33.夜の野原
「シン!北の大岩の方角!」
「ああ、了解」
シンは、風のように駆けた。
木の上で、夜好きの妖精が手を振っている。
最近は、妖精達が迷い人の場所をシンに教えてくれた。
野原のどこまでが安全で、どこからが危険なのかも、段々と分かってきた。
それでも、うっかり朱を呼びよせてしまうことがある。
そんなとき、シンは朝まで逃げ回った。
朱から逃げ切れるのはシンくらいのものだった。
街の人々は皆、口にした。
シンが囮になって俺たちを逃がしてくれたんだ。
シンのおかげで助かった。
あいつは命の恩人だ。
お礼を言われるたびに、シンは頭をかいた。
「なんかさ。絵本で、ええと……赤鬼と青鬼の話があるじゃない?その赤鬼になった気分だよ。お前と鬼ごっこしてるだけで、お礼を言われるんだからさ」
シンは居心地悪そうに朱に言った。
「いらないって言ってるのに勝手にくれるんだ。お前の好きそうなお茶や、お菓子もあるから、もらってくれよな」
シンは街に暮らし、昼間、朱の住む丸太小屋にやってきては、包みを置いていった。
夜になれば、シンは必ず朱の前に立った。
シンがきてから、朱は人を殺すことなく過ごしていた。
朱は安堵しつつ、また、常に渇きに悩まされた。
それを紛らわすように、お茶を淹れることが増えた。
夜の野原に近づく人は減っていき、次第にシンは、ゆっくりと夜の野原の散歩を楽しむようになった。
柔らかい風の音がかすかに聞こえる。
星が綺麗だった。
シンは鼻歌を歌い、棒を片手に野原を歩いた。
野原や街に、静けさが戻った。
✴︎
ある日、朱とシンは並んで木立の下を歩いていた。
木々の隙間から差し込む朝日が美しい。
小鳥が小さく囀っていた。
「この木立の通りってさ、妖精が作った道なんだな」
シンがふと、呟いた。
「知り合いの妖精に聞いたんだ。ここは隠されてるから、道を知らないと入れないんだって」
「その通りだ。なぜよそ者が入り込んでいる?」
突然、しわがれた声が聞こえた。
二人は声の方を見た。
赤錆色の帽子の下で、妖精の顔が憎々しげに歪んでいる。
朱から聞いていた通りの見た目の妖精。
シンは棒を両手に握りなおした。
「やあ……弟が世話になったみたいだね。はじめまして」
「お前は……あの丸太小屋にいたな」
妖精は帽子の影から、シンを見据えた。
それから朱を見る。
朱は妖精を見ているようで、見ていなかった。
妖精の目がほんの一瞬だけ、揺れた。
そして、ふたたびシンを見た。
口元が裂けるような笑いを浮かべる。
懐から瓶を取り出す。
すかさず、シンの顔めがけて中身をふりまいた。
避ける間もなく、シンの顔に赤い液体がかかった。
「お前が……ハルだろう?」
妖精は唇を引いて笑った。
シンはバンダナを外して顔を拭った。
液体がかかった片目を閉じたまま、反対の目で妖精を睨む。
「まったく……。なんて素敵な挨拶だ。お前、いい知り合いを持ってるよ」
妖精は笑いを引っ込めた。
「……妙だな」
口元を引き結んでシンを睨む。
「……ハルではないのか?」
シンは横にいる朱をチラリと見た。
目を開けてはいるが、ずっとぼんやりしている。
「俺はシン。こいつの兄貴代わりさ。あんたの名前も教えてくれよ」
シンは妖精に向き直り、一呼吸の後、妖精めがけて軽やかに棒を突き出す。
妖精は帽子をおさえて、避けた。
「お前などに、名前をやるものか」
「……名前か」
シンは少しだけ笑って、懐から小袋を取り出した。
「なるほどね」
白い粉を空中にまく。
妖精は鼻と口をおさえてシンを睨む。
妖精めがけて、シンがロープを投げた。
縛ろうとしてロープを引いたが、妖精の手が触れた途端、ロープはバラバラに切れてしまった。
辺りを霧が覆い始めた。
妖精は霧に紛れて、姿を消した。
シンは辺りを見回したが、霧で何も見えなくなってしまった。
「お前は目障りだ」
どこからか、妖精の声だけが聞こえた。
「俺の邪魔をするな……」
何となく嫌な感じがして、シンがしゃがむと、頭のうえをナイフが飛んでいった。
振り返ると、朱の横に妖精が立っていた。
朱の耳元で何かを囁いた後、妖精は消えていった。
「……大丈夫か?」
シンはぼんやりしたままの朱に声をかける。
朱がゆっくりとシンを見た。
首を少し傾げ、薄らと笑みを浮かべた。
その目に、赤い光が揺らぐ。
シンは慌てて棒を構えた。
朱のナイフがシンを襲い、シンはかろうじて棒で弾く。
シンは目を細めた。
「あいつ……お前に何をした?」
返事はなかった。
シンはしばらく朱のナイフを避け続けた後、仕方なく背中を向けて駆け出し、その場を離れた。
追ってきた朱をなんとか振り切った後、シンは息を切らしながら立ち止まった。
棒を地面に突いた。
肩で息をしながら、空を見上げた。
「ユキ姉、クマさん……」
苦笑した。
「……手のかかる弟だと思わないか?」
額の汗が目の端を伝い、地面に落ちていった。
足元で、草が風に揺れていた。




