龍虎の境界 ―第3話:夜の匂い、血の匂い―
1996年、11月。
横浜の海から吹き付ける風は、すでに冬の切っ先を隠し持っていた。
重油と塩、そして錆が混ざり合った特有の匂いが、夜の港湾地帯に薄暗く淀んでいる。
廃棄されたコンテナの影。
大澤龍也は、積み上げられた木製パレットの上に腰を下ろし、ジッポーライターの蓋を開け閉めしていた。
カチッ、カチッ。
金属音が、冷たい空気の中に吸い込まれていく。
龍也の足元には、右足を引きずりながら歩く鮫島が立っていた。
かつて二中を仕切っていた男は、今や完全に龍也の「集金係」として飼い慣らされている。
鮫島は、震える手で茶封筒を龍也に差し出した。
「……龍也さん。今週の、三中と四中からの上納金です。全部で、十二万」
龍也はライターをしまい、封筒を受け取った。
中身の札束を指先で弾き、一切の感情を交えずに数える。
【検品】
「……一万、足りないな」
龍也の平坦な声に、鮫島の肩がビクッと跳ね上がった。
「す、すいません! 四中の連中が、集金に向かう途中で襲われて……カツアゲされたらしくて」
「誰に?」
「『夜犬』です。隣町の、高校生や中卒のガキが溜まってる暴走族で……ケツ持ちに、本職のヤクザがついてるって噂の……」
龍也は、手の中の札束を封筒に戻し、無造作にパレットの上に投げた。
「夜犬……。狂犬病の野良犬か」
その時、離れた場所で鉄骨を担いでスクワットをしていた虎伯が、重い音を立てて鉄骨を地面に落とした。
【地響き】
虎伯は首のタオルで汗を拭いながら、ゆっくりと近づいてきた。
寒空の下だというのに、彼の体からは白い湯気が立ち上っている。
「龍也。そいつら、俺らのシマ荒らしたってことか?」
「荒らしたんじゃない。俺たちの『システム』に不具合を起こしたんだ。……修正が必要だな」
龍也は立ち上がり、黒いモッズコートの襟を立てた。
「鮫島。そいつらの溜まり場はどこだ」
「えっ……い、行くんですか!? 相手は十九歳とかですよ! しかも、刃物も平気で振り回すような連中で……!」
「案内しろ。それとも、お前の残った左膝も砕かれたいか?」
龍也の漆黒の瞳に見下ろされ、鮫島はヒッと短い悲鳴を上げ、首を激しく縦に振った。
横浜の外れにある、廃業した自動車整備工場。
シャッターは半分閉まり、中からは安っぽいヒップホップの重低音と、シンナーの甘ったるい匂いが漏れ出していた。
そこが、暴走族『夜犬』のアジトだった。
工場の中では、リーダーである木場が、改造バイクのシートに跨りながら、奪ったばかりの一万円札をヒラヒラとさせて笑っていた。
「一中だか二中だか知らねえが、中坊が徒党組んでイキってやがる。俺ら『夜犬』の縄張りで小銭稼ぐなら、ショバ代払うのが筋ってもんだろ」
周囲にいる十数人のメンバーたちが、下品な笑い声を上げる。
「ですよねぇ、木場さん。なんか『龍虎』とかいう名前らしいっすよ。笑っちゃいますよね」
その言葉が、薄汚れた工場の空気に溶け込む前に。
【轟音】
半開きになっていた重い鉄のシャッターが、外側からの凄まじい衝撃によって、レールの枠ごと内側へと吹き飛んだ。
「な、なんだぁ!?」
木場がバイクから転げ落ちるようにして立ち上がる。
土煙が舞う中、ひしゃげたシャッターを踏み越えて、二つの影がゆっくりと入ってきた。
「……防音設備がなってないな。外までダサい音楽が聞こえてるぞ」
龍也だった。
その隣には、全身から殺気を湯気のように立ち上らせた虎伯が立っている。
「て、テメェら……何者だ!」
木場が叫ぶと同時に、周囲のメンバーたちが鉄パイプやチェーンを手に、一斉に二人を取り囲んだ。
龍也は、工場の床に散らばった工具やオイルの染みを、まるで物件の下見でもするように冷ややかな目で見回した。
「お前が、木場か」
「あぁ!? そうだが、それがどうした!」
「俺の金に手を出した落とし前をつけに来た。……虎伯、三分で終わらせるぞ」
「一分で十分だ」
【開戦】
虎伯が、弾かれたように前へと飛び出した。
チェーンを振り回して威嚇してきた男の顔面に、虎伯の裏拳が叩き込まれる。
チェーンが空を切るよりも早く、男の顎の骨が粉砕される音が響き渡った。
「がはッ……!」
男が血の泡を吹いて吹き飛ぶ。
虎伯は止まらない。
迫り来る鉄パイプを太い腕で受け止め、そのまま相手の顔面を掴み、近くのドラム缶に全力で叩きつけた。
ゴァン! という鈍い反響音とともに、ドラム缶が大きく凹む。
「ヒィッ……化け物……!」
恐怖に足を止めた別の男の腹部に、虎伯の前蹴りが突き刺さる。
内臓が破裂するかのような衝撃。
男は「く」の字に折れ曲がり、胃液を撒き散らしながら床に転がった。
その狂乱の嵐をすり抜けるように、龍也は真っ直ぐに木場へと歩み寄っていた。
