龍虎の境界 ―第24話:錆びた海風、規格外の咆哮―
2003年、冬。
空は、厚く濁った鉛色に塗り潰されていた。
横浜港から吹き付ける海風は、肺の奥まで凍りつくような、重く湿った冷気を孕んで街を舐め回している。
横浜市、鶴見区。
稼働を止めた巨大な造船所と、放置されたコンテナ群に囲まれた、見捨てられたような小さな公園。
周囲の無機質な工場地帯は、打ち付ける冷たい冬の雨に音のすべてを吸い込まれ、完全な静寂の中にあった。
公園の中央には、塗装が剥げ落ち、赤茶けた錆に覆われたブランコとジャングルジムが、剥き出しの骨組みだけを晒して無言で立ち尽くしている。
キュルッ……。
海風が吹き抜けるたび、錆びたブランコの鎖が、誰かが首を吊っているかのような嫌な軋み音を立てた。
そのブランコに、一人の巨漢が座っていた。
黒い分厚いミリタリージャケットに身を包み、深くフードを被っている。
白岩虎伯だった。
虎伯は、足元のぬかるんだ泥を無造作に安全靴で蹴りながら、白く濁った息をゆっくりと吐き出していた。
黒田との死闘から数週間。
無数の銃創や打撲は癒えつつあったが、完全に砕かれた右膝だけは元には戻らない。歩くたびに、鈍い痛みが脳髄を突き刺す。
【沈黙】
虎伯の斜め後ろ、雨に濡れたベンチの横に、もう一人の男が立っていた。
大澤龍也。
黒いウールのロングコートを着込み、襟を立てている。
手には、百円の使い捨てライター。
カチッ。
安い火花が散り、煙草に火が点く。
紫煙が、湿った冷気の中に細く溶けていく。
二人は何も喋らない。
横浜の南地区を支配していた黒田組を壊滅させた後、彼らは全国に指名手配された。警察の手配ではない。相模会本家による、賞金一億円の裏の指名手配である。
彼らは横浜から逃げなかった。いや、逃げる場所など最初から無かった。鶴見の工場地帯の片隅に潜伏し、息を潜め、次の標的が動くのを待っている。
相模会から完全に自由になるためには、逃げるだけでなく、横浜に根を張る本家のシステムそのものを物理的に解体するしかないことを、二人は理解していた。
ジャリッ、ジャリッ。
遠くから、濡れた砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
【異常】
龍也は煙草を泥の上に落とし、革靴の裏で踏み消した。
視線は動かさない。
ただ、コートの右ポケットに入れた右手が、冷たく重厚な鋼のグリップを静かに握りしめた。
それは、かつて愛用していたロシア製のトカレフではない。
横浜の地下に潜伏した直後、龍也は相模会本家の武器密輸ルートを襲撃し、一つの木箱を奪い取っていた。中に入っていたのは、幹部が観賞用コレクションとして輸入したイスラエル製のハンドキャノン。デザートイーグル.50AEだった。
通常、実戦の、しかも近接戦闘で扱うには重すぎ、反動も大きすぎる無用の長物だ。
だが龍也は、裏社会の闇ガンスミスを脅迫し、これを完全な実戦仕様へとチューンアップさせていた。
銃身を極限まで切り詰め、先端には発砲時の跳ね上がりを相殺する大型のコンペンセイターを溶接。グリップは龍也の手のサイズに合わせて削り出され、滑り止めのステッピング加工が施されている。
対人用のトカレフでは、本家が差し向ける防弾仕様の暗殺者や、装甲車クラスの防弾ガラスは抜けない。
合理主義の龍也が、あえて選んだ「純粋な破壊力」。システムを根底から粉砕するためには、論理を凌駕する絶対的な質量が必要だったのだ。
砂利を踏む音は、三つ。
足並みは揃っていないが、一定の速度で、迷いなく公園の中央へと向かってくる。
公園の入り口に、三人の男が姿を現した。
地元のチンピラではない。仕立ての良い黒いコート、目立たないように無地のマフラーで顔の半分を隠している。相模会本家から派遣された、本職の掃除屋たちだった。
彼らの手には、すでにサプレッサーの装着された自動拳銃が握られている。
威嚇もない。
名乗り合いもない。
ヤクザ映画のような怒号も、命乞いもない。
それが、プロの殺しだった。
【突然の死】
パンッ。
くぐもった乾いた音が、雨音を切り裂いた。
先頭を歩いていた男が、いきなり発砲したのだ。
銃弾は、虎伯の座っていたブランコの鎖を弾き飛ばした。
火花が散り、切れた鎖が泥の上に落ちる。
虎伯は、鎖が切れるコンマ一秒前には、すでに泥の中に体を投げ出していた。
それと同時に、ベンチの横に立っていた龍也の右手が、コートのポケットから巨大な鋼の塊を抜き放った。
ズドォォォォォォンッ!!
