龍虎の境界 ―第27話:横須賀の要塞、雪と血の静寂―
2003年、冬。
深夜の横須賀。
切り立った崖の上に建つ、相模会本家会長の別荘は、吹き荒れる吹雪の中で異様な威容を誇っていた。
灰色のコンクリートで覆われた巨大な建造物は、別荘というよりは完全なトーチカだ。周囲は高さ三メートルの鋼鉄のフェンスに囲まれ、四隅には強力なサーチライトが設置されている。
眼下には、鉛色にうねる冬の海。波が崖に打ち付ける重い音が、腹の底を絶え間なく揺らしている。
フェンスの内側、雪の積もる広大な前庭には、数十人の完全武装した構成員たちが、白い息を吐きながら巡回していた。
全員が防弾仕様のタクティカルギアを着込み、手には軍用の自動小銃が握られている。
「……こんな雪の中、本当にあのガキ二人が来るのかよ」
見張りの一人が、寒さに震えながら隣の男に小声でこぼす。
「溝口の爺さんも、柴田の武器庫も、一晩で消されたんだ。……会長は完全に怯えきってる。百人の兵隊を集めて、朝までここを一歩も動く気はないらしい」
男たちが、重い鉄格子の正門を見つめる。
道は一本しかない。正面から来るしかなく、もし来れば、百丁の自動小銃による一斉射撃で蜂の巣になる。それは絶対的な、数と火力の論理だった。
【観測者】
同じ頃。
別荘から数キロ離れた、横須賀市内のビジネスホテルの一室。
暗い部屋の中で、ノートパソコンの青白い画面の光だけが、桑原翼の冷たい横顔を照らしていた。
テーブルの上には、飲みかけの赤ワインと、龍也が財務委員長の溝口から奪い、翼にデータを転送させた相模会本家のセキュリティコードの解析プログラムが走っている。
(……相模会のシステムは、もう死に体よ)
翼は、グラスのワインを無表情に煽った。
彼女の指先が、キーボードを静かに叩く。画面に『横須賀別荘・主電源アクセス許可』の文字が浮かび上がる。
翼の役割は、ここまでだ。
彼女は海外へ逃亡するための偽造パスポートを傍らに置き、パソコンのエンターキーに指を乗せた。
「……大澤くん。これが、私からの最後の手向けよ。あんたの望む地獄を、存分に楽しみなさい」
カチャッ。
翼の指がキーを押し込んだ瞬間。
【暗転】
数キロ先の崖の上に建つ別荘の、すべての照明、そして周囲を照らしていた巨大なサーチライトが、完全に息を絶えた。
「な、なんだ!? 停電か!?」
「予備電源を起動しろ! 早くしろ!」
暗闇に包まれた前庭で、構成員たちの怒号が飛び交う。
サーチライトが消えたことで、彼らの視界は猛吹雪の白と、夜の黒に完全に閉ざされた。
だが、パニックは数秒しか続かなかった。
ズドォォォォォォンッ!!
吹雪の音を切り裂き、大砲のような規格外の爆音が、正門の方向から轟いた。
直後、高さ三メートルの鋼鉄の門の鍵部分が、物理的な質量によって完全に粉砕され、重い鉄扉が内側へと弾け飛んだ。
「ひぃッ!?」
門の近くにいた構成員が、吹き飛んだ鉄扉の下敷きになり、雪の中に沈む。
重い静寂が、一瞬だけ場を支配した。
開け放たれた門の向こう、吹雪の闇の中から、二つの影がゆっくりと歩み出てくる。
黒いロングコートの男と。
血に染まったミリタリージャケットの巨漢。
大澤龍也の右手に握られた巨大な鋼の塊、デザートイーグル.50AEの銃口からは、チリチリと熱を帯びた硝煙が、雪を溶かしながら立ち昇っていた。
白岩虎伯の右手には、どこかの工事現場から引き抜いてきた、先端にコンクリートの塊がついたままの太い鉄筋が握られている。
【蹂躙の開始】
「撃てェッ!! 殺せェェッ!!」
暗闇の中で、構成員の一人が絶叫し、自動小銃の引き金を引いた。
無数のマズルフラッシュが闇を照らし、曳光弾が吹雪を切り裂いて二人の影へと殺到する。
だが。
ズドォォォォォォンッ!!
龍也のデザートイーグルが、再び火を噴いた。
放たれた50口径の鉛玉は、先頭で銃を乱射していた男の腹部に着弾し、その背後にいたもう一人の男の胸部をも纏めて貫通した。
「あ」という間抜けな音だけを残し、二人の男の胴体が真ん中から弾け飛び、大量の血と臓物が雪の上に花を咲かせる。
「化け、物……!」
圧倒的な破壊力に、構成員たちの射撃がほんの一瞬、恐怖で鈍る。
そのコンマ一秒の遅れが、彼らの生存限界だった。
「……オラァッ」
低く、地の底から響くような声とともに、虎伯が吹雪を裂いて跳躍した。
砕けた右膝を引きずっているとは思えない、強引な筋肉の収縮による突進。
虎伯の巨体が、構成員たちの陣形の中央に落下する。
彼が手にした、コンクリート片のついた鉄筋が、横凪ぎに振り抜かれた。
ゴシャァァァッ!!
