29.朱
空が高く唸っている。
風が草を乱暴に揺らしながら、野原を吹き抜ける。
アキトも風の一部になった。
草木を揺らしながら、野原を駆け抜ける。
赤く光る目を細めた。
もう少しで、渇きが満たされる。
口元が、わずかに緩んだ。
✴︎
男女が、互いを庇い合いながら、地面に臥した。
アキトは赤く染まった斧をそっと置いた。
倒れた二人の前に跪いた。
懐から半端な帽子を取り出す。
そのとき、かすれた弱々しい歌声が、辺りに響いた。
Vaga luna……che inargenti……
アキトの肩がびくりと震えた。
女性の閉じた口元が、かすかに歌を紡いでいた。
風にかき消されそうな、か細い声。
アキトの手から、帽子がこぼれ落ちた。
目を、大きく見開く。
その目は、ここにないものを見た。
紅茶の湯気、
ストーブの中で揺れる火、
窓から差し込む午後の日差し……
ユキが掃除しながら歌っている。
金槌の音が丸太小屋に響く。
笑い声……
——歌が、途切れた。
アキトの目から、赤い光が静かに消えた。
「……え」
アキトの目の前で、女性が男性の手を握った。
二人はそのまま静かに息を引き取った。
……どれくらい、そこに立っていただろう。
いつの間にか、頬があたたかく濡れている。
アキトは胸を強く押さえた。
歯を強く食いしばる。
だめだ。終わりにしないと——
あそこから飛び降りれば——
崖へ向かって、早足で歩きだした。
だが、坂を登る内に、足元が次第に霞んでくる。
意識が遠くなる——
気付いたとき、アキトは丸太小屋にいた。
同じようなことが何回も起こった。
ならばと、人のいない山へ向かった。
野原を離れて、山を登り出した。
景色が霞んで、意識が朦朧とし始めた。
気付いたら、丸太小屋にいた。
見えない鎖で縛られているようだった。
アキトは丸太小屋で一人突っ伏した。
床板に爪が食い込んだ。
低い嗚咽を、丸太小屋だけが聴いていた。
街の人達が言い始めた。
「ひどい有様だ。道が……まるで朱に染まったようだ」
「まただ。朱に染まってる」
「朱……」
「朱だ」
雨上がりのある朝、アキトは水たまりに映った自分を見た。
最初は、日の光がまぶしいせいだと思った。
茶色だったはずの髪。
水面に映った髪の毛は真っ白だった。
アキトは、頭に両手を当てた。
そのまま、グシャリと髪を握りつぶした。
濡れるのも構わず、膝をついた。
水面に映る空は、何故か透き通るように青かった。
——朱。
その名だけが、残った。




