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龍虎の境界 ―第25話:関内の暗線、凍る金脈―

2003年、冬。

横浜の空は、底の抜けたように冷たい雨を降らせ続けていた。

凍てつくような雨粒が、関内のネオンサインを乱反射してアスファルトを黒く濡らしている。

海風がビル風と混ざり合い、路地裏に吹き溜まった生ゴミと、古い鉄の錆びた匂いを街全体に撒き散らしていた。

関内大通りから一本外れた裏筋に建つ、会員制の高級ホテル『グランド・リュバン』。

表向きは外資系のプライベートホテルだが、その最上階は相模会本家の幹部たちが密談や資金の集積に使う、完全な要塞だった。

深夜二時。

ホテルの地下駐車場に、三台の黒いベンツが滑り込むように停車した。

ヘッドライトが消えると同時に、前後の車から六人の屈強な男たちが降り立つ。全員が厚手の黒いコートを着込み、その下には防弾ベストとサブマシンガンを隠し持っている。相模会本家が誇る、正規の護衛部隊だった。

最後に、中央のベンツの後部座席から、初老の男が降りた。

相模会本家・財務委員長、溝口。

全国の直参組織から吸い上げた上納金を洗浄し、海外のダミー口座へと流す「本家の金庫番」である。彼が動かす金の額は、一晩で数十億に上る。

「……周囲の警戒を怠るな。例の狂犬二匹が、どこに潜んでいるか分からんからな」

溝口が、神経質そうに周囲を見回しながら部下に命じる。

横浜の南地区を仕切っていた黒田が失脚し、さらに本家が差し向けた掃除屋三人が鶴見で原型を留めない死体となって発見されて以来、相模会上層部にはかつてない恐怖が蔓延していた。

「ご安心ください。このホテルはすでに我々が完全に制圧しています。ネズミ一匹、入り込む隙はありません」

護衛のリーダーが短く答え、溝口を囲むようにしてVIP専用の直通エレベーターへと歩き出した。

【冷たい眼差し】

ホテルの斜め向かい。

雨に濡れた雑居ビルの屋上で、女が一人、冷たい風に吹かれながらその光景を見下ろしていた。

桑原翼。

黒いトレンチコートの襟を立て、防水仕様の双眼鏡で地下駐車場の入り口を静かに監視している。

彼女の吐く息は白い。

かつて、大澤龍也という男の冷徹なシステムを利用し、横浜の裏社会で甘い汁を吸っていた女フィクサー。彼女は相模会から逃亡し、海外へ飛ぶための準備はすでに終えていた。

だが、彼女はまだこの街に留まっていた。

(……大澤くん。あんたは本当に、ただの殺戮機械になっちゃったのね)

双眼鏡のレンズ越しに、ホテルの周辺をうろつく相模会の見張りの男たちを確認する。

翼の胸の奥にあるのは、恐怖でもなく、打算でもなかった。

完璧な知性を持っていた美しい男が、一人の巨漢のためにすべてを投げ打ち、純粋な破壊の化身へと堕ちていく様。その破滅的な軌跡から、どうしても目を離すことができなかったのだ。

それは、翼が人生で初めて抱いた、極めて歪んだ形での【執着】だった。

翼は、ポケットから暗号化された携帯電話を取り出し、短いメッセージを送信した。

『標的、地下駐車場から専用エレベーターへ。護衛六人。階数は最上階のスイート』

送信ボタンを押すと同時に、翼は携帯電話の電源を切り、そのままビルの下を流れるドブ川へと放り投げた。

水しぶきの音は、冷たい雨音に掻き消される。

「……さあ、見せて頂戴。あんたたちの地獄を」

翼は、感情のない声で呟き、暗闇の中へと姿を消した。

【地下の惨劇】

ホテルの地下駐車場。

VIP専用エレベーターの前に、溝口と四人の護衛が乗り込んだ。

残る二人の護衛は、エレベーターホールの前で待機するため、扉が閉まるのを見送った。

チンッ。

エレベーターが上昇を始める音が響く。

待機を命じられた二人の男は、コートのポケットに手を入れたまま、無言でタバコを取り出そうとした。

その時だった。

駐車場の奥、非常階段の重い鉄扉が、音もなく開いた。

「……火、貸してやろうか」

平坦で、ひどく冷たい声が、コンクリートの空間に反響した。

男たちが弾かれたように振り返る。

そこには、黒いウールのロングコートを着た大澤龍也と、血と泥に汚れたミリタリージャケットを着た白岩虎伯が立っていた。

「なっ……! 貴様ら……!」

護衛の一人が、コートの下のサブマシンガンを抜こうとした。

だが、その動作はあまりにも遅すぎた。

龍也の右手が、コートの懐から巨大な鋼の塊――デザートイーグル.50AEを抜き放っていた。

ズドォォォォォォンッ!!