嫌な、水分の多い破砕音。
鉄筋の直撃を受けた三人の構成員の頭部が、ヘルメットごと完全にひしゃげ、脳漿と眼球を撒き散らしながら雪原へと吹き飛んだ。
悲鳴を上げる間すらない、即死。
「ひ、ヒィィッ!」
隣で仲間が顔面のない肉塊に変わるのを見た男が、恐怖で後ずさる。
そこに、再び龍也の放った50口径弾が飛来する。
ズドォォォォォォンッ!!
男の右腕が肩から根本ごと吹き飛び、宙を舞う。
そのまま雪に倒れ込んだ男の顔面を、虎伯の安全靴が無造作に踏み潰した。
グチャリ、という音とともに、男の痙攣が止まる。
【死の作業】
そこから先は、戦闘ではなく、ただの「解体作業」だった。
龍也は、一切の表情を変えることなく、雪の上を滑るように移動しながら、一定のリズムでデザートイーグルの引き金を引き続ける。
反動で跳ね上がる巨大な銃身を、強靭な手首と計算された体重移動で完全に制御する。
ズドォォン。ズドォォン。
発砲のたびに、誰かの頭部が消失し、誰かの胴体が半分になり、誰かの手足がちぎれ飛ぶ。
空の巨大な薬莢が雪の上に落ち、ジュッと音を立てて雪を溶かす。
弾倉が空になれば、流れるような動作で新しい弾倉を叩き込み、再び撃ち続ける。
その瞳には、殺意すらない。ただ、目の前にある障害物を、システムに従って消去しているだけだ。
一方の虎伯は、龍也の死角をカバーするように、接近してくる者たちを物理的に粉砕し続けた。
銃剣で突っ込んでくる男の腕を掴み、そのまま関節を逆方向にへし折る。
「ぎゃあッ!」と叫ぶ男の喉仏を、空いた手で正確に握り潰す。
背後から銃を向けようとする男には、拾い上げた別の構成員の死体を「盾」として投げつけ、怯んだ隙にコンクリート付きの鉄筋を脳天に振り下ろす。
雪の積もる前庭は、わずか数分で、数十体の原型を留めない死体と、赤黒い血の池に覆い尽くされた。
「……バカな。……たった二人に、百人の部隊が……」
前庭の奥、別荘の入り口で指揮を執っていた本家の若頭が、腰を抜かして雪の上に座り込んだ。
彼の周囲にいた兵隊たちは、すでに全員が肉塊と化している。
吹雪の音と、波の音だけが戻ってきた。
静寂の中、足首まで雪と血に埋まりながら、龍也と虎伯がゆっくりと歩み寄ってくる。
龍也のロングコートは、返り血で完全に赤黒く染まり、その顔にも点々と血の飛沫がこびりついている。
虎伯のミリタリージャケットは裂け、新しい銃創から血が流れていたが、本人は痛みを感じている様子すら見せない。
「……来るな。……来るなァッ!!」
若頭が、震える手で拳銃を抜き、デタラメに発砲した。
弾丸は龍也の頬をかすめ、一筋の血の線を引いた。
だが、龍也は歩みを止めない。
瞬き一つせず、無表情のまま若頭の目の前まで歩み寄り、その顔面にデザートイーグルの銃口を押し当てた。
熱を帯びた鋼の感触に、若頭がヒィッ、と悲鳴を上げる。
「……会長は、中にいるな」
龍也の、氷のように冷たく平坦な声。
「い、いる……! 最上階のパニックルームだ! 防弾鋼板で覆われた、絶対に入れない部屋に……!」
若頭が、失禁しながらすべてを吐き出す。
「そうか」
ズドォォォォォォンッ!!