「テメェ……ガキの分際で舐めんじゃねえぞ!!」
木場が懐から飛び出しナイフを引き抜き、龍也の腹部をめがけて刺突を放った。
刃先が空気を裂く。
だが、龍也は表情一つ変えず、最小限の動きで体を半身に開いてそれを躱した。
同時に、龍也の左手が木場のナイフを持った右手首を、万力のように掴み上げる。
「……っ! 離せッ!」
「刃物の使い方が素人だな。重心が浮いてる」
【作業開始】
龍也は、木場の腕を掴んだまま、すぐ横にあった整備用の万力が設置された重い作業台へと、彼を強引に引きずり込んだ。
「な、何すんだ……!」
龍也は木場の右手を、油まみれの作業台の上に押し付ける。
そして、その辺に転がっていた工業用の重いハンマーを、右手で拾い上げた。
「お前が俺のシステムから盗んだのは、一万円だ」
龍也の声は、隣で虎伯が暴れ回る怒声や悲鳴の中でも、異様なほどクリアに木場の耳に届いた。
「一本、一万の計算でいいな」
「は……? ま、待て、お前、何言って……」
振り下ろされたハンマーのヘッドが、木場の右手の小指を正確に叩き潰した。
【破断】
グチャリ。
肉と骨が同時にペースト状に変わる、おぞましい音。
「あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」
木場が、この世のものとは思えない絶叫を上げる。
だが、龍也は木場の腕をガッチリと固定したまま、ハンマーを再び軽く持ち上げた。
「……痛いのか? でも、まだ回収が終わってない」
龍也の瞳には、サディスティックな歓喜すらない。
ただ、狂気的なまでの【事務処理】の冷たさだけがあった。
「薬指。これで二万」
ゴシャリ。
「ぎゃあぁぁぁぁッ! やめろ! 金は返す! 返すからぁッ!」
木場が涙と鼻水と涎を垂らし流し、必死に命乞いをする。
だが、龍也のハンマーは止まらない。
「中指。これで三万」
【粉砕】
「ひっ、あ、あぎぃッ……」
木場の目はすでに焦点が定まらず、恐怖と激痛でショック状態に陥りかけていた。
作業台の上は、木場の指から流れ出た血で赤黒く染まっている。
「龍也。……もういいだろ。そいつ、ショック死するぞ」
いつの間にか周囲のメンバーをすべて制圧し終えた虎伯が、血まみれの拳を下げて声をかけた。
龍也はハンマーを下ろし、木場の髪を掴んでその顔を引き上げた。
「木場。……お前のケツ持ちのヤクザに伝えろ。次に俺たちの集金に手を出したら、次は指じゃなく、首の骨を折りに行くってな」
龍也が手を放すと、木場は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
龍也は、作業台に置いてあった工業用のウエス(布)で、ハンマーの柄と自分の指についた血を丁寧に拭き取った。
「……帰るぞ、虎伯」
凄惨な地獄絵図と化した工場に背を向け、龍也と虎伯は夜の闇の中へと歩き出した。
【監視者】
だが、彼らは気づいていなかった。
工場の少し離れた場所に停められた、目立たない黒いセダンの存在に。
運転席の窓が少しだけ開き、そこから紫煙が細く立ち上っている。
神奈川県警・少年課の悪徳刑事、佐藤だった。
佐藤は、工場から出てきた二人の少年の姿を、暗視カメラのファインダー越しにじっと見つめていた。
「……驚いたな。ただのガキの喧嘩かと思えば、あれは完全に『殺し』の目だ」
佐藤は吸いかけのタバコを窓の外に弾き飛ばし、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「大澤龍也、白岩虎伯……。あの凶暴性と統率力、上手く使えば、極道のシノギを潰す『鉄砲玉』として最高の手駒になるかもしれないな」
1996年、冬の足音が聞こえる夜。
龍虎の二人は、自らの手で放った血の匂いによって、いよいよ本格的な【大人たちの盤上】へと引きずり込まれようとしていた。
【第4話:黒い名刺、白い粉】へ続く。
【新規登場人物紹介】
【木場】
所属: 暴走族『夜犬』リーダー(19歳)
人物像: 地元のヤクザをケツ持ちにし、中学生や高校生から小銭を巻き上げていたチンピラ。龍也の「システム」を邪魔したことで報復に遭う。
役割: 龍也の【冷徹な狂気】を読者と裏社会に見せつけるための生贄。右手の指をハンマーで粉砕され、再起不能となる。
【佐藤】
所属: 神奈川県警 少年課 刑事
人物像: 警察という権力を傘に着て、裏社会と密接に癒着している悪徳刑事。未成年の不良たちを使い捨ての駒として利用し、自らの利益を貪る。
役割: 龍也と虎伯の存在にいち早く目をつけ、彼らを「大人の事情」に巻き込んでいく最初のフィクサー。彼らの破滅への道筋を敷く、狡猾な大人。




