8.悲しい鳥
ドアが、音を立てて閉まった。
静まりかえった部屋に、足音だけが重く響く。
黒い影が、愛の目の前で足を止めた。
愛は影を見上げた。
影の中で赤い二つの光が炎のように揺れている。
その目がゆっくりと愛を見下ろし、細められた。
愛は声が出せなかった。
鼓動が耳の奥でうるさかった。
影が口を開いた。
「なぜ、ここにいる」
聞き覚えのある、静かなバリトンの声。
「……朱さん?」
発した声は、小さくかすれていた。
影が動いてランプに静かに火を灯した。
弱い光が近くを浮かび上がらせた。
見慣れた白い髪だった。
顔には厳しい表情をたたえている。
爛々とした赤い目が、細く静かに愛を見据えていた。
愛は動けなかった。
ただ、寒さと恐怖で震えがとまらなかった。
少しの間、赤い目は愛を黙って見ていたが、やがて愛に背を向けると、ダルマストーブの横に斧を立てかけた。
「安心しろ。家の中では殺さない。……だから絶対に外へ出るな」
「朱さん……だよね?」
朱は答えなかった。
籠から薪を一本、二本と取り出していく。
ダルマストーブの扉を開け、薪を順に中へ並べていく。
焚き付けがわりの細い木、それに、紙を丸めたものを周りに添えた。
火をつけた。最初は細く弱々しかった炎が、やがて大きく広がっていった。
薪がぱちり、と爆ぜた。
その音だけが、静かな部屋に広がった。
炎の優しい熱が、冷え切った床を、壁を、愛を、あたたかく包み込んでいった。
愛の震えは、次第におさまっていった。
朱はストーブの小窓から炎の様子を眺めている。
愛は、無意識にその背中を眺めていた。
フクロウだろうか。低い鳥の声が聞こえてきた。
吹き抜ける風に揺れる木々のざわめき……。
雲間に浮かぶ月が、優しい光を窓から投げかけている。
朱は立ち上がった。
いつものように、水を入れたヤカンをストーブにかける。
立てかけていた斧を手に取り、椅子に座った。
「夜は近づくなと言っただろう」
咎めるような口調だった。
斧の刃先を確認するように眺めた。
「夜……野原に人がいると、殺さずにはいられないんだ」
斧をストーブの横に吊るすと、愛に向き直った。
「……もう少し、自重しろ」
朱はそう言って、視線を落とした。
怒っているようにも見えた。
だが、何かから目を逸らしているようでもあった。
「……ごめんなさい」
愛は、素直に謝った。
なんだか泣きたいような気持ちになった。
なぜかは分からなかった。
ストーブにかけたヤカンが揺れ始める。
朱はヤカンのお湯をティーポットにそっと注いだ。あたたかなお湯の落ちる音。
ティーポットから湯気が立ち上り、カモミールの香りが部屋に広がった。
愛は赤い目をした朱が、いつものように丁寧にカップにお茶を注ぐのを黙って見ていた。
「どうぞ」
カップを愛の方に寄せてくれる。
「ありがとう」
口をつける。
いつものやわらかな空気が二人の間に広がった。
ランプの灯りは、テーブルの周りだけを静かに照らしていた。
世界に、二人しかいないようだった。
「朱さんは……レッドキャップなの?」
「シンから聞いていないのだな。……ああ、夜の俺はレッドキャップだ」
愛はひっかかりを覚えた。
「夜の……。昼の朱さんは?」
「俺は……半分だから」
意味は分からなかったが、何となく、昼は違うのだろうと思った。
朱は空になったティーカップを置くと、ストーブの方を向き、愛に背を向けた。
「……飲み終わったら寝ろ。朝になったら帰れ」
愛も空のカップを置いた。
身体はすっかり温かくなっていた。
朱から受け取った毛布にくるまり、愛はソファに横になった。
すぐ近くに、朱の背中があった。
「朱さん……」
背中に話しかける。
「おやすみなさい」
「ああ」
愛は、ストーブの温もりと薪の爆ぜる心地よい音に包まれながら、眠りについた。
✴︎
夢の中で、愛は重い足音とドアの閉まる音を、時々聞いた。
朱は夜中に何度も外へ出かけた。
片手に斧を携えて。
丸太小屋に帰ってくると、必ずダルマストーブの前に座った。
寒くないように。
暑くないように。
薪を足したり、動かしたりした。
その最中、朱は名前を呼ばれた気がして振り返った。
ソファの愛はよく寝ている。
寝言を言ったようだった。
朱はそっと立ち上がり、愛の傍らにひざまづいた。
ずれた毛布を、静かに直した。
愛は安らかな寝息を立てている。
朱は俯いた。
握りしめた両手を額に当てた。
そして、祈るように目を閉じた。