龍也は、若頭の言葉が終わるのを待たずに引き金を引いた。
顔面を吹き飛ばされた若頭の死体が、別荘の分厚いオーク材の扉に叩きつけられ、赤い染みを作る。
【絶対の扉へ】
「……行くぞ」
龍也は、空になった弾倉を排出し、コートのポケットから最後の弾倉を取り出して装填した。
虎伯は、手にした鉄筋についた血と脳髄を雪で拭い、無言で頷いた。
二人は、若頭の死体を跨ぎ、別荘の内部へと足を踏み入れた。
自家発電が作動したのか、内部の非常灯が薄暗く点灯している。
ロビーにも、階段にも、すでに彼らを止める兵隊の姿はなかった。
外の惨劇をモニターで見て、全員が逃げ出したか、会長を見捨てたのだ。
極道のシステムなど、恐怖の前では一瞬で崩れ去る薄っぺらなものだった。
階段を上り、最上階の奥。
そこには、分厚いチタン合金で作られた、パニックルームの重厚な扉があった。
暗証番号と生体認証がなければ、小型のミサイルを撃ち込んでも開かないと言われる絶対の盾。
その扉の前に、龍也と虎伯は立った。
「……さて。どうやって開ける、龍也。お前の大砲でも、この鉄の塊は抜けねえぞ」
虎伯が、分厚い扉をコンコンと叩きながら言う。
龍也は、コートの懐から、財務委員長から奪ったUSBメモリを取り出し、扉の横にある非常用のデータポートに差し込んだ。
翼が解析したパスワードを、付属のテンキーで無造作に入力していく。
ピーッ、という電子音が鳴り、分厚いチタンの扉が、油の切れた音を立ててゆっくりと開き始めた。
絶対の盾は、龍也の冷徹な計算の前に、あっさりとその腹を見せたのだ。
「……文明の利器ってやつだな」
虎伯が鼻で笑う。
開いた扉の向こう側。
そこは、窓一つない、冷たいコンクリートに囲まれた部屋だった。
部屋の中央にある高級な革張りの椅子の後ろで、一人の初老の男が、猟銃を構えてガタガタと震えていた。
相模会本家会長、大竹。
数千人の構成員を束ね、横浜はおろか、関東の裏社会の頂点に君臨する絶対の権力者。
その大竹が今、たった二人の、自分たちがかつて虫ケラのように見下していた少年たちの前に、怯えきった老犬のように縮こまっている。
「……き、貴様ら……! 俺を誰だと思っている! 相模会のトップだぞ! 俺を殺せば、関東中の極道が黙っちゃいねえぞ!!」
大竹が、裏返った声で絶叫し、猟銃の銃口を二人に向ける。
だが、龍也の漆黒の瞳には、一切の感情が動かなかった。
権力。地位。金。
大人が作り上げた、下らない虚構のシステム。
「……もう、終わったんだよ」
龍也が、ゆっくりとデザートイーグルを持ち上げる。
「お前のシステムは、俺たちが全部壊した。……お前はただの、死に損ないの老人だ」
「う、撃つな! 頼む、いくらでも……!」
大竹が猟銃の引き金を引こうとした、その瞬間。
虎伯が、手にした鉄筋を、槍投げのように大竹に向かって全力で投擲した。
ブォンッ!!
風を裂く音とともに飛来した鉄筋が、大竹の構えていた猟銃を弾き飛ばし、そのまま大竹の右肩を壁のコンクリートに縫い付けた。
「ぎゃあああああああああああああッッ!!」
大竹が、壁に磔にされたまま、痛絶な悲鳴を上げる。
虎伯が、ゆっくりと歩み寄り、大竹の胸ぐらを掴んだ。
「……源さんの分だ。……俺たちの、失われた時間の分だ」
虎伯の低い声が、パニックルームに響く。
彼は、大竹の顔面に向かって、渾身の拳を振り上げた。
ゴッ。
メチャッ。
何度も、何度も。
虎伯の拳が、大竹の顔面を打ち据える。
悲鳴はすぐに途絶え、ただ肉が潰れ、骨が砕ける無機質な音だけが響き続けた。
十分後。
壁に磔にされた大竹の体は、首から上が完全に原型を留めない肉塊と化し、ピクリとも動かなくなっていた。
虎伯は、血まみれの拳を下ろし、荒い息を吐いた。
龍也は、無言でデザートイーグルの撃鉄を戻し、コートの懐にしまう。
【静寂の果てに】
終わった。
相模会という巨大な組織は、たった二人の少年の狂気によって、完全にその心臓を破壊された。
部屋の中には、圧倒的な死の匂いと、完全な静寂だけが残った。
「……ハァ……。これで、全部か」
虎伯が、床に座り込みながら呟く。
「ああ。……俺たちの戦争は、これで終わりだ」
龍也が、血に染まったコートのポケットから、百円の使い捨てライターを取り出した。
カチッ。
火を点け、紫煙を細く吐き出す。
外からは、遠く、数え切れないほどのパトカーのサイレンが聞こえ始めていた。
これだけの惨劇だ。軍隊が来てもおかしくない。
「……龍也」
虎伯が、天井を見上げながら言う。
「俺たち、これからどうする」
龍也は、煙草を口にくわえたまま、窓のない壁を見つめた。
「分からない。……だが、俺たちが生きる場所は、もうどこにもないだろうな」
二人の男は、パニックルームの冷たい床の上で、ただ静かにサイレンの音が近づいてくるのを聞いていた。
すべてを壊し尽くした後に残った、圧倒的な虚無と、視覚的な寂寥感。
彼らの物語がどう終わるのか。
それは、雪の降る暗い海だけが知っていた。




