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かなりや  作者: やうた まゆ 
Ⅲ.夏の夜明けの歌
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36.木陰


木立の向こうに、人とは違う気配があった。


足音はまだ聞こえない。

それでも、誰が来たのか分かった。


ああ、彼だ。


朱は静かにお茶の準備を始めた。


湯を沸かし、カップを二つ用意してから、朱はベランダへ出た。


木立の方を見ると、赤い帽子が歩いてくるのが見えた。


Frondi tenere e belle……


Ombra mai fu di vegetabile……


朱は小さく口ずさんだ。


赤い帽子が立ち止まった。


妖精が帽子のふちを持ち上げて、朱を見た。


「お前さんは初めてお茶を飲んだ日も、その歌を歌っていた」


「あの時は冬だった。この歌は今の季節の方がいい」


「どういう歌なんだ?」


「あなたが今立っているところ」


妖精は足元を見た。


柔らかな木陰の中で、木漏れ日が揺れていた。


「そんな優しい木陰を讃えている」


朱はそう言うと、静かに微笑んだ。


「紅茶で構わないか?」


「ああ……」


妖精は少し戸惑いながら、頷いた。


朱はベランダのテーブルへ妖精を案内した。


朱がティーセットの盆を持って家から出てくると、妖精はテーブルの脇に立ったままだった。


「お前さんがよく分からん。まるで、急に昔に戻ったようだ」


朱は口元を緩めた。


「話したいことがある。お茶を飲みながら話そう」


妖精が座ると、朱は静かにカップを並べた。


ポットを持ち上げて、傾けた。


琥珀色の紅茶がカップを満たしていった。


レモンを落とすと、琥珀色がふっと明るくなった。


蜂蜜がゆっくりと沈んでいった。


「どうぞ」


二人の前に、紅茶のカップが一つずつ並んだ。


朱と妖精は木立を眺めるように、テーブルの脇へ並んで座った。


「あの娘のことか?」


妖精は朱を見ないまま、口を開いた。


「彼女に……手を出さないでほしい。先日のあれは、あなただろう?」


「あの娘は邪魔だ」


妖精は吐き捨てるように言った。


憎々しげに顔を歪めていたが、紅茶のカップに口をつけると、少し表情を和らげた。


「お前さんの家族によそ者はいらん」


朱はすぐには答えず、紅茶を一口飲んでからカップを置いた。


「あなたは俺に木陰をつくってくれた。あの時、家族を失った俺に、周りの世界は眩しすぎた……。あなたと会話する時間が心地よかったんだ」


朱はかすかに微笑んだ。


「あなたと俺は、家族ではない。けれど……友達になれるのかもしれない」


「ともだち……?」


妖精は音の響きを確かめるように、言葉を繰り返した。


「俺も、まだはっきり分かっていない。だが……一緒にいる時間が楽しくて、離れてもまた会いたいと思う。……そんな相手のことらしい」


妖精はしばらく紅茶を見つめた。


「……俺にはよく分からん」


小さな羽ばたきが聞こえた。


朱が屋根を見上げると、毛虫をくわえた鳥がとまっていた。


朱は口元を緩めた。


「楽しい……会いたい……」


妖精は朱の言葉を繰り返した。


朱はその隣で静かにティーカップを傾けた。


爽やかな風が木々の葉を揺らしていった。


「よく分からん……。だが、俺は、お前さんのつくる火を見るのが好きだ。お前さんと飲むお茶の時間も好きだ。友達なら……叶うのか?」


「多分……」


朱は少しの間、目を伏せた。


「俺には……あなたも大事だ。でも、他にも大事な人たちがいる」


朱は顔を上げ、少しの間、木立の若葉を眺めた。


そして、妖精を見た。


「それを……受け入れてもらえないだろうか」


妖精は朱から目をそらし、雲の影に沈んだ木立を見た。


「それでお前さんは?俺の前からいなくなるのか?」


「いや……いなくはならない」


朱は紅茶を一口、飲んだ。


「また、一緒にお茶を飲みたい」


朱は再び妖精を見た。


「だから、受け入れてくれたら……嬉しい」


妖精も朱を見た。

朱の目が、空の青さを映していた。


妖精は少し不貞腐れたように、テーブルに視線を落とした。


「お前さんが嬉しければ、俺に何の得がある」


口を歪めながら紅茶のカップを手に取り、飲んだ。


「あの娘のせいか。お前さんは変わった。いや……」


妖精は少しの間、カップの紅茶を見つめた。


「……だが、お前さんが嬉しそうにしているのは、嫌いではない」


朱は柔らかく微笑んで、ティーカップを傾けた。


「俺は彼女もシンも……あなたも、大切なんだ」


妖精は少しの間、目を閉じた。


「お前さんは俺にたくさんのものをくれた。だが……」


妖精は目を開き、朱を静かな眼差しで見た。


「俺は……お茶の淹れ方を知らない。歌も歌えないい。お前さんにやれるものがない。……名くらいしか」


妖精は帽子のふちに手をかけた。


雲が風に流れ、若葉に日の光が戻った。


「俺の名前をやろう」


妖精は立ち上がり、木陰を見た。

木漏れ日が風に揺れていた。

それから、朱を見た。


「ルーナサだ」


朱は黙って、妖精を見つめた。


屋根の上の鳥が、風に乗って飛び立った。


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