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龍虎の境界 ―第28話:雪解けの死線、最後の境界―

2003年、冬。

横須賀の崖の上に建つ相模会本家の別荘は、完全に死の静寂に包まれていた。

外部からは、おびただしい数のパトカーと機動隊の装甲車両が押し寄せ、赤と青の警告灯が吹雪の夜空を不気味に照らし出している。拡声器からの投降を呼びかける無機質な音声が、波の音に混じって反響していた。

最上階のパニックルーム。

壁に磔にされ、首から上が完全に消失した大竹会長の死体を見下ろしながら、大澤龍也は百円の使い捨てライターで煙草に火を点けた。

カチッ。

青白い煙が、血と臓物のひどい悪臭をわずかに誤魔化す。

龍也の漆黒の瞳は、外で鳴り響くサイレンの波をモニター越しにただ冷たく見つめていた。

「……龍也。お巡りどもが、フェンスを破って入ってくるぞ」

白岩虎伯が、コンクリートの床に座り込みながら呟く。

限界を超えた肉体。無数の銃創から流れた血は、寒さで半ば凝固し始めている。

もはや、正面突破で機動隊の盾の列を抜けることなど、物理的に不可能だった。

「……大人は狡猾だ。絶対の安全など信じていない。必ず、自分だけが逃げ延びるための『裏口』を用意している」

龍也は、紫煙を吐き出しながら、パニックルームの壁に備え付けられた巨大な金庫の横にある、小さな操作パネルへと歩み寄った。

コートのポケットから、財務委員長から奪ったUSBメモリを再び取り出し、ポートに差し込む。

短い電子音。

直後、大竹の死体が磔にされている壁の一部が、重い油圧の音を立ててスライドし始めた。

現れたのは、崖の内部へと下っていく、黒い闇に包まれた螺旋階段だった。

「……行くぞ」

龍也は、撃ち尽くして空になったデザートイーグルの弾倉を抜き、最後の予備弾倉を叩き込んだ。

スライドを引き、薬室に巨大な50口径弾を送り込む。

虎伯は、無言で鉄筋を杖代わりにし、メキメキと音を立てる右膝を引きずりながら立ち上がった。

二人は、赤と青の光が点滅するモニターに背を向け、冷たい闇の螺旋へと足を踏み入れた。

【奈落への螺旋】

螺旋階段は、どこまでも深く続いていた。

コンクリートの壁は結露で濡れ、むき出しの鉄骨は赤茶けた錆に覆われている。

一段下るごとに、海水の匂いと、腐った海藻の匂いが濃くなっていく。

カン、ズリッ。カン、ズリッ。

虎伯の引きずる足音と、鉄筋がコンクリートを擦る音だけが、等間隔で闇に響く。

会話はない。

互いの呼吸音だけが、彼らがまだ生きていることを証明する唯一のシグナルだった。

十分ほど下っただろうか。

不意に、底から吹き上げる冷たい海風が二人の顔を叩いた。

螺旋階段の終端。

そこは、崖の下に天然の洞窟を利用して作られた、コンクリート打ちっぱなしの隠し船渠ドックだった。

天井で揺れる薄暗い裸電球の下、波に揺れる黒い小型の高速艇が係留されている。

だが、その高速艇の前に、一人の男が立っていた。

灰色のスーツを着た、痩身の男。

手には銃はない。ただ、両手に青白い光を鈍く反射するセラミック製のコンバットナイフを逆手に握っている。

相模会本家の、最後のフェイルセーフ。会長の逃亡ルートを死守するためだけに配置された、名もなき暗殺者だった。

威嚇もない。

怒声もない。

龍也が、無表情のまま右手のデザートイーグルを持ち上げた、その瞬間。

ヒュッ。

空気を切り裂く微かな音。

男の左手から放たれた投擲用のナイフが、龍也の右肩に深々と突き刺さった。

「チッ……」

龍也の顔が僅かに歪み、巨大な鋼の塊が手から滑り落ちる。

ガラン、と重い音がコンクリートに響く。

その隙を突き、灰色の男が音もなく距離を詰めてきた。

右手のコンバットナイフが、龍也の頸動脈めがけて薙ぎ払われる。

だが、その刃が龍也の首に届くより早く。

「……シッ」

虎伯の巨体が、龍也の前に割り込んでいた。

男のコンバットナイフが、虎伯の腹部を深々と貫く。

だが、虎伯は痛みで立ち止まるどころか、自らの筋肉でナイフの刃を挟み込み、男の動きを完全に固定した。

「なっ……」

灰色の男の目に、初めて驚愕が浮かぶ。

虎伯は、腹にナイフを突き立てられたまま、右手の鉄筋を高く振り上げた。

先端についたコンクリートの塊が、薄暗い電球の光を遮る。

ゴシャァァァァッ!!