鼓膜を物理的に殴りつけるような、規格外の爆音。
そして、薄暗い冬の公園を真昼のように照らし出す、巨大なマズルフラッシュ。
サプレッサーの静かな発砲音など、一瞬で掻き消された。
デザートイーグルから放たれた.50AE(50口径アクション・エクスプレス)弾。
一番右にいた掃除屋の頭部は、撃ち抜かれたのではない。首から上が、まるで熟れた果実が内側から弾け飛ぶように、完全に消失していた。
男は、声一つ上げることなく、首なしの肉塊となって後方へ吹き飛び、泥水を赤く染めた。
残る二人の掃除屋の目に、初めて微かな「驚愕」の色が浮かぶ。
彼らの計算式には、標的が対物ライフル並みのハンドキャノンを隠し持っているというデータは存在しなかった。
無表情のまま、銃口を龍也へと向ける。
だが、その銃口が火を噴くより早く。
「……シッ」
泥の中から跳ね起きた虎伯が、右足を引きずりながらも、恐ろしい速度で前傾姿勢のまま男たちの懐に潜り込んでいた。
その手には、赤錆にまみれた鉄パイプ。
ドグァッ。
嫌な水音が鳴った。
虎伯の振り抜いた鉄パイプが、真ん中にいた男の側頭部を完全に陥没させていた。
頭蓋骨が砕け、眼球が飛び出した男が、人形のように崩れ落ちる。
最後の一人。
その男は、仲間の死に動揺することなく、虎伯の腹部に銃口を押し当てた。
引き金を引く指が動く。
ズドォォォォォォンッ!!
だが、弾丸は虎伯の体を貫通しなかった。
男の右腕が、肩の付け根から不自然な方向へねじ曲がり、男の持っていた拳銃ごと、明後日の方向へと飛んでいったのだ。
龍也の放った二発目の.50AE弾が、男の右肩の関節ごと、腕そのものを根元から吹き飛ばしていた。
男がバランスを崩した瞬間、虎伯は鉄パイプを捨て、素手で男の首根っこを掴み上げた。
そして、そのままの勢いで、公園の中央にある錆びたジャングルジムの鉄柱へと、男の後頭部を全力で叩きつけた。
ガァンッ!!
金属が激しく軋む音。
男の頭部は原型を留めず、ジャングルジムの赤錆に、さらに新しい赤い染みを広げた。
【静寂の帰還】
わずか、十秒。
それだけの時間で、三つの命が完全に消滅した。
怒声も悲鳴もなく、ただ大砲のような発砲音と、骨の砕ける鈍い音だけが、鶴見の公園に鳴り響いた。
発砲の耳鳴りが薄れると、再び、重く冷たい雨の降る静寂が戻ってくる。
龍也は、スライドが後退しそうになるほどのすさまじい反動を強靭な手首でねじ伏せ、撃鉄を戻した。
まだ硝煙を吹く巨大なデザートイーグルを、ゆっくりとコートの懐にしまう。
虎伯は、血にまみれた右手を、足元の水たまりで無造作に洗う。
死体を見下ろす二人の目には、恐怖も、後悔も、そして勝利の昂揚感すらもない。
日常的に食事を済ませたかのような、圧倒的な虚無だけがあった。
「……早かったな。もう嗅ぎつけられたか」
虎伯が、潰れた男のコートのポケットを探りながら言った。
「相模会の情報網は、横浜の隅々まで張り巡らされている。この程度の手間は、向こうにとっては作業の一つに過ぎない」
龍也が、新しい煙草を口にくわえながら答える。
虎伯は、死体の懐から、血に濡れた携帯電話と、数枚の札束、そして車のキーを抜き取った。
「……これで三組目だ。次から次へと、よく湧いてきやがる。おまけに、お前のそのバカでかい大砲のせいで、死体がミンチになっちまって探しにくい」
「トカレフでは、奴らの着込んでいるケブラー繊維は撃ち抜けない。……俺たちが生きている限り、この処理作業は一生終わらない」
龍也は、使い捨てライターで煙草に火を点けた。
青白い煙が、死体から立ち昇る微かな血の湯気と混ざり合う。
黒田を潰せば終わると思っていたのは、甘い幻想だった。
裏社会の巨大なシステムを敵に回した以上、ここからが本当の地獄の始まりだった。
彼らは、逃げるための戦いから、壊すための戦いへとシフトしなければならない。
ヴゥッ、ヴゥッ。
龍也のコートのポケットで、暗号化された使い捨ての携帯電話が短く震えた。
画面には、短い文字列だけが表示されている。
『本家の金庫番が動いた。今夜、関内のホテル。――翼』
桑原翼。
相模会に見切りをつけ、裏社会の深層へと姿を消したあの女は、なぜか今でも定期的に龍也に情報を送ってくる。
それは打算なのか、それとも龍也という男に対する、彼女なりの微かな執着なのか。
龍也にとって、その感情の正体はどうでもよかった。使える情報は使う。それだけだ。
「……虎伯。次はどうする」
龍也は、携帯電話を泥水の中に放り投げ、革靴で踏み砕いた。
「相模会本家の資金源は、横浜の港と関内の地下に根を張っている。……まずは、この横浜にある奴らの血管を一つずつ切断する」
龍也の瞳の奥で、冷たく、そして狂気に満ちた計算式がすでに組み上がり始めていた。
「この横浜の地から、相模会のシステムを逆流させる。……本家のトップが恐怖で眠れなくなるまで、終わらせない」
虎伯は、ニヤリと血なまぐさい笑みを浮かべ、フードを深く被り直した。
「上等だ。……横浜の海が赤く染まるまで、暴れてやるよ」
【終わりのない道】
二人は、公園の入り口に停められていた黒いセダンへと無言で歩き出した。
残された三つの死体は、すぐに降りしきる冬の雨によって体温を奪われ、風景の一部と同化していくだろう。
誰も彼らの死を悼まない。誰も彼らの名を知らない。
2003年、冬。
錆びついた遊具と、血に染まった泥水。
視覚的な寂寥感だけが残る横浜の片隅で、大澤龍也と白岩虎伯の、後戻りのきかない新たな戦争が静かに幕を開けた。
手に入れた凶悪なハンドキャノンと、決して折れない鉄パイプ。
表の世界から完全に断絶された二人の男は、死の匂いをまといながら、果てしない灰色の闇へと車を走らせていった。




