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かなりや  作者: やうた まゆ 
Ⅱ.冬の夜の風
30/39

30.手


朱は、丸太小屋に入った。


ドアの脇に背をもたれて、しばらくの間、ぼんやり佇む。


すぐ脇にある本棚が目に入った。

懐かしい楽譜や本が並んでいた。


本を一冊手に取る。

うっすら積もった埃を払った。


大好きだった小説だ。


何度も読んだページを開く。

すがるように、文字を指でなぞる。


今日を愛し、自らが……成し得る程度を……


本の言葉が、崩れそうになる気持ちを少しだけ支えてくれた。


朱は外に出た。


薪を拾い、木を切り、薪を割った。

ハーブを見つけ、根から優しく抜いて持ち帰り、庭に植えた。


家の中の埃を落とし、箒で掃き、床を拭いた。


日が暮れた後のことを考えないようにした。

家を整える為に、ただ動き続けた。


そして、夕暮れはいつもと同じようにやってきた。

景色は色を失って、暗闇に沈んでいった。


野原を歩く人の呼吸、話し声、体温……。


あらゆる気配が、朱を夜の野原へ誘った。

出かけずにはいられなかった。


夜が明けると、手にかけた人達が思い浮かぶようになった。


慎ましく一人暮らしていた老人。

妻と子を逃がして倒れ伏した男。

夫の名前を呼んだ妻。


笑うことも泣くこともなくなった。

何か食べることもなくなった。


代わりに、よくお茶を入れた。

一人、ティーカップを傾けた。


毎日を淡々と過ごした。


時々、妖精が現れた。


だが、朱は昔のように話さなくなっていた。

お茶の間、静かな時間を二人で過ごした。


妖精は不満げに帰ってゆき、あまり現れなくなった。


命からがら逃げた人々が、朱の噂を広げた。


夜、外にでると、殺される。

白い髪のレッドキャップが野原にいる。


野原の端には元々家が建ち並んでいた。

小さな町のように賑わっていたところもあった。


だが、次第に人は去っていった。


丸太小屋の屋根に、鳥が巣を作った。

鳥だけが、朱の側で歌った。


✴︎


冷たい冬の空気がゆるむ。

暖かい風と冷たい風が交互に吹くようになった。


日が暮れ、ぼんやりした月が雲間に顔を出していた。


久しぶりに、誰かが野原へやってきた。


朱は無言で斧を手に取り、外へ出た。

何日も渇いたままだった。


ぬるい風が、人の居場所を伝えてくる。

野原の端まで、あっという間に駆け抜けた。


廃墟の立ち並ぶ通りに出る。


通りを大きな人影がのっそり歩いていた。


朱はゆっくり歩み寄った。


……振り下ろした斧は、何かに弾かれて、手から滑り落ちた。


のっそりした大きな影が、棒を構えて立ち尽くしていた。


息を飲む音が聞こえた。


「坊ちゃん……」


朱は表情を動かさず、斧を拾い直した。

大きな男は、声を振るわせた。


「こんなことになるなんて……」


朱はもう一度、男に向き直る。


赤い目で、男を見据えた。

再び斧を振り上げた。


✴︎


足元に男が倒れていた。


まだ息がある。


「坊ちゃん……坊ちゃんは悪くない……あの日から……」


切れ切れの苦しそうな呼吸が朱の耳に届いた。


朱は膝をついた。

懐から帽子を取り出す。


「……あたし達が悪いんです……ごめんなさいね……守って……あげられなくて……」


黙って赤い溜まりに帽子を浸す。


その時、男が震える腕を、ゆっくり持ち上げた。

赤く濡れた手が、優しく、朱の頭を撫でた。


朱は目を見開いた。


「自分……せめちゃいけません……希望……捨てないで……」


腕が落ちる。

男の目は閉じられていた。


「クマさん……」


朱の声が揺れた。


✴︎


立ち上がった朱の足に、転がっていた棒があたる。

クマさんが持っていたものだった。


その近くにしわくちゃの封筒が落ちていた。

封筒に自分の名前が書かれていた。


朱はしばらくそれを見つめ、そっと胸へしまった。


✴︎


朱は時々、川辺で焚き火をした。

火をおこしては、ぼんやりした。

ハーブティーを入れた。


一人だった。


寒い日は丸太小屋のダルマストーブに火を入れた。

午後の日差しの中で紅茶を淹れた。


一人だった。


いつも一人だった。


朱は無言で佇む木のように、毎日を暮らした。

生き物ではなく、植物のように。


ずっと、この時間が続くのだと思った。


夜、その人と出会うまで。


懐かしい声だった。


「アキト」


その人は、朗らかに笑った。


その名前を呼ばれたのは、いつ以来だっただろう。



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