無慈悲な質量が、男の頭部に直撃した。

スイカをハンマーで叩き割ったような、水分を多く含んだ破砕音。

男の頭部は顎から上が完全に消失し、脳髄と血液の混ざった飛沫が、コンクリートの壁に放射状の赤い模様を描いた。

男の首なし死体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

虎伯は、腹に刺さったナイフを無造作に引き抜き、暗い海へと放り投げた。

ドス黒い血が、傷口からとめどなく溢れ出す。

「……ハァ……ハァ……。これで、本当に最後か」

虎伯が、鉄筋を支えにして荒い息を吐く。

龍也は、左手で自分の右肩に刺さったナイフを引き抜き、顔色一つ変えずに投げ捨てた。

そして、足元に落ちていたデザートイーグルを左手で拾い上げる。

スライドは後退し、弾倉は空になっていた。

投擲ナイフの衝撃で、手から落ちる瞬間に暴発し、最後の弾を使い切っていたのだ。

龍也は、その巨大な鋼の塊をじっと見つめた。

規格外の破壊力で、相模会のシステムを粉砕し続けた凶器。

「……弾切れだ」

龍也の平坦な声。

彼は、デザートイーグルを、暗く冷たい海へと放り投げた。

ボチャン、という小さな水音とともに、血塗られた鋼の塊は、二度と浮き上がることのない深い水底へと沈んでいった。

武器を捨てること。それは、彼らの破壊の旅が、完全に終了したことを意味していた。

二人は、係留されていた黒い高速艇に乗り込んだ。

【凍てつく海へ】

龍也が操縦席に座り、エンジンを始動させる。

重低音のエンジン音が、洞窟内に反響する。

高速艇は、ゆっくりと暗い洞窟を抜け、猛吹雪の吹き荒れる冬の海へと滑り出した。

外は、完全な暗黒と白の世界だった。

波は高く、容赦なく高速艇の船体を打ち据える。

氷のように冷たい海水と雪が、二人の体を容赦なく濡らし、体温を奪っていく。

遠く、崖の上では、まだパトカーの赤と青の光が小さく瞬いているのが見えた。

だが、それもすぐに吹雪の奥へと消え去った。

虎伯は、船尾の甲板に仰向けに倒れ込み、暗い空から降ってくる雪をただ見つめていた。

「……寒いな」

虎伯の唇は紫に変わり、腹からの出血は冷気によってすでに凍りついている。

体内の熱が、急速に失われていく感覚。

「ああ」

龍也は、前だけを見て舵を握り続ける。

向かっている先はない。ただ、陸から遠ざかるためだけに、波を切り裂いて進む。

【観測者の逃亡】

同じ頃。

羽田空港の国際線ロビー。

桑原翼は、ファーストクラスのラウンジで、搭乗を待つ間にテレビのニュース画面を見上げていた。

『――速報です。横須賀市の別荘で、暴力団関係者と見られる数十人の遺体が発見されました。警察は、テロ事件の可能性も視野に入れ……』

無音のテレビ画面に映し出される、夥しい数の鑑識と、規制線の黄色いテープ。

相模会という巨大なシステムが、完全に崩壊した瞬間だった。

翼は、手元のシャンパングラスを静かに置き、パスポートを手に取った。

「……さようなら、大澤くん」

冷たい呟きは、空港のアナウンスにかき消される。

彼女は二度と振り返ることなく、搭乗ゲートへと消えていった。

それが、裏社会を泳ぎ切った女の、最も合理的な結末だった。

【龍と虎の境界】

夜明け前。

高速艇のエンジンが、突然ゴホゴホと咳き込むような音を立て、完全に沈黙した。

燃料切れだった。

波間に漂う高速艇の目の前に、赤錆に覆われた巨大な鉄の建造物が立っていた。

使われなくなった、沖合の古い海洋観測塔。

コンクリートの土台から、錆びた鉄の柱が空に向かって伸びている。

龍也は無言で立ち上がり、係留用のロープを掴んで、観測塔の錆びた鉄の梯子へと飛び移った。

そして、倒れている虎伯の腕を掴み、強引に引き上げる。

「……もう、歩けねえよ」

虎伯が苦く笑う。

龍也は何も言わず、虎伯の巨体を担ぎ上げ、錆びた梯子を一段ずつ、ゆっくりと上っていった。

観測塔の最上部、狭い鉄のプラットフォーム。

二人は、赤錆に覆われた鉄の壁に背を預け、並んで座り込んだ。

雪が、ゆっくりと降り続いている。

東の空が、微かに白み始めていた。

夜の黒が薄れ、海と空が、冷たく透明な青に染まっていく。

北野映画のワンシーンのような、徹底的に静かで、感情を排した絶対的な「青」。

虎伯の呼吸は、すでに極端に浅くなっていた。

半開きの目で、その青い空を見つめている。

「……龍也」

「なんだ」

「煙草、あるか」

龍也は、血と海水で濡れたコートのポケットに手を入れた。

潰れた箱の中に、ひしゃげた煙草が一本だけ残っていた。

龍也はそれを虎伯の口にくわえさせ、自らの手で百円の使い捨てライターを取り出した。

カチッ。カチッ。

火花は散るが、火は点かない。

ガスが、完全に切れていた。

「……点かねえな」

龍也が、平坦な声で言う。

「……そうか」

虎伯は、火の点かない煙草を口にくわえたまま、フッと微かに笑った。

そして、ゆっくりと目を閉じる。

「……十五の時より……すげえ、綺麗な空だな……」

虎伯の口から漏れた白い息が、冬の空気に溶けて、消えた。

それきり、巨漢の体は二度と動かなくなった。

龍也は、ライターを雪の上に放り投げた。

そして、自分の隣で冷たくなっていく、かつての親友であり、最大の敵であり、唯一の相棒であった男の顔を、ただ静かに見つめた。

悲しみはない。

涙も出ない。

彼の心にあるのは、システムから完全に解放された、絶対的な虚無だけだった。

波の音が、錆びた鉄柱を叩く。

雪が、二人の上に音もなく降り積もっていく。

大澤龍也は、凍りつくような青い空を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。

表の世界も、裏の世界も、すべてを壊し尽くした二人の少年。

彼らが最後に行き着いたのは、誰も干渉することのできない、冷たく静かな、海の上の錆びた境界線だった。

(龍虎の境界 ― 完)


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