38.歌
ノックの音が部屋に響いた。
「……開いてるよ」
シンはハンモックに揺られながら、眠そうに言った。
ドアがゆっくり音を立てて開き、再び閉まる。
「早かったね。釘、すぐに見つかった?」
問いに返事はない。
「愛?」
不審に思ったシンは体を捻り、ハンモックから顔をだした。
すると、ドアの前に立つ朱が目に入った。
シンは驚いて体勢を崩し、ハンモックから落ちた。
腰に手を当ててさすり、床から朱を見上げる。
恨めしそうに睨んだ。
「痛た……。お前のせいだからな」
「……そうかもしれない」
朱は真面目な顔で、素直に頷いた。
シンは軽く笑って立ち上がり、腰を押さえながら、朱の顔を覗き込んだ。
「戻った……のか?」
「ああ……」
朱はフードを下ろして、頷いた。
シンは目を細めた。
一度、天井を仰いだ。
それから朱を見て、静かに頷いた。
「……おかえり。アキト」
次の瞬間、シンは朱を抱きしめた。
背中を二度、軽く叩く。
「……よく戻ってきたな」
シンは抱擁を解くと、朱の両肩に手を置いた。
シンの顔は笑っていたが、その頬は濡れていた。
朱はシンが涙を流すのを初めて見た。
朱は俯いた。
「シン……」
やがて顔を上げると、そっと微笑んだ。
「……ありがとう」
シンは頷き、バンダナを外してゴシゴシ顔を拭った。
自分の頬を軽く手のひらでたたく。
そして棚から紅茶の缶を取り出すと、朱に渡した。
「淹れてくれよ。お湯沸かすからさ」
朱は缶を受け取ると、黙って頷いた。
お湯が沸くまでの間、朱はルーナサとのやりとりをシンに話した。
ルーナサの名は伏せたままで。
シンは黙って話を聞き、朱が話し終わると静かに呟いた。
「あいつさ。お前にしたことは許せなかったけど、なぜか憎みきれなかった。あいつなりに、お前のことを気にかけていたのは分かったからさ」
シンは一つ息を吐いた。
「まあ、今度会ったら文句の一つも言ってやりたいけどさ」
ヤカンが揺れた。
朱はヤカンを火からおろすと、温めたポットにお湯をそっと注いだ。
シンは椅子に後ろ向きに座ると、背もたれに顎をのせて、朱がお茶を淹れるのを見ていた。
湯の音と、立ちのぼる香り。
空気に溶けていく白い湯気。
「どうぞ」
朱は熱いティーカップをシンの前にそっと置いた。
シンはカップに口をつけると、微笑んだ。
「……やっぱり、お前のお茶はうまいよ。ありがとな」
朱は少し頷くと、自分もティーカップを手に取った。
カップを傾けた後、口を開いた。
「シン……。『モ・クシュラ』という言葉の意味を知っているか?」
「え?……ああ。妖精仲間から聞いたことあるな。確か……『私の鼓動』。親しい相手に使う言葉だよ」
朱はそっと、ティーカップを机に置いた。
紅茶の水面に一瞬、波紋が広がった。
「……そうか」
朱はそれ以上何も言わなかった。
シンも何も聞かなかった。
昼の日差しが窓から差し込み、朱の手元を明るく照らした。
街を行き交う人々の足音と声が窓越しに聞こえてくる。
「なあ……」
ティーカップの紅茶が半分ほどになった頃、シンがポツリと言った。
「俺……お前が戻ったら旅に出ようと思っていたんだ。やりたいことがあってさ」
朱は黙って聞いていた。
シンはティーカップを傾けて紅茶を飲み終えた。
「できれば愛もいるときに二人に話したいんだ。俺、愛を探してくる。待っててくれよな」
朱が頷くと、シンは立ち上がって出ていった。
朱は紅茶を飲み終えると、静かに目を閉じ、椅子の背にもたれかかった。
慣れない人混みと音に、少し疲れていた。
午後の日差しの中で、椅子に腰掛けたまま、朱は少しまどろんだ。
こんなふうに無防備に眠るのは、いつ以来だろう。
夢うつつの中で、朱は昔の丸太小屋にいた。
椅子に座って本を読んでいた。
ダルマストーブの火が優しく揺らいでいた。
次第に瞼が重くなってくると、ユキが毛布をかけてくれた……。
……誰かが動いたときのような、空気の揺らぎを感じて、朱はゆっくり目を開けた。
目の前には、膝掛けを手にした愛が屈んでいた。
朱はぼんやりしたまま、愛の頬に触れた。
驚いた愛に、朱は小さく囁いた。
「あなたのおかげで歌を思い出すことができた」
朱は微かに微笑んだ。
「ありがとう」




