7.午後の日差し
窓から差し込む朝日の中で、ゆっくりと埃が舞っている。
家の屋根に降り立つ鳥の足音。
ハンモックが揺れている。
シンの規則正しい寝息が聞こえた。
昨夜の出来事が夢のようだった。
愛がベッドから起き上がると、枕元に小さな包みが置いてある。
中から二つの小さな袋と紙が出てきた。
紙に殴り書きがある。
妖精にからまれたら、投げること――
シンの寝ている間に出かけることを見透かされているようだった。
愛は二つの小さな袋を手に取って、まじまじと見つめた。
――唐辛子や胡椒の匂いがする。
人に投げても効果がありそうなそれを、愛はポケットにしっかりしまった。
✴︎
昨夜の恐怖が消えたわけではなかったが、愛は丸太小屋に行くと決めていた。
ピアノを弾きたい気持ちもあった。
それ以上に、朱に会って、一緒にお茶をしたいと思った。そうすれば、不安や恐怖が和らぐ気がした。
昨日歩いた道を辿って野原へ入る。
愛を鋭く見つめる赤い目――
炎がゆらめいているような、不思議な光だった。
あれがレッドキャップなのだろうか。
そして、愛をなぜか目の敵にしているらしい妖精。
分からないことが多かった。
愛はシンからもらった袋を、しっかり握りしめた。
湿った、あたたかい春の風が野原を吹き抜けてゆく。
たんぽぽやレンゲの花々。
蜂たちが、辺りを飛び交っている。
丸太小屋が近づくにつれて、愛の足取りは自然と軽くなった。
愛は軽やかな足音とともに、丸太小屋の階段を上った。
「どうぞ」
無愛想で落ち着いたバリトンの声。
丸太や煙の香り。
愛は早速、小組曲の楽譜を探したが、いつもの棚になかった。
「小組曲ならピアノの譜面台の上だ」
朱が教えてくれた。
「ひょっとして、朱さんも練習していた?」
「ああ」
愛は顔を綻ばせた。
楽譜を開き、鍵盤に指を乗せる。
小舟にて――
静かに穏やかにはじまる冒頭の旋律。
だが、心なしか、音が弾んでしまった。
✴︎
ピアノの音に、食器の触れ合う音が混ざった。
午後の日差しの中で、湯気がたなびいている。
愛は弾きやめて、朱を見た。
静かにお湯をポットに注いでいる。
砂時計を回す。
お湯を注いで温めたティーカップが、二つ並んでいる。
朱は砂時計をただ見ていた。
二人とも何も言わなかった。
穏やかな優しい沈黙……。
やがて砂が落ちきると、朱は紅茶をカップに注いだ。
蜂蜜を入れ、レモンを浮かべる。
紅茶が明るい琥珀色に輝いた。
朱は静かに愛を見た。
「どうぞ」
二人は向かい合って紅茶に口をつけた。
ここに来る前、愛は昨夜までの出来事を話そうと思っていた。
しかし、今は全くそんな気がしなかった。
代わりに、昔ピアノを習ったときのことを沢山話した。
朱は紅茶に口をつけながら、黙って話を聞いていた。
「――それでね、ユキ先生が……、あ、ピアノの先生がユキっていう人でね……」
朱の手がとまった。
愛は気がつかず、話し続けている。
朱とシン、ユキは昔、一緒に暮らしていた。
一番年上で、音楽に通じ、音楽を愛し、ピアノを楽しむことを朱に教えてくれたのはユキだった。
彼女は、ある出来事を境に記憶を失った。
川上の街にいるらしかった。
でもそれ以外のことは分からなかった。
今、生きているのかどうかさえ――
初めて愛と連弾した時、愛の弾く子守唄は、彼女の演奏によく似ていた。
――彼女も、彼女の音楽も、生きていた。
朱は、目を細めた。
それは、本当に一瞬だった。
朱は、無意識に微笑んだ。
今度は愛の手が止まった。
とても、大切なものを見たような気がした。
朱は視線を落とし、静かに紅茶を飲んでいた。
この人は……心の中にどんな土があるのだろう。
その中にどんな種が植わっているのだろう。
愛は気になった。
✴︎
頻繁に野原を訪れるのは危ないと分かっていた。
それでも愛は、朱の元を訪れずにはいられなかった。
その日は少し遅めの出発だった。
木立を抜ける途中、急に空気がかわる。
突然、辺りが薄暗くなり、冷たい雨が落ちてきた。
丸太小屋はもうすぐそこだった。
走ったが、丸太小屋についた愛は全身ずぶ濡れだった。まるで、朱と初めて会った日のように。
また服を借りなければと思いながら、呼び鈴をならす。
丸太小屋は静まり返っていた。
もう一度呼び鈴を鳴らす。
返事は無かった。
愛が扉をそっと引くと、ドアが開いた。
中はダルマストーブの残り火で温かい。
愛は小さな声で、お邪魔します、と言いながら、中へ入った。
朱が帰ってきたら、勝手に入ったことを詫びようと思った。
雨脚は強く、すぐには止みそうになかった。
まだ日が暮れるまでには時間があると思った。
愛はストーブのそばのソファに腰掛け、温もりに身を任せていた。
ストーブに残る炭が、赤く、ゆらめいていた。
愛の瞼は、次第に閉じられていった。
何かが軋む音がした、と思った。
愛は目を覚ました。
すでに日は暮れていた。
ストーブの火はとっくに落ちていた。
部屋は暗く、冷たく、静かだった。
体が冷えていた。
寒い――
その時、玄関の方で重い足音が響いた。
愛は息をひそめた。
ドアが、軋みながら、開いた。




