龍虎の境界 ―第26話:凍てつく骸、無音の解体―
2003年、冬。
横浜の港湾地帯に、重く湿った雪が降り積もっていた。
関内でみぞれだった雨は、海風の冷たさに耐えきれず、完全な雪の結晶へと姿を変えている。
音のすべてが白い雪に吸い込まれ、深夜の倉庫街は、まるでこの世の果てのような完全な静寂と視覚的な寂寥感に包まれていた。
第三埠頭の外れ。
五年前に倒産し、そのまま放置されている巨大な食肉加工工場。
錆びついた鉄のシャッターと、色褪せたトタン屋根。表向きはただの廃墟だが、その地下には相模会本家が海外ルートから密輸した大量の重火器が眠る、関東最大級の『武器庫』が存在していた。
この施設を管理しているのは、相模会の中でも最も凶暴な武闘派として知られる直参・柴田組の兵隊たちだ。
【凍てつく境界線】
工場の裏口。
ドラム缶で焚き火をしながら、二人の見張りがライフルを抱えて震えていた。
「……クソ寒いな。なんでこんな夜に外で見張りをしなきゃならねえんだよ」
一人が、吐く息を白くしながら愚痴をこぼす。
「溝口の爺さんが関内で殺られたからだ。……例の二人組のガキ、完全に本家を潰す気だぞ」
「あのデザートイーグルを持ったイカれ野郎か。……来たらハチの巣にしてやるよ」
男がポケットからタバコを取り出し、火を点けようと俯いた。
その瞬間。
雪の闇の中から、音もなく突き出された巨大な手が、男の顔面を鷲掴みにした。
「え?」
もう一人の見張りが声を上げるより早く。
メキボキィッ。
白岩虎伯の丸太のような腕が、顔面を掴んだまま男の首を180度、真後ろへとねじ切った。
頚椎が粉砕される生々しい音が、雪降る夜に響く。
男は悲鳴すら上げず、タバコを口にくわえたまま、首の折れた人形のように雪の上に崩れ落ちた。
「な、貴様ッ……!」
残された見張りが、慌てて持っていたアサルトライフルを構えようとする。
ズドォォォォォォンッ!!
吹雪を切り裂く、鼓膜を破壊するような規格外の爆音。
闇の中から大澤龍也が放ったデザートイーグル.50AEの巨大な鉛玉が、アサルトライフルの機関部ごと、男の腹部を完全に抉り取った。
「あ」というくぐもった音だけを残し、男の体は真っ二つにちぎれ飛び、トタン壁に大量の血と臓物を叩きつけた。
着弾の衝撃でトタンが大きく凹み、遅れて血の雨が雪の上に降り注ぐ。
虎伯は、事も無げに死体を跨ぎ、工場の裏口の分厚い鉄扉に手をかけた。
施錠された南京錠を、持っていた鉄パイプで無造作に叩き壊す。
ガァンッ、という金属音が響くが、龍也の放った爆音の耳鳴りが残っているため、もはや気にする必要はなかった。
「……行くぞ」
龍也が、硝煙を上げる巨大な鋼の塊を下げたまま、暗い工場の中へと足を踏み入れる。
虎伯も、血に濡れた鉄パイプを肩に担ぎ、右足を引きずりながらそれに続いた。
【吊るされた肉】
工場の一階は、かつて牛や豚の枝肉を吊るしていた巨大な冷凍倉庫だった。
電気は通っており、天井からぶら下がる無数の鉄のミートフックが、冷気の中で微かに揺れている。
そして、そのフックの奥、コンクリートの床には、木箱に詰められた大量のロシア製アサルトライフル、手榴弾、さらにはロケットランチャーまでが整然と並べられていた。
倉庫の中央には、ドラム缶の火を囲むようにして、十人ほどの柴田組の兵隊たちが集まっていた。
先ほどのデザートイーグルの爆音に気づき、全員がすでに武器の安全装置を外し、臨戦態勢をとっている。
「入り口だ! 撃てェッ!!」
柴田組の若頭が叫ぶ。
けたたましい銃声が冷凍倉庫内に反響し、無数の5.45ミリ弾が龍也と虎伯のいた入り口付近へと降り注ぐ。
コンクリートの壁が削られ、火花が散る。
だが、そこに二人の姿はすでになかった。
プツン。
突然、倉庫内の照明がすべて落ちた。
龍也が、入り口にあった主電源のブレーカーを、デザートイーグルのグリップで叩き壊したのだ。
完全な暗闇。
ドラム缶の微かな赤い炎だけが、揺れるミートフックの不気味な影を壁に投影している。
「暗視スコープをつけろ! 散開しろ!」
若頭の怒号が飛ぶ。
だが、その声が闇に吸い込まれるより早く、ドラム缶の炎の向こう側で、巨大なマズルフラッシュが閃いた。
ズドォォォォォォンッ!!