地下駐車場に、大砲を撃ったかのような規格外の爆音が轟いた。

サプレッサーなどない。隠れる気も、誤魔化す気もない。ただ純粋な、圧倒的な暴力の行使。

放たれた50口径の巨大な鉛玉は、護衛の男が着込んでいたケブラー製の防弾ベストごと、その胸部を完全に粉砕した。

「あ」という声すら出す暇もなく、男の背中からバレーボール大の風穴が開き、大量の血と肉片が後ろのコンクリート壁にブチ撒けられる。

男の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

「ヒィッ……!?」

残されたもう一人の護衛が、仲間の無残な死体に一瞬だけ視線を奪われた。

そのコンマ一秒の隙が、彼の命の終わりだった。

「……よそ見してんじゃねえよ」

いつの間にか肉薄していた虎伯の巨体が、男の目の前にあった。

虎伯の手には武器はない。ただ、その丸太のような両腕が、男の頭部を左右から万力のように挟み込んだ。

ゴキリッ。

濡れた雑巾を絞るような、嫌な音が鳴った。

男の頸椎が完全に砕け、首が異常な方向へと折れ曲がる。

虎伯は、絶命した男の体を無造作に床へ投げ捨てた。

二つの死体が転がるエレベーターホール。

龍也は、スライドが後退したデザートイーグルの反動を強靭な手首で殺し、ゆっくりと銃口を下げた。

表情は全く動かない。ただ、硝煙の匂いだけが、冷たい雨の匂いと混ざり合っていく。

「……行くぞ」

龍也が、血だまりを革靴で踏み越え、エレベーターの呼び出しボタンを押す。

虎伯は、死んだ男のコートを探り、サブマシンガンを一つ拾い上げた。

「俺にはこんなおもちゃ、使いこなせねえけどな」と呟きながら、弾倉を確認する。

到着した別のエレベーターに乗り込み、二人は最上階へと向かった。

箱の中には、場違いなほど軽快なボサノバのBGMが流れている。

血まみれの巨漢と、巨大な拳銃を持った死神。

二人は何も喋らない。階数表示のランプが、一つ、また一つと点灯していくのを、ただ無機質な目で見つめていた。

【鮮血の絨毯】

十五階、最上階。

エレベーターの扉が開いた瞬間、そこにはすでに四人の護衛が銃を構えて待ち受けていた。

地下での銃声を聞きつけ、迎撃態勢を整えていたのだ。

「撃てェッ!!」

凄まじい銃撃音が、豪華なシャンデリアの下で鳴り響く。

9ミリ弾が、エレベーターの扉や壁に無数の穴を開けていく。

だが、龍也と虎伯は、扉が開くより早く、エレベーターの左右の死角に張り付いていた。

銃撃がコンマ数秒だけ途切れた瞬間。

龍也が、低い姿勢でエレベーターから飛び出し、デザートイーグルを構えた。

ズドォォォォォォンッ!!

ズドォォォォォォンッ!!

