30.手
朱は、丸太小屋に入った。
ドアの脇に背をもたれて、しばらくの間、ぼんやり佇む。
すぐ脇にある本棚が目に入った。
懐かしい楽譜や本が並んでいた。
本を一冊手に取る。
うっすら積もった埃を払った。
大好きだった小説だ。
何度も読んだページを開く。
すがるように、文字を指でなぞる。
今日を愛し、自らが……成し得る程度を……
本の言葉が、崩れそうになる気持ちを少しだけ支えてくれた。
朱は外に出た。
薪を拾い、木を切り、薪を割った。
ハーブを見つけ、根から優しく抜いて持ち帰り、庭に植えた。
家の中の埃を落とし、箒で掃き、床を拭いた。
日が暮れた後のことを考えないようにした。
家を整える為に、ただ動き続けた。
そして、夕暮れはいつもと同じようにやってきた。
景色は色を失って、暗闇に沈んでいった。
野原を歩く人の呼吸、話し声、体温……。
あらゆる気配が、朱を夜の野原へ誘った。
出かけずにはいられなかった。
夜が明けると、手にかけた人達が思い浮かぶようになった。
慎ましく一人暮らしていた老人。
妻と子を逃がして倒れ伏した男。
夫の名前を呼んだ妻。
笑うことも泣くこともなくなった。
何か食べることもなくなった。
代わりに、よくお茶を入れた。
一人、ティーカップを傾けた。
毎日を淡々と過ごした。
時々、妖精が現れた。
だが、朱は昔のように話さなくなっていた。
お茶の間、静かな時間を二人で過ごした。
妖精は不満げに帰ってゆき、あまり現れなくなった。
命からがら逃げた人々が、朱の噂を広げた。
夜、外にでると、殺される。
白い髪のレッドキャップが野原にいる。
野原の端には元々家が建ち並んでいた。
小さな町のように賑わっていたところもあった。
だが、次第に人は去っていった。
丸太小屋の屋根に、鳥が巣を作った。
鳥だけが、朱の側で歌った。
✴︎
冷たい冬の空気がゆるむ。
暖かい風と冷たい風が交互に吹くようになった。
日が暮れ、ぼんやりした月が雲間に顔を出していた。
久しぶりに、誰かが野原へやってきた。
朱は無言で斧を手に取り、外へ出た。
何日も渇いたままだった。
ぬるい風が、人の居場所を伝えてくる。
野原の端まで、あっという間に駆け抜けた。
廃墟の立ち並ぶ通りに出る。
通りを大きな人影がのっそり歩いていた。
朱はゆっくり歩み寄った。
……振り下ろした斧は、何かに弾かれて、手から滑り落ちた。
のっそりした大きな影が、棒を構えて立ち尽くしていた。
息を飲む音が聞こえた。
「坊ちゃん……」
朱は表情を動かさず、斧を拾い直した。
大きな男は、声を振るわせた。
「こんなことになるなんて……」
朱はもう一度、男に向き直る。
赤い目で、男を見据えた。
再び斧を振り上げた。
✴︎
足元に男が倒れていた。
まだ息がある。
「坊ちゃん……坊ちゃんは悪くない……あの日から……」
切れ切れの苦しそうな呼吸が朱の耳に届いた。
朱は膝をついた。
懐から帽子を取り出す。
「……あたし達が悪いんです……ごめんなさいね……守って……あげられなくて……」
黙って赤い溜まりに帽子を浸す。
その時、男が震える腕を、ゆっくり持ち上げた。
赤く濡れた手が、優しく、朱の頭を撫でた。
朱は目を見開いた。
「自分……せめちゃいけません……希望……捨てないで……」
腕が落ちる。
男の目は閉じられていた。
「クマさん……」
朱の声が揺れた。
✴︎
立ち上がった朱の足に、転がっていた棒があたる。
クマさんが持っていたものだった。
その近くにしわくちゃの封筒が落ちていた。
封筒に自分の名前が書かれていた。
朱はしばらくそれを見つめ、そっと胸へしまった。
✴︎
朱は時々、川辺で焚き火をした。
火をおこしては、ぼんやりした。
ハーブティーを入れた。
一人だった。
寒い日は丸太小屋のダルマストーブに火を入れた。
午後の日差しの中で紅茶を淹れた。
一人だった。
いつも一人だった。
朱は無言で佇む木のように、毎日を暮らした。
生き物ではなく、植物のように。
ずっと、この時間が続くのだと思った。
夜、その人と出会うまで。
懐かしい声だった。
「アキト」
その人は、朗らかに笑った。
その名前を呼ばれたのは、いつ以来だっただろう。