強烈な閃光が、一瞬だけ冷凍倉庫内をストロボ写真のように白日の下に晒す。
その一瞬の光の中で、柴田組の兵隊が見たものは。
左腕の肘から先を完全に吹き飛ばされ、血のシャワーを撒き散らしながら後方へ吹き飛ぶ仲間の姿だった。
「ぎゃあああああああッ!!」
暗闇の中で、男の絶叫が響き渡る。
「どこだ! どこから撃ってきやがった!」
兵隊たちがパニックに陥り、暗闇に向かってデタラメにライフルを乱射する。
曳光弾の赤い光が飛び交い、吊るされた鉄のミートフックに当たって甲高い金属音を立てる。
【暗闇の解体作業】
その狂乱の暗闇の中を、虎伯の巨体が音もなく滑るように移動していた。
砕けた右膝を引きずりながらも、彼の動きには一切の無駄がない。
視界に頼る兵隊たちとは違い、虎伯は血の匂いと相手の呼吸音だけで、完全に位置を把握していた。
一人の兵隊の背後に、ぬっと虎伯が立ち上がる。
「……シッ」
短く息を吐き出すと同時、虎伯は手にした鉄パイプを、男の膝裏に向かってフルスイングで叩き込んだ。
メキボキッ。
「あぐッ!?」
男が膝から崩れ落ちた瞬間、虎伯は男の頭を掴み、すぐ横にぶら下がっていた鋭利なミートフックへと、その顔面を容赦なく叩きつけた。
グチャァッ。
大人の親指ほどある太い鉄のフックが、男の右目から脳髄へと深々と突き刺さる。
男は痙攣を数回起こし、そのまま枝肉のように空中に吊るされて完全に沈黙した。
「ひぃッ! な、なんだ……!」
すぐ横で仲間が吊るされた音に気づき、別の兵隊が振り返る。
ズドォォォォォォンッ!!
再び、対角線の暗闇から、龍也の放った50口径弾が飛来する。
弾丸は、兵隊の着ていた防弾ベストのセラミックプレートを紙クズのように貫通し、胸骨と心臓を完全に粉砕して背中から抜け出た。
血の霧がドラム缶の炎に照らされ、真っ赤な靄となって空中に漂う。
閃光。
そして、圧倒的な破壊。
龍也が遠距離からデザートイーグルの規格外の威力で兵隊の精神と肉体を削り、パニックに陥った隙を突いて、虎伯が暗闇の中で一人ずつ確実に物理的に解体していく。
感情も、熱もない。
ただの効率的な殺戮のシステムだった。
「撃て! 撃ちまくれェェッ!!」
若頭が狂ったようにアサルトライフルを乱射する。
薬莢が床に落ちる乾いた音だけが、虚しく響き続ける。
三分後。
ドラム缶の炎の周りに立っているのは、若頭ただ一人となっていた。
彼の周囲には、頭をフックに貫かれた死体、上半身が半分消失した死体、首の骨を折られた死体が、血の海の中に散乱している。
弾切れを起こしたアサルトライフルから、カチッ、カチッ、という空撃ちの音が鳴る。
「……あ……あ……」
若頭の口から、絶望のうめき声が漏れた。
暗闇の奥から、ジャリ、ジャリと、血だまりを踏みしめる二つの足音が近づいてくる。
ドラム缶の微かな明かりの中に、大澤龍也と白岩虎伯が姿を現した。
龍也のロングコートは返り血で黒く汚れ、右手に握られたデザートイーグルの銃口からは、まだチリチリと熱を帯びた硝煙が立ち昇っている。
虎伯のミリタリージャケットはすでに元の色が分からないほど赤黒く染まり、右手の鉄パイプの先端からは、粘り気のある脳漿がポタポタと滴り落ちていた。
【システムの崩壊音】
「……これで、兵隊は終わりか」
龍也が、冷酷な目で若頭を見下ろす。
「ば、バケモノ共が……! 相模会本家を敵に回して、生きて逃げられるとでも……」
若頭が、震える足で後ずさりながら強がる。
