龍虎の境界 ―第2話:百の屈服、千の胎動―
1996年、秋の気配が混じり始めた9月。
横浜の繁華街から外れた、高架下。
常に電車の轟音が鳴り響くその真下に、ひっそりと営業を続ける古びたゲームセンターがあった。
店内には、焦げた基盤の匂いと、安っぽいタバコの煙が充満している。
床はこぼれたジュースで黒く変色し、歩くたびに靴の裏がねちゃりと張り付く。
【喧騒】
電子音と怒声が交差する薄暗い店内の奥。
二中を裏で取り仕切る不良グループのリーダー、鮫島は、格闘ゲームの筐体に八つ当たりの蹴りを叩き込んでいた。
「クソが……ッ! 使えねえ連中だ!」
鮫島は、苛立ちとともに咥えていたタバコを床に吐き出し、靴の裏で乱暴に踏み潰した。
彼の周囲には、二中の不良たちが二十人ほどたむろしている。
誰もが鮫島の顔色を窺い、息を潜めていた。
彼らが怯えているのは、鮫島の怒りに対してだけではない。
数日前から横浜の中学不良界隈を席巻している、ある「噂」のせいだった。
一中のトップである佐伯が、市営住宅に住むたった二人のガキに再起不能にされた。
しかも、右手を完全に破壊されるという、異常な手口で。
【襲来】
その時、ゲームセンターの入り口の自動ドアが、重苦しい音を立てて開いた。
逆光の中に、二つのシルエットが立っている。
一人は、周囲の空気を圧迫するような巨体の少年。
もう一人は、痩せぎすで、どこまでも静かな足取りの少年。
白岩虎伯と、大澤龍也だった。
店内の電子音が、急に遠ざかったように感じられた。
二中生たちの視線が、入り口の二人に釘付けになる。
龍也は、ねちゃつく床を気にする素振りも見せず、ゆっくりと店内の中央へ歩を進めた。
その瞳は、まるで路傍の石を数えるような、無機質な光を帯びていた。
鮫島が、引き攣った笑いを浮かべて立ち上がる。
「……お前らが、噂の『龍虎』か。こんなシケたゲーセンに、何の用だ?」
鮫島は虚勢を張りながら、ポケットの中に隠し持っていたメリケンサックを右手に装着した。
金属の冷たい感触が、彼にわずかな勇気を与える。
龍也は、鮫島から三歩離れた場所で立ち止まった。
「二中は、お前が頭だと聞いた」
「あ? そうだが」
「なら、話は早い」
龍也は、傍らにあった両替機の上に置かれていた、分厚いガラスの灰皿を手に取った。
吸い殻が詰まったそれは、凶器としては十分すぎる重さを持っている。
「今日から、二中は俺たち【龍虎会】の傘下に入る。お前らの集めた上納金も、兵隊も、すべて俺が管理する」
龍也の平坦な声が、薄暗い店内に響いた。
鮫島の顔が、屈辱と怒りで朱に染まる。
「……ナメてんのか、市営住宅の貧乏人が! 殺せ!!」
鮫島の号令で、周囲を取り囲んでいた二十人の不良が一斉に飛びかかった。
【蹂躙】
「退け」
虎伯の低く太い声が轟いた。
彼は先頭で飛び込んできた男の胸倉を掴むと、そのまま横のアーケード筐体に向かって全力で放り投げた。
【破砕】
凄まじい音を立てて、筐体のブラウン管ガラスが粉々に砕け散る。
男は火花を散らす基盤の上に突っ込み、白目を剥いて痙攣した。
「……化け物かよ」
二中生たちの足が止まる。
虎伯は、首をボキリと鳴らしながら、獰猛な笑みを浮かべた。
「お前ら全員、俺一人で十分だ」
虎伯が群れの中に飛び込んでいく。
それは喧嘩ではなく、一方的な【除雪作業】のようだった。
虎伯の丸太のような腕が振るわれるたびに、少年たちが宙を舞い、床に叩きつけられていく。
その狂乱の只中で、龍也だけが静かに動いた。
彼は、乱戦を避けるように歩き、ただ真っ直ぐに鮫島へと向かっていく。
鮫島は恐怖を振り払うように、メリケンサックを装着した右拳を、龍也の顔面に向かって全力で振り抜いた。
だが、龍也はその軌道を完全に見切っていた。
