龍虎の境界 ―第23話:血煙の決着、そして朝焼けの空へ―
2003年、秋。
早朝の冷たい空気が、火薬の匂いと鉄の錆びた血の匂いに塗り替えられていく。
高級料亭『松風』の敷地内は、瞬く間に凄惨な阿鼻叫喚の地獄と化していた。
【突破】
「殺せェッ!!」
日本刀を上段に構え、血走った目で突進してくる狂信的な組員。
だが、その白刃が振り下ろされるより早く、白岩虎伯の巨大な鉄ハンマーが横凪ぎに空気を切り裂いた。
ゴシャァァッ!!
重い破壊音とともに、組員の体がくの字に折れ曲がり、庭石に激突して動かなくなる。
「ヒィッ……! ば、化け物……!」
恐怖で足がすくんだ別の組員が、懐から震える手で拳銃を取り出そうとした。
その瞬間。
パンッ。
大澤龍也の放ったトカレフの一撃が、男の右肩を正確に撃ち抜いた。
男は銃を落とし、悲鳴を上げてうずくまる。
(残り三発)
龍也は、冷徹な計算で残弾を管理しながら、虎伯の死角を完璧にカバーしていた。
互いに言葉を交わす必要はない。
虎伯が壁を砕き、龍也が隙を撃つ。六年の空白を感じさせない、阿吽の呼吸だった。
「オラァッ!! 退けェ!!」
虎伯は、撃たれた左肩と砕けた右膝から血を流しながらも、その痛みすら推進力に変えて進む。
立ち塞がる組員たちをハンマーで次々と粉砕し、料亭の玄関の分厚い引き戸を、渾身の力で打ち破った。
ガシャァァァァンッ!!
木片とガラスが飛び散る中、二人はついに料亭の奥座敷へと足を踏み入れた。
【狂人の末路】
一番奥の、最も広い大広間。
逃げ場を失った黒田が、床の間の前で日本刀を杖のように突き、荒い息を吐いていた。
彼の周囲には、もはや彼を守る組員は一人もいない。全員が外で倒れるか、逃げ出していた。
「……来やがったな、クソガキ共」
黒田が、脂汗にまみれた顔で凄絶な笑みを浮かべる。
絶縁され、すべてを失った男の、空虚で哀れな姿だった。
「黒田。……チェックメイトだ」
龍也がトカレフを構え、黒田の眉間に狙いを定める。
「待て……待て、大澤!」
黒田が、突然刀を投げ捨て、畳の上に両手をついた。
プライドも何もない、命乞いだった。
「俺が悪かった! 金ならある! 海外の口座に隠してある金、全部お前らにやる! 南地区も、川崎のシノギも全部くれてやる! だから、命だけは……!」
虎伯が、血まみれのハンマーを肩に担ぎ、冷たい目で見下ろす。
「……源さんを殺して、罪のない連中を虫ケラみたいに踏み潰しておいて、最後は金で命乞いか。……ヤクザの幹部ってのは、ずいぶん安いんだな」
「うるせえ! お前らだって人殺しだろうが! この世界はな、金を持ってる奴が勝つんだよ!」
黒田が絶叫した、その時。
土下座していた彼の手が、畳の下に隠されていた『何か』に素早く伸びた。
【最後の銃弾】
小型の護身用拳銃・デリンジャー。
黒田は最初から命乞いなどする気はなかった。油断を誘い、相討ちに持ち込むための狂った芝居。
黒田の銃口が、龍也の心臓に向けられる。
だが、龍也の目は、その浅ましい動きを完全に読み切っていた。
パンッ!!