「逃げる気などない」
龍也は、スライドを引き、新しい弾薬を薬室に送り込んだ。
カチャッ、という重い金属音が、若頭の心臓を鷲掴みにする。
「……本家の会長は、どこにいる」
「し、知るか! 俺たちみたいな末端が、会長の居場所なんて……!」
「そうか。ならお前は無価値だ」
龍也は、一切の躊躇なく、デザートイーグルを若頭の右膝に向けた。
ズドォォンッ。
「ぎゃああああああああああッッ!!」
若頭の右膝から下が完全にちぎれ飛び、男は血の海に倒れ込んで絶叫した。
虎伯が、冷たい目でその惨状を見下ろす。
「……次で思い出すか。左膝か、それとも股間か」
龍也が、銃口をゆっくりとずらす。
痛覚を完全にマヒさせるような、圧倒的な暴力の行使。龍也の瞳には、かつて人間だった頃の感情の欠片すら残っていない。
「い、言う! 言うから撃つな! 会長は……会長は今、横須賀にある本家の別荘に隠れてる! 護衛を百人以上集めて、要塞化してるんだ!!」
若頭が、涙と血と鼻水を流しながら絶叫した。
横須賀の別荘。
それが、相模会という巨大なシステムの心臓部だった。
「……ご苦労」
龍也は、無表情のまま、若頭の眉間に銃口を合わせた。
「ま、待て! 言っただろうが! 命だ……」
ズドォォォォォォンッ。
言葉の途中で放たれた50口径弾が、若頭の頭部を完全に吹き飛ばした。
首から上がなくなった死体が、痙攣しながら床に倒れ込む。
再び、冷凍倉庫内に完全な静寂が戻った。
聞こえるのは、ドラム缶の火がパチパチとはぜる音と、吊るされた肉から滴る血の音だけだ。
【焼却】
「……これで、武器も兵隊も終わりだな」
虎伯が、鉄パイプを放り捨て、木箱に詰まった大量の重火器を見回す。
「ああ。……ここはもう必要ない。すべて燃やす」
龍也は、コートのポケットから、先ほど死体から奪った数個のC4プラスチック爆弾を取り出した。
それを、ドラム缶の横と、武器の詰まった木箱の間に無造作にセットしていく。
タイマーを五分に設定する。
「行くぞ、虎伯」
「おう」
二人は、血の海と無数の死体が転がる冷凍倉庫に背を向け、裏口へと向かって歩き出した。
外に出ると、猛吹雪はさらに勢いを増していた。
二人の足跡は、あっという間に白い雪によって覆い隠されていく。
工場から数百メートル離れた場所に停めてあった黒いセダンに乗り込む。
龍也がエンジンをかけ、ヒーターを入れた。
その数秒後。
背後の暗闇で、凄まじい閃光が弾けた。
ドグァァァァァァァァンッ!!!
食肉加工工場が、内部に保管されていた大量の弾薬や爆薬に引火し、大爆発を起こした。
巨大な火柱が、猛吹雪の夜空を真っ赤に染め上げる。
衝撃波がセダンを揺らすが、二人は後ろを振り返ることすらしない。
「……横須賀か。少し遠いな」
虎伯が、助手席でシートを倒しながら呟く。
「システムの中枢だ。……百人の兵隊がいようが、要塞だろうが関係ない。俺の銃と、お前の拳で、正面からすべてを粉砕する」
龍也が、静かにアクセルを踏み込んだ。
赤く燃え盛る巨大な廃墟を背に、黒いセダンは雪の積もる国道を、一切の音を立てずに滑り出していく。
2003年、冬。
横浜の武器庫を無音のうちに解体した死神たちは、ついにすべての因縁を終わらせるため、絶対の権力者が待つ横須賀の要塞へとその針路を向けた。
感情のない氷の瞳と、底なしの暴力。
二人の少年の狂気は、相模会という巨大なシステムを、根底から完全に焼き尽くそうとしていた。