連続して放たれた二発の50口径弾。

一発目は、先頭にいた男の右腕を肩から切断し、そのまま後ろの壁の大理石を粉砕した。

二発目は、別の男の腹部を直撃し、上半身と下半身を文字通り「ちぎれ飛ばした」。

血の雨が、ふかふかの高級絨毯に降り注ぐ。

「バ、バケモノ……!」

残る二人の護衛が、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさる。

その隙を突き、虎伯がエレベーターから咆哮とともに飛び出した。

「オラァァァッ!!」

虎伯は、奪ったサブマシンガンを撃つのではなく、銃身を握って「鈍器」として振り回した。

重い鉄の塊が、護衛の顔面にクリーンヒットする。

メシャァッ。

顔面が陥没し、男が吹き飛ぶ。

最後の一人が虎伯に銃を向けようとしたが、虎伯の蹴りが男の膝の関節を逆方向にへし折った。

「ぎゃあああああッ!!」

崩れ落ちた男の顔面を、虎伯の安全靴が容赦なく踏み潰す。

断末魔の悲鳴が、一瞬で途切れた。

静寂。

壁には飛び散った脳漿と鮮血がこびりつき、床には原型を留めない肉塊が転がっている。

龍也は、弾倉を素早く交換し、廊下の奥にある一番大きな両開きの扉――プレジデンシャル・スイートへと歩み寄った。

【凍る金脈】

分厚いオーク材の扉には、内側から厳重な鍵がかけられていた。

龍也は、扉の鍵穴の部分にデザートイーグルの銃口を押し当てた。

ズドォォンッ。

鍵の機構ごと、扉の一部が木っ端微塵に吹き飛ぶ。

虎伯が、残った扉を蹴り開けた。

部屋の中央。

イタリア製の高級ソファの裏で、財務委員長の溝口が、ガタガタと震えながら縮こまっていた。

その手には小さな護身用の拳銃が握られているが、銃口は定まらず、恐怖で失禁している。

「ひ、ひぃぃッ……! くるな! くるなァッ!」

龍也は、銃を構えたまま、無言で溝口を見下ろした。

虎伯も、血塗れの顔でその横に立つ。

「き、金か! 金が欲しいんだろう! いくらでも払う! だから命だけは……!」

溝口が、泣き叫びながら懇願する。

黒田の時と全く同じ、見苦しい命乞い。

裏社会の頂点に立つ者たちの、薄っぺらな本性だった。

「……金は要らない」

龍也の声は、ホテルの冷房よりも冷たかった。

「本家の隠し口座の暗証番号と、すべての資金の流れが記録されたデジタルキー。……それを出せ」

「そ、それだけは……! それを渡せば、俺は会長に殺される! 頼む、他なら何でも……!」

ズドォォォォォォンッ!!

龍也は、溝口の言葉が終わる前に引き金を引いた。

放たれた銃弾は、溝口の持っていた拳銃ごと、彼の右の手首から先を完全に吹き飛ばした。

「ぎゃああああああああああああああッッ!!」

溝口が、血の噴き出す右手首を押さえて床をのたうち回る。

痛絶な絶叫が、防音仕様のスイートルームに虚しく反響する。

「……次はないぞ」

龍也が、熱を持った銃口を溝口の眉間に突きつける。

その漆黒の瞳には、一切の感情が存在しない。完全なる虚無。

溝口は、激痛と恐怖に顔をグシャグシャにしながら、左手で震えるように自分の懐から小さなUSBメモリを取り出し、床に投げ出した。

「こ、これだ……! これに全部入ってる……! た、助け……!」

龍也は、足元に転がったUSBメモリを拾い上げ、コートのポケットにしまった。

相模会の血管、その大動脈を完全に手に入れた瞬間だった。

「……よくやった」

龍也は、無機質な声でそう告げると、そのまま躊躇なく引き金を引いた。

パンッ。

最後に響いたのは、デザートイーグルの爆音ではない。

虎伯が拾ったサブマシンガンから単発で放たれた、9ミリ弾の乾いた音だった。

溝口の額を撃ち抜いたのは、虎伯だった。

溝口の体がビクンと跳ね、そして完全に動かなくなる。

龍也が、視線だけを横に動かして虎伯を見た。

「……俺の獲物だぞ」

「お前のそのバカでかい大砲で撃ったら、部屋中が肉片だらけになるだろうが。……掃除する身にもなれよ」

虎伯が、サブマシンガンを床に投げ捨て、鼻で笑う。

龍也は、無言でデザートイーグルの撃鉄を戻し、懐にしまった。

【無音の街へ】

二人は、血の海と化したプレジデンシャル・スイートを後にした。

エレベーターを降り、再び地下駐車場へと向かう。

外に出ると、冷たい冬の雨は、みぞれに変わっていた。

凍りつくような氷の粒が、二人の顔に付着した血と硝煙を、静かに洗い流していく。

相模会本家の金庫番は死んだ。

資金の流れを絶たれ、数千億のブラックマネーの管理権限を奪われた本家は、明日から大混乱に陥るだろう。

システムの崩壊は、すでに不可逆の段階に入っていた。

「……次はどうする、龍也」

みぞれに打たれながら、虎伯が問う。

「金脈は絶った。……次は、奴らの『武器庫』と『兵隊』を潰す」

龍也は、ポケットの中でUSBメモリの硬い感触を確かめながら、闇の奥を見据えた。

「相模会の会長の首を狩るまで、この街に夜明けは来ない」

二人の男は、街灯の消えた関内の路地裏へと、足音も立てずに溶け込んでいった。

視覚的な寂寥感と、圧倒的な死の匂いだけを残して。

――大人の作った腐った世界は、俺たちが全部壊す。

2003年、冬。

横浜の闇を這い回る、死神たちの沈黙の戦争は、いよいよ相模会本家の中枢へとその牙を剥き出しにしようとしていた。


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