9.ドア一枚
朝起きた時、愛は自分がどこにいるのか、最初分からなかった。
カタカタと揺れているヤカン。
湯気が窓辺へ向かって、ゆっくりとほどけていた。
丸太の重厚な香り。
薪の爆ぜる音。
ストーブの前に座っている朱を見たときに、色々なことを思い出した。
愛は起き上がると、朱の背中に向けて挨拶した。
「朱さん……おはよう。あの、昨日は本当にごめんなさい」
改めて謝った。
振り返った朱の目から、赤い光は消えていた。
「もうここへは来るな」
その声に咎める様子はない。
いつものように淡々としていた。
愛は俯いた。
「……分かってる。夜はもう来ないようにする。だから……」
そして、顔をあげて、まっすぐに朱を見た。
「だから昼は来てもいい?」
朱は愛を見つめた。
そして、少しして、頷いた。
愛は嬉しそうに笑った。
「良かった。だって、朱さんとまだ小組曲を弾いてないでしょう?それに朱さんのピアノ、もっと聴きたい」
朱は視線を落とした。
ヤカンの湯が、かすかに鳴っている。
返す言葉が、すぐには見つからなかった。
愛がシンの家へ帰ると、小言が降ってきた。
シンは心配して、一晩中、野原を探し回ったらしい。
愛は返す言葉もなく謝った。
「探してる途中、レッドキャップにも追い回されて……」
「え?」
愛は顔を上げた。
「レッドキャップって……朱さんに?」
シンはまじまじと愛の顔を見た。
「愛。ひょっとして……あいつのところにいたの?」
愛は思わず顔を赤らめた。
しどろもどろになりながら経緯を説明すると、シンは黙って聞いてくれた。
そして、呆れと感心の入り混じった様子で愛を見る。
「分かった。とにかく愛が無事で良かったよ。そっか。あいつ、またピアノを弾き始めたのか」
シンは微笑んで、一瞬遠くを見るような目をしたあと、真剣な眼差しで愛を見た。
「で……分かっただろ?あいつのこと……。本当に気をつけてくれよ」
「シンさんは?」
「うん?」
「シンさんは、大丈夫なの?それに……昼間はどうして朱さんと会わないの?」
「会えないの。俺だけは」
シンは、口の端を下げた。
そしていつものように、寝てしまった。
✴︎
シンは週に二回ほど、昼間に出かけることがある。
朱のところに行くらしい。会えない代わりに手紙のやりとりをしたり、壁越しに会話をしたりするのだという。
何となく邪魔しない方がいいような気がして、愛は家で待つようにしていた。
シンは風をきって、野原を颯爽と歩く。
肩にはお馴染みの棒と布袋。
今日はそのほかに、もう一つ袋をかついでいた。
わざと大きな足音を立てながら、階段を上り、丸太小屋のドアの前に立つ。
一定のリズムでノックすると、中からも同じノックが返ってきた。
かついでいた袋をどさりと、ドアの横に置く。
ドアを背もたれにして腰を下ろすと、背中から声がした。
「テーブルにお茶がある。冷めてしまったろうが……」
ベランダのテーブルを見ると、紅茶のカップが置いてあった。
まだ、ほんのりあたたかい。
シンはそれを持って、再びドアの前に腰を下ろした。
「いつもありがとな」
シンは一口飲んだ。
朱の淹れる紅茶はいつも丁寧で、優しい味がする。
ドアの向こう側で物音がした。
朱もドアを背もたれにして腰掛けたらしい。
「……最近、愛が邪魔してるんだって?」
「ああ」
シンは、カップを口元に寄せた。
香ばしい香りが、鼻をくすぐった。
「また連弾する相手ができて、良かったな」
シンは、目を細めた。
ユキ姉のことを思い出しながら、紅茶を一口ずつ大事に飲んだ。
すると、
「その……彼女は大人しく家で待っているのか」
珍しく、言い淀みながら朱が話しかけてきた。
「え?まあ、そうだけど……?」
「昨日、目を離した隙に屋根に登った。鳥の巣を近くで見たいと言って」
シンは紅茶を運ぶ手を止めた。
「……は?」
「その後、飛び降りた」
「は?」
「面倒だからと、ハシゴを待たなかったらしい」
シンはしばらく黙っていた。
「ここへ来た時も川を下ってきて溺れかけた。無鉄砲で自分を省みない
「お前……イライラしてる?」
「そばで見ていないと……何をするか分からない」
シンは思わず肩を揺らして笑った。
その振動が次第に大きくなり、ドアにも伝わった。
朱は憮然としたかもしれない。
「お前、変わったな」
朱がイライラするなんて、子どもの時にもほとんどなかったのに。
シンはひとしきり笑った後、立ち上がった。
「街で貰ったもののお裾分け、置いとくよ。茶っぱも入ってる」
「いつもすまない」
「気にすんなって。それから……」
シンは少し声をひそめた。
「あの妖精。愛を気にしてた」
ドアがギシリときしんだ。
「愛のこと、気をつけてやって」
「……わかった」
シンは空になったカップを置いて、丸太小屋を去った。
真っ直ぐには帰らず、木立を途中で曲がる。
道端の花を少し摘んだ。
木漏れ日がゆれながら地面を照らしている。
突き当たりに小さな墓があった。
石を積んだだけの、簡素なものだった。
周囲は綺麗に手入れされている。
シンは花を供え、少しの間目を閉じて祈った。
風が吹き抜けて、供えた花を少し転がした。
雲が太陽を隠すと、周囲は薄暗くなった。
春の嵐が来そうだった。
シンは墓に向けて軽く一礼すると、踵を返した。
空気が湿りはじめ、ほんのりと雨のにおいがした。
もうすぐ、ここにも降るだろう。
早足で帰らねばならなかった。