黒田が引き金を引く、ほんのコンマ数秒前。
龍也のトカレフから放たれた銃弾が、黒田の右手首を粉砕した。
「ぎゃあああああああッッ!!」
デリンジャーが畳に転がり、黒田が手首を押さえてのたうち回る。
(残り二発)
龍也は、ゆっくりと歩み寄り、黒田の頭に冷たい銃口を押し当てた。
黒田が、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、恐怖に引き攣った目で龍也を見上げる。
「ひ、ひぃッ! 殺さないでくれ! 頼む、殺さないで……!」
龍也は、撃鉄を起こした。
「……殺さないさ」
龍也の平坦な声が、朝の静寂に響く。
「ここで俺がお前を殺せば、お前はただの死体になって楽になれる。……だが、俺は本部にすべてのデータを送った。数時間後には、相模会の本物の『掃除屋』たちが、お前を捕まえに来るだろう」
黒田の顔から、さらに血の気が引く。
裏切った幹部に対する極道の制裁が、どれほど凄惨で長い時間をかけて行われるか、黒田自身が一番よく知っていた。
「お前の居場所は、もうどこにもない。……生きたまま、地獄の底で怯え続けろ」
龍也は、銃口を外し、そのままトカレフのグリップで黒田の側頭部を殴りつけた。
ゴッ。
黒田は白目を剥き、畳の上に崩れ落ちて完全に気を失った。
【決着】
龍也は、残弾二発のトカレフを懐にしまい、振り返った。
虎伯は、壁に寄りかかり、荒い息を吐きながらずるずると床に座り込んでいた。
限界を超えた肉体が、ついに悲鳴を上げていた。
「……終わったな、龍也」
「ああ。……すべて終わった」
龍也が、虎伯の前に歩み寄り、その血まみれの巨体を支えるように肩を貸す。
「……立てるか、バカ犬」
「誰が犬だ……。俺は虎だっつーの」
虎伯が、痛みに顔を歪めながらも、悪態をついて立ち上がる。
遠くから、無数のパトカーのサイレンが鳴り響き始めていた。
料亭の騒ぎを聞きつけた警察が、ついに動き出したのだ。
二人は、料亭の裏口から外へと出た。
【朝焼けの空へ】
外の空気は、台風一過の清々しさに満ちていた。
路地裏を抜け、高台にある公園に出る。
眼下には、横浜の街並みと、青く澄み渡った海が広がっていた。
そして、東の空から、まばゆいほどの朝陽が昇り始めていた。
光が、二人の血と泥にまみれた顔を、黄金色に照らし出す。
「……綺麗だな」
虎伯が、目を細めて呟いた。
「十五の時、あの市営住宅の屋上で見た空より、ずっと綺麗だ」
龍也もまた、砕けたサングラスを捨てた剥き出しの瞳で、その朝焼けを見つめていた。
「……そうだな」
15歳の夏から始まった、血と暴力と裏切りの連鎖。
表の世界からドロップアウトし、裏社会の頂点を目指した二人の少年は、大人のシステムに組み込まれ、互いを殺し合うところまで堕ちた。
だが、彼らは最後に、自らの手でそのシステムを破壊したのだ。
名声も、金も、権力も、すべて失った。
この街に、彼らの居場所はもう無い。明日からは、警察とヤクザの両方から追われる、果てしない逃亡生活が待っているだろう。
それでも。
二人の心の中には、六年ぶりに取り戻した、絶対的な【自由】と【相棒】の存在があった。
「行くぞ、虎伯」
龍也が、歩き出す。
「どこへだよ。俺たち、もう帰る場所なんてねえぞ」
虎伯が、足を引きずりながらその後を追う。
「どこでもいいさ。……この空が続いている限り、俺たちの道は終わらない」
2003年、秋。
横浜の闇を恐怖に陥れた「龍虎会」の伝説は、この日を境に完全に途絶えた。
大澤龍也と白岩虎伯。
二人の姿を見た者は、裏社会にも表社会にも、二度と現れなかったという。
だが、横浜の不良たちの間では、こんな噂が今でも囁かれている。
――行き場を失った奴の前にだけ、黒いコートの悪魔と、鉄のハンマーを持った巨人が現れる。
――彼らは、どんな巨大な組織の理不尽も、たった二人でぶち壊してくれるんだ、と。




