37.約束
――ルーナサの名を聞いた瞬間、見えるもの全てが鮮やかに色づいて、眩しく輝いた。
木々は、こんなに緑だったのだろうか。
空は、こんなに青かっただろうか。
鳥の声が聞こえた。
風に揺れる葉の音がした。
テーブルには、まだ紅茶の香りが残っていた。
色が、音が、香りが、一度に朱の中へ飛び込んでくる。
朱は目眩を覚えた。
目を閉じ、額に手を当てて、それがおさまるのを待った。
目を開けると、ルーナサがどこか寂しそうな表情を浮かべながら朱を見ていた。
朱は自分の両手を見た。
指をゆっくりと動かした。
自分の手だった。
目の前のティーカップを、そして、ルーナサを見た。
ルーナサと目が合うと、朱は穏やかに微笑んだ。
「やっと……あなたを名前で呼べる」
ルーナサは目を逸らした。
「二人の時以外は呼ぶな。お前さんにしか教えてないんだ」
「……わかった。ありがとう」
ルーナサは立ち上がった。
「お前さんは自由だ。どこへ行こうと、何をしようとな」
「ああ」
朱は頷いた。
ルーナサは朱に背を向けて、そのまま歩き出そうとした。
その背中に朱が声をかけた。
「ルーナサ」
ルーナサは立ち止まり、振り返った。
「七日後の朝、またここでお茶をしないか?」
ルーナサは朱を見た。
胸の奥に、何かが込み上げてくるような気がした。
それが何なのか、ルーナサにはまだ分からなかった。
ルーナサはしばらくの間、朱を見ていたが、やがて頷いた。
「……わかった。七日後の朝に来る」
「待っている」
朱は目を細めて微笑み、静かに頷いた。
その朱の顔を見て、ルーナサは朱がアキトだった頃を思い出した。
朱は物静かな子どもだった。
心の中の静謐さは、そこに佇む木々のようだった。
そっと見せる優しさは蝋燭の灯のように、周りをほのかに照らした。
朱のそばは居心地がよかった。
あの娘もきっとそうなのだろう。
「俺の故郷にこんな言葉がある」
ルーナサは右手を差し出した。
朱も右手を差し出し、二人は握手を交わした。
「モ・クシュラ」
それだけ言うと、ルーナサは去っていった。
木立の枝葉が風に揺れて音を立てていた。
✴︎
朱は一人になると、テーブルの片付けを始めた。
ティーカップとポットを盆に載せた。
七日後の朝――。
交わしたばかりの約束を思い出して、朱はわずかに口元を緩めた。
懐かしいのに、夜が明けた朝のように清々しかった。
盆を持って丸太小屋へ入り、台所に置いた。
二つ並んだ空のカップを見て、朱はふと窓の外を見た。
日はまだ高かった。
片付けはそのままに、朱はマントを羽織り、フードを深く被った。
外へ出ると、風が頬を撫でた。
木漏れ日が足元に揺れ、野原の草が風にざわめいた。
朱はその中を歩き、街へ向かった。
大きな木の横を通り、街へ入った。
意識が朦朧とすることは、なかった。
これほど多くの人を見るのは、子どもの頃以来だった。
久しぶりの人混みには、少し目が回りそうになった。
何度か人に道を尋ねながら、朱は目的の場所へ辿り着いた。
ドアの前に立ち、建物を見上げた。
朱は自分の右手を見た。
そして、ドアをノックした。




