龍虎の境界 ―第5話:見えない銃口、女の影―
1996年、12月。
横浜に、みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。
深夜の港湾地帯。
街灯一つない第十七埠頭の片隅に、黒いセダンがエンジンをかけたまま停まっている。
排気ガスが白く煙る中、大澤龍也は傘もささずに立っていた。
黒いモッズコートのフードは下ろし、肩まで伸びた長い髪が雨に濡れて顔に張り付いている。
夜だというのに外さない漆黒のサングラスには、セダンのテールランプが赤く不気味に反射していた。
その後ろには、白岩虎伯が腕を組んで仁王立ちしている。
短く刈り込んだ金髪の坊主頭から、雨水が滝のように滴り落ちる。
その隆起した首の筋肉は、寒さからではなく、目の前の男に対する強烈な殺意によって限界まで張り詰めていた。
セダンの窓がゆっくりと下りる。
中から顔を出したのは、神奈川県警少年課の悪徳刑事、佐藤だった。
【取引】
佐藤は、窓から顔を出さずに助手席のドアのロックを解除した。
「乗れよ、少年。風邪引くぜ」
龍也は無言で助手席のドアを開け、濡れた体のままシートに腰を下ろした。
虎伯は外で、周囲を睨みつけるように警戒を続けている。
車内には、暖房の熱気と、佐藤の安っぽいオーデコロンの匂いが充満していた。
龍也は、モッズコートの懐から黒いボストンバッグを取り出し、佐藤の膝の上に無造作に落とした。
「……確認しろ」
佐藤がニヤリと笑い、バッグのジッパーを開ける。
中には、昨日トランクルームから強奪した大量の札束と、透明なビニール袋に小分けされた【白い粉】が詰まっていた。
佐藤は札束の厚みを指で弾き、粉の袋を一つ手に取って光にかざす。
「上出来だ。……お前ら、本当に中坊か? 手際が良すぎて恐ろしくなるぜ」
佐藤は粉をバッグに戻し、札束の半分――約百五十万円――を抜き取って、龍也の膝の上に投げ返した。
「約束の半分だ。取っとけ」
龍也は札束を一瞥しただけで、コートのポケットにねじ込んだ。
サングラスの奥の瞳は、一切の感情を佐藤に見せていない。
「木場の件は、これでチャラだ。……だが、これからも俺のために働いてもらうぜ、龍虎会」
佐藤がタバコに火を点け、その煙をわざと龍也の顔に向けて吐き出した。
「お前らは俺の『飼い犬』だ。警察の首輪がついてりゃ、この街の不良共は誰も手出しできねえ。……悪くない話だろ?」
【冷徹】
龍也は、顔にかかった煙を振り払うこともしなかった。
ただ、ポケットの中でジッポーライターの冷たい金属肌を指先でなぞる。
「……用はそれだけか」
「あ? ああ、今日はな」
「なら、降りる」
龍也はドアを開け、再び冷たい雨の中へと出た。
「おい、龍也くん」
背後から佐藤の声が追ってくる。
「調子に乗るなよ。お前らが強がれるのは、あくまで『ガキの遊び場』の中だけだ。本物の大人を怒らせたら、お前らのその拳なんて、一秒でただの肉塊に変わるんだからな」
セダンの窓が閉まり、タイヤが水しぶきを上げて走り去っていった。
赤色灯の消えた港に、再び重い静寂と雨音だけが残される。
虎伯が龍也の隣に歩み寄り、去っていくセダンに向かって地面に唾を吐き捨てた。
「……龍也。あんなポリ公、いつか俺がぶっ殺してやる」
「放っておけ。あいつはもう、俺たちの手の中だ」
龍也は、コートの深い内ポケットに手を差し込んだ。
そこには、佐藤に渡さなかった【保険】――抜き取った数袋の白い粉が、冷たく息を潜めている。
「……行くぞ、虎伯。この金で、少し準備をする」
