いかけのタバコを、虎伯の食いかけのカレー皿に押し付けて火を消し、立ち上がって店を出て行った。

【屈辱】

虎伯が、タバコの灰で汚れたカレー皿を無言で床に叩きつけた。

ガシャン、と陶器が割れる音が店内に響き、店員が怯えたように顔を出すが、虎伯の殺気を見てすぐに奥へと引っ込んだ。

「……龍也。あんなポリ公の言いなりになるのかよ!」

虎伯の怒声に、龍也は黒い名刺を自分の財布にしまいながら、静かに答えた。

「言いなりにはならない。……利用するんだ」

「利用する?」

「俺たちはまだ、この街のルールを知らない。あの悪徳刑事は、俺たちに裏社会の『入り口』を案内してくれる最高のガイドになる。……今は、ただの飼い犬のふりをしておけばいい」

龍也の目は、すでに明日の夜の【殺戮】を見据えていた。

翌日の深夜。

川崎と横浜の境界に位置する、闇に沈んだ工業地帯。

海風が吹き荒れる中、錆びたコンテナが立ち並ぶトランクルームの一角に、龍也と虎伯は立っていた。

背後には、龍虎会の精鋭である鮫島を含む、十数人の兵隊が金属バットや鉄パイプを握りしめて息を潜めている。

目標のコンテナからは、微かに光が漏れ、下品な笑い声が聞こえていた。

龍也は、手に持っていた短い鉄のバールを軽く振った。

「虎伯。……扉を開けろ」

「おう」

虎伯が、コンテナの鉄扉の前に立つ。

彼は大きく息を吸い込み、右足に全身の体重を乗せた。

【破壊】

凄まじい轟音とともに、南京錠ごと鉄扉が吹き飛び、コンテナの中に激突した。

「な、なんだテメェら!?」

コンテナの中には、ジャージ姿の半グレたちが五、六人いた。

テーブルの上には、ビニール袋に入った大量の【白い粉】と、札束が積まれている。

彼らは慌てて近くにあったサバイバルナイフやスタンガンを手に取った。

だが、彼らが構えるよりも早く、虎伯が嵐のように突入した。

「邪魔だッ!」

虎伯の丸太のような腕が振り抜かれる。

先頭にいた男の顔面に拳がめり込み、男は後方のスチール棚ごと吹き飛んで気絶した。

「殺せ! ガキ共だ!」

半グレの一人が、ナイフを振りかざして虎伯の背後に回ろうとする。

しかし、その男の視界の端から、音もなく忍び寄る影があった。

龍也だ。

龍也は、男の膝の裏を安全靴のつま先で冷酷に蹴り抜いた。

【崩落】

カクンと体勢を崩した男の顔面が、下へと落ちてくる。

龍也はそこへ、下からカチ上げるように、持っていた鉄のバールを容赦なく叩き込んだ。

ゴシャリ、という骨と鉄がぶつかる醜悪な音が響く。

男は顎の骨を完全に砕かれ、悲鳴を上げることもできずに血の海に沈んだ。

龍也の暴力には、やはり感情がなかった。

虫を潰すような、徹底した作業。

恐怖で足を止めた別の男の足の甲をバールで打ち砕き、這いつくばった相手の後頭部を踏みつけて完全に沈黙させる。

わずか数分。

コンテナの中は、半グレたちの呻き声と、血の匂いで満たされた。

外で待機していた鮫島たちが、恐る恐る中へ入ってくる。

龍虎会の兵隊たちは、龍也と虎伯の二人が作り出した地獄絵図に、ただ震えることしかできなかった。

「鮫島。……現金と粉を回収しろ」

龍也は、バールについた血を半グレのジャージで拭き取りながら指示を出した。

鮫島が慌ててテーブルの上のものをボストンバッグに詰め込む。

現金はおよそ三百万。そして、大量の白い粉。

龍也は、バッグの中の白い粉の袋を一つ手に取り、ジッポーの光で照らして見つめた。

それがどれほどの価値を持ち、どれほどの人間を狂わせるものか、15歳の彼にはまだ完全には理解できていない。

だが、龍也の直感が告げていた。

これをすべて、あの警察に渡すのは【損】だと。

龍也は、粉の袋を一つだけ抜き取り、自分のモッズコートの深い内ポケットに隠した。

「龍也……? お前、それ……」

虎伯が驚いたように声をかける。

「保険だ。……佐藤の野郎に、俺たちの命綱を完全に握らせるわけにはいかない」

龍也は、氷のような冷たさで微笑んだ。

「この粉を持っていれば、いつか必ず、あいつを裏から操るための『毒』になる」

15歳の中学生が、警察権力とヤクザを同時に出し抜こうとしている。

虎伯は、龍也の底知れない闇の深さに、初めて背筋が凍るような恐怖を覚えた。

「さあ、帰るぞ。……俺たちの『分け前』をもらいにな」

龍也はコンテナの外に出ると、冬の凍てつく空を見上げた。

彼らはもはや、ただの不良ではない。

【大人たちの盤上】へと足を踏み入れ、そこでゲームを支配しようとする狂気のプレイヤーになりつつあった。

だが、彼らが手を出した「白い粉」の背後に、どれほど巨大で残酷な組織が控えているのか。

それを知ることになるのは、もう少し先の話だ。

1996年、冬。

横浜の冷たい海風が、彼らの血塗られた手を優しく撫でていった。

【第5話:見えない銃口、女の影】へ続く。

【新規登場人物紹介】

【謎の組織の影(本職の極道)】

所属: 広域指定暴力団(後日詳細が明かされる)

人物像: 今回龍也たちが潰したトランクルームの半グレたちの、真のケツ持ち。末端を潰されたこと、そして「白い粉」が警察とガキの手に渡ったことで、いよいよ【龍虎会】を本気で潰しにかかる巨大な壁。

役割: 龍也と虎伯に、子供の暴力が通用しない「本物の殺し合い」の世界を叩き込む存在。

桑原くわばら つばさの予兆】

役割: 今回龍也が隠し持った「白い粉」が、将来、冷徹な闇金業者・桑原翼との決定的な出会い、あるいは取引の【手札】として機能していくことになる。彼女の影が、徐々に物語に近づき始める。

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