わずかに首を傾けて拳をかわすと同時に、龍也の左手が鮫島の右腕を蛇のように絡め取る。
「ぐっ……!?」
龍也は鮫島の腕を引き込みながら、自らの体を反転。
そして、手に持っていたあの分厚いガラスの灰皿を、鮫島の右膝の側面に、一切の躊躇なくフルスイングで叩き込んだ。
【破壊】
ゴキリ、という、硬い木の枝をへし折るような音が鳴った。
「あ……ぎぃぃぃぃぃぃッ!?」
鮫島の膝が、あり得ない方向へ折れ曲がる。
絶叫とともにその場に崩れ落ちようとする鮫島の髪を、龍也は冷酷に掴んで引き上げた。
「うるさい」
龍也は、鮫島の顔面を、隣の筐体の鋭利な角へと叩きつけた。
鈍い音が響き、鮫島の口から鮮血と、折れた前歯が二本、床にこぼれ落ちる。
龍也は鮫島の首を絞め上げ、自分の顔のすぐ近くまで引き寄せた。
龍也の瞳には、怒りも、勝利の優越感もない。
ただ、狂気的なまでの【合理性】だけが張り付いていた。
「……いいか、鮫島。これは喧嘩じゃない。『吸収合併』だ」
龍也は、泣き叫ぶ鮫島の耳元で、静かに囁く。
「お前の膝はもう治らないかもしれないが、頭を使えばまだ生きられる。……俺の犬として働くか、それとも、今ここで残りの足と両腕を全部折られて、一生ベッドの上で過ごすか。選べ」
龍也が、再びガラスの灰皿を高く振り上げる。
その一切の感情を排した目を見て、鮫島は理解した。
この男は、本気だ。
自分の手足を壊すことに、微塵の罪悪感も抱いていない。
「ま、待ってくれ……! 分かった……! 従う! 従うから……ッ!」
鮫島が血まみれの顔で命乞いをした瞬間、店内の空気が完全に凍りついた。
虎伯に叩きのめされ、床を這いつくばっていた二中の不良たちも、自らのリーダーが完全に屈服した姿を見て、絶望に顔を歪めた。
【制圧】
龍也は灰皿をその場に放り捨て、鮫島の髪から手を放した。
鮫島は床に崩れ落ち、折れた膝を抱えて呻いている。
龍也は、ポケットからハンカチを取り出し、指に付いた血を丁寧に拭き取った。
「……賢明な判断だ。明日から、お前ら二中の五十人は、俺たち【龍虎会】の末端として動く」
龍也は店内を見渡し、恐怖で震える少年たちに冷たく言い放った。
「俺の命令は絶対だ。裏切りも、失敗も許さない。……立てない奴は置いていく。歩ける奴だけ、俺について来い」
龍也は背を向け、自動ドアの方へと歩き出した。
虎伯が、倒れた不良たちを跨ぎながらその後を追う。
外に出ると、高架下には相変わらず濁った空気が淀んでいた。
「龍也。あいつら、本当に使えるのか?」
虎伯が、首の汗を拭いながら尋ねる。
「使えるかどうじゃない。使えなくなるまで【使う】んだ」
龍也は、ジッポーライターで煙草に火を点けた。
青白い煙が、横浜の夜の闇に溶けていく。
「これで、一中と二中を飲み込んだ。手駒は百を超えたはずだ」
「百か。……千まで、あと九百だな」
虎伯が獰猛に笑う。
二人の少年は、着実に地獄への階段を上り始めていた。
彼らが築き上げる【龍虎会】という名の暴力の塔が、やがて大人たちの目に留まり、彼ら自身を押し潰す巨大な墓標になるとは知らずに。
【第3話:夜の匂い、血の匂い】へ続く。
【新規登場人物紹介】
【鮫島】
所属: 横浜第二中学校 3年(旧二中不良グループリーダー → 龍虎会 傘下)
人物像: 二中を力と数で支配していた小柄な男。狡猾でプライドが高いが、龍也の常軌を逸した冷徹な暴力の前に心が折れ、完全な服従を誓う。
役割: 龍也に右膝を破壊され、機動力を失ったことで、暴力ではなく「情報収集」や「末端の資金集め」といった裏方の役割を担わされていくことになる。龍虎会における最初の幹部(後の四天王の一人)となるが、常に龍也への恐怖を抱き続けている。