だが、龍也のその計算は、まだ「大人の裏社会」の恐ろしさを完全に理解していない、15歳の少年の浅知恵に過ぎなかった。
その現実を思い知らされるのは、わずか三日後のことだった。
【報復】
三日後の夜。
横浜の古びた雑居ビルが立ち並ぶ裏路地。
龍也の携帯電話(鮫島から取り上げたもの)が、無機質な電子音を響かせた。
相手は、龍虎会の末端として動かしている二中の不良の一人だった。
『りゅ、龍也さん……! た、助けて……! 鮫島さんが……!』
電話越しの声は、泣き叫ぶようなパニック状態に陥っていた。
龍也と虎伯が指定された廃工場に駆けつけると、そこには異様な光景が広がっていた。
工場の天井のクレーンから、太いロープで宙吊りにされている男がいる。
鮫島だった。
「鮫島……!」
虎伯が駆け寄ろうとした瞬間、暗闇の中から乾いた音が響いた。
【破裂音】
パンッ、という、爆竹のような、しかしもっと重く硬い音。
「ぐあぁぁぁぁぁッッ!!」
宙吊りにされた鮫島が、狂ったように身をよじって絶叫した。
鮫島の右肩から、黒黒とした血が噴き出している。
虎伯の足が、強烈な本能の警鐘によってピタリと止まった。
「……動くなよ、金髪のボウズ」
暗がりから、ゆっくりと歩み出てきた男がいた。
高級なスーツの上に黒いチェスターコートを羽織り、手には鈍く黒光りする金属の塊を握っている。
トカレフ。
本物の、拳銃だった。
男の背後からは、同じように黒服を着た屈強なヤクザが五人、音もなく現れ、龍也と虎伯を取り囲んだ。
「お前らが、噂の龍虎会か」
スーツの男が、銃口から立ち上る硝煙をフッと息で吹き飛ばす。
その顔には、一切の感情がない。
龍也が不良たちに向ける冷徹さとは違う、完全に「命のやり取り」を業務としてこなすプロの顔だった。
「うちの若い衆が管理してた『粉』の倉庫、派手に荒らしてくれたな。……しかも、ブツごと持ち去りやがって」
男が銃口を、今度は龍也の眉間へと向けた。
【死の境界線】
龍也のサングラスの奥で、瞳孔がわずかに収縮する。
どれだけ喧嘩が強くても、どれだけ関節を折るのが上手くても。
指先一つ、数ミリの引き金を引かれるだけで、自分の頭蓋骨が吹き飛ぶ。
圧倒的な、暴力の質の差。
これが、「大人の世界」のルールだった。
「ガキの遊びに本職が出張るのはみっともねえが、筋は通させてもらう。……ブツはどこだ?」
男の冷たい声が、廃工場に響く。
虎伯が、歯をギリギリと食いしばりながら、拳を握りしめた。
動けば、撃たれる。
だが、このままでは龍也が殺される。
龍也は、銃口を向けられたまま、ゆっくりとサングラスを外した。
濡れた長い髪の隙間から、男を真っ直ぐに見据える。
「……ブツは、警察が持っていった」
「警察?」
「少年課の佐藤という刑事だ。俺たちはそいつに金で雇われて、倉庫を襲っただけだ。……信じないなら、佐藤を洗えばいい。あんたらの組織なら、その程度の裏付けは取れるはずだ」
龍也の口調は、死を前にしてもなお平坦だった。
男は龍也の目を数秒間じっと見つめ、やがて低く笑った。
「……なるほど。あのネズミ野郎が、ガキを使って小遣い稼ぎか」
男は銃を下ろし、コートのポケットにしまった。
「いい面構えだ、ロン毛のガキ。……だが、落とし前は落とし前だ。お前らがうちのシマを荒らした事実に変わりはねえ」
男が顎でしゃくると、黒服の一人が、持っていた鉄パイプで、宙吊りになっている鮫島の左膝(龍也が砕かなかった方の、無事な膝)を、容赦なくフルスイングで打ち砕いた。
【粉砕】
ゴシャッ、という湿った音と同時に、鮫島が泡を吹いて気を失う。
「ひっ……!」
