34.二羽の鳥
頭の下で手を組みながら、シンはハンモックに揺られていた。
自分を取り戻した人はいます。
希望を捨てないでーー
瞼の内側に、クマさんの姿が浮かぶ。
クマさんは言っていた。
名前を失っても、戻れた人はいると。
ーーお前などに、名前をやるものか。
妖精は吐き捨てた。
名前を取り戻せばいい?
「いや……」
妖精は、朱を従えているようだった。
二人は対等ではない。
朱はあいつに名前を与えた。
でも、あいつは自分の名前を朱に与えていない。
ならばーー
対等になれれば……。
朱も、ただの妖精に戻れるのかもしれない。
「分かった気がするよ、クマさん」
シンは寝返りをうって、横を向いた。
「あいつの、名前か」
✴︎
太陽がまだ空高く留まっているうちに、シンは口笛を吹きながら野原を歩き、丸太小屋へ向かった。
木立の道を歩いていると、薪割りの音が聞こえてくる。
朱の後ろ姿が見えた。
「おーい、今大丈夫……?」
朱が振り向いて、シンの姿をその目に捉える。
その目が赤く揺らいだ。
「……じゃないな」
朱の手には斧があった。
シンは一歩、二歩と、ゆっくり後ろに下がる。
朱が斧を振りかざした瞬間、シンは後ろを向いて、駆け出した。
「まったく……あいつ、アキトをなんだと思ってるんだ」
いない妖精に悪態をつきながら、シンは走った。
「お前もなあ、少し懲りろよな」
シンはふいに立ち止まり、振り返った。
その瞬間、朱の足元が崩れた。
「逃げ足の速さで俺に勝てると思うなよ」
シンは朱の頭めがけて、クシャクシャに丸めた紙を投げつける。
「俺からの伝言。見といて」
言うなり、その場を走り去った。
✴︎
丸太小屋にノックの音が響く。
「……シンか?」
朱は窓の外を見ないまま、ドアの向こう側に呼びかけた。
「……良かった、話ができそうだな」
ドアの向こう側から安堵の声音が聞こえてきた。
「まったく、落ち着いてお茶もできやしない」
「……すまない」
「お前にじゃないよ。あのサンタクロースにだよ。全く、厄介なプレゼントばっかり落としやがって。ところで俺の伝言、読んだ?」
シンはドアに背をもたれて座った。
「……ああ、読んだ」
朱もドアを挟んで同じように座る。
「お前を取り戻す方法があるはずなんだ。まずは、あいつをとっちめて、名前を聞き出そう」
朱は少しの間、黙っていた。
「シン……ありがとう。だが、彼に接触するのは俺だけでいい。これ以上は……」
「家族だろ?弟の世話くらい、やかせてくれよ」
朱は俯いた。
何か答えようとして、口を開いた。
けれど、声は出なかった。
✴︎
窓の外でフクロウが鳴いた。
穏やかな火がかすかに歌っていた。
「……それから、どうしたの?」
愛はティーカップを中途半端に持ち上げたままだったことに気付いて、口をつけた。
ハーブティーはとうに冷めていた。
「それから、何年も経ったが……」
朱もカップを傾けると、静かに置いた。
「結局、彼の名前は聞き出せなかった」
置いたカップに視線を落とす。
「彼は寂しかったんだろう」
顔を上げて、愛を見た。
「今は……彼の気持ちが分かる気がする。俺も、あなたが帰ってしまうと寂しい」
朱は穏やかに、微笑んだ。
愛はその微笑みに吸い込まれた。
「朱さん、私も……少しだけ、隣に座ってもいい?」
朱が静かに頷いて、隣を空けてくれた。
愛は立ち上がり、朱の隣に座った。
ピアノを連弾したときのように、肩と肩が触れ合った。
二人とも何も話さなかった。
寄り添って羽を休める二羽の鳥のように。
テーブルのランプの灯が、辺りをかすかに照らす。
窓の外で、夜の風が優しく木々を揺らしていた。