龍虎会の末端の少年たちが、恐怖で腰を抜かし、その場で失禁した。
「今日はこれくらいで勘弁してやる。……だが、次に俺たちの邪魔をしたら、次はお前ら二人の頭に鉛玉をぶち込む」
ヤクザたちは、気絶した鮫島を放置したまま、暗闇の中へと消えていった。
静寂が戻った工場で、虎伯が荒い息を吐き出しながら膝をついた。
「……龍也。俺ら、とんでもない地雷を踏んじまったな」
龍也は外したサングラスを胸ポケットにしまい、気を失ってぶら下がっている鮫島を冷たく見上げた。
「……いや、違う」
「何が違うんだよ! あいつら、本物のハジキ持ってたんだぞ!」
「だからだ。……俺たちの『力』が足りないだけだ」
龍也は、ポケットの中にある白い粉の感触を確かめた。
拳だけでは、銃には勝てない。
子供の徒党だけでは、大人の組織には勝てない。
なら、どうするか。
答えは一つだ。
大人の世界に食い込み、裏社会のルールと道具(武器)を手に入れるしかない。
「……虎伯。鮫島を病院の前に捨ててこい」
「龍也、お前はどこに行くんだ?」
龍也は、冷たい雨の降る外へと歩き出した。
「……あの粉を、金と『力』に換えてくれる人間を探す。心当たりがある」
【遭遇】
深夜三時。
横浜・伊勢佐木町の裏通り。
ネオンの光が水たまりに反射する、猥雑で危険な匂いのする路地裏。
その一角にある、雑居ビルの地下。
看板の出ていない重い鉄扉を、龍也は躊躇なくノックした。
しばらくして、扉が内側から開く。
「……こんな時間に、迷子かい?」
隙間から顔を出したのは、甘い香水の匂いを漂わせた、二十代前半と思われる女だった。
肩まで切り揃えられた黒髪。
透き通るような白い肌と、血のように赤い口紅。
そして、どんな暴力にも屈しないような、冷酷で知的な光を宿した細い瞳。
桑原 翼だった。
裏社会の資金洗浄、もぐりの闇金、そしてあらゆる非合法な取引を仲介すると噂される、若き女フィクサー。
翼は、目の前に立つ濡れ鼠の少年――龍也を上から下まで値踏みするように眺めた。
「……中学生が来る場所じゃないわよ。お小遣いが欲しいなら、パパに頼みなさい」
翼が扉を閉めようとした瞬間。
ダンッ。
龍也の安全靴が、扉の隙間に割り込んだ。
【交渉】
「小遣いはいらない。……『力』が欲しい」
龍也は、コートの内ポケットから、例の【白い粉】の入った袋を取り出し、翼の目の前に突きつけた。
翼の目が、わずかに見開かれる。
「……それをどこで? あんた、自分が何を持ってるか分かってるの?」
「これが何かの『種』になることくらいは分かっている。……これを金に換えてくれ。そして、俺に『銃』を売ってくれる人間を紹介しろ」
龍也の狂気じみた要求に、翼は呆れたようにため息をついた。
だが、その直後、彼女の唇の端が三日月のように吊り上がった。
「……ふふっ。面白いガキね。目だけは、一丁前に『人殺し』の目をしている」
翼は扉を大きく開け、龍也を地下の暗闇へと招き入れた。
「入りなさい。……でも、私の犬になる覚悟がないなら、今すぐ海に飛び込んで死になさい。その方が、ヤクザに内臓を売られるよりマシな死に方ができるわよ」
龍也は迷うことなく、その暗闇へと足を踏み入れた。
【契約】
1996年、冬。
大澤龍也は、自らの意思で、桑原翼という名の「底なし沼」へと身を投じた。
それは、彼が本物の闇金として、そして冷酷な裏社会の支配者として覚醒するための、決定的な儀式であった。
そしてこの時、表の世界に取り残された虎伯が、後に「源さん」と呼ばれる謎の老人と出会い、全く別の道を歩み始めることになろうとは。
まだ、誰も知らない。




