23.夜明けの影
アキトが目を覚ましたとき、窓の外は真っ暗だった。
コートをきて、大きなカゴを持って、玄関を静かに開けた。
しんと冷えた空気。
生き物がまだ眠っている時間の静けさ。
夜空に瞬く星。
真っ黒な木の影。
アキトは白い息を吐きながら、川辺に向かって歩いた。
自分の足音が静かな夜をきざんだ。
ゆるやかな水音が近づいてくる。
昨日のうちに、薪や石を運んで、たき火の準備はしておいた。
たきつけ用の枝を並べて、火をつける。
囲むように置いた石の上に、水を張った小さな鍋を置く。
枝が最初は弱々しく、次第に勢いよく燃えて、大きな薪に火が燃え移る。
やがて火が落ち着いた。
小さな小さな椅子を二つ。
石の上に布をひいてテーブル代わりにする。
そこにティーカップを二つ、小さめのポットを一つ。
茶葉は入れてきた。
クッキーののった皿。
星空の下で、アキトはゆっくりお茶の用意をした。
真っ暗な草原にたき火の明かり、火の爆ぜる音と、アキトだけ。
お茶の用意をしているとユキを思い出す。
Frondi tenere…… e belle……
ユキが口ずさんでいた歌を、つぶやくように歌う。聴いているのは、目の前の大きな川だけだった。
…ne giunga a profanarvi austro rapace…
遠くで何かが鳴いた。水鳥だろうか。
川が、薄明るい空を映し出した。
Ombra mai fu…di vegetabile……
足音とともに近づいてくる黒い影があった。
川の向こうから日が顔を出す。
黒い影は、日が昇るにつれて赤く色づいていった。
「おはよう」
アキトが声をかけた。
「ああ、おはよう」
妖精は目を細めて答えた。
赤錆色の帽子をかぶり、同じ色のコートを着ている姿は、サンタクロースのようだった。
目は鋭く、顔には皺があり、長い髪を束にしてくくっていた。
肩からかけたヒモにナイフがぶら下がっている。
「来てくれてありがとう。あの、紅茶でいいかな」
アキトはポットを持ち上げた。
「紅茶は飲んだことがない。楽しみだ」
低くしわがれた声だった。
「あの、僕はアキトというんだ。よかったら、名前を教えてくれない?あなたのことを、ちゃんと名前で呼びたい」
妖精はアキトを見た。
アキトはどきりとした。
こちらを値踏みするような、鋭い目だった。
「……名前は大切なものだ。信頼できる相手にしか教えられない。おまえさんは……アキトは、大丈夫だろうが、少し待ってくれないか」
「ごめんなさい。知らなかった」
アキトは素直に謝った。
「自分から妖精に軽々しく名前を教えない方がいい。何に使われるかわからない」
「分かった。これから気をつけるよ。ありがとう」
アキトはお湯をポットに注いだ。
温かい湯気がふわりとわきあがる。
すぐにポットの蓋をしめた。
「少し待ってね。待った方がおいしいんだ」
妖精は、たき火を見つめていた。
「アキトはきれいな炎をつくる。丁寧なたき火だ。俺はおまえのたき火が好きだ。気に入った……」
「ありがとう」
アキトは少し赤くなった。
二人は少しの時間、黙ってたき火をながめた。
たき火の爆ぜる音だけが響いた。
アキトはポットから二つのティーカップにそっと紅茶を注いだ。
そこにレモンを浮かべて、蜂蜜をたっぷり入れる。
紅茶の色が濃い茶色から明るい琥珀色へ変わった。
妖精は瞬きした。
「魔法を使ったのか。きれいな色だ」
「魔法じゃないよ。レモンを浮かべると、色が変わるの。熱いから気をつけて飲んでね」
妖精の前にティーカップとクッキーを並べる。
妖精はカップの取っ手を慣れない手つきで持ちながら、アキトの真似をして一口飲んだ。
「ああ、不思議だ。とても静かで、寒い。なのにあたたかくて心地よい……満ち足りていくようだ。こんな時間を過ごすのは初めてだ……」
「外でお茶を飲むと不思議なんだ。自分や、一緒に飲む人がとても大切なものだって感じがする」
「俺のことも、そう思うのか」
「うん」
「そうか……」
妖精は、まぶしそうに川面をながめている。
アキトはクッキーも勧めながら、意を決したように話し始めた。
「もし、知っていたら教えてほしいんだ。僕の大切な人が、妖精の歌を聴いて、何もかも忘れてしまったの。思い出す方法……知らない?」
「妖精の歌に魅入られたのか。自分が分からなくなったんだな」
「そんな風に聞いている。街に行ったまま、帰ってこないんだ。僕の家族みたいな人なんだ」
「家族?」
「ええと、いつも一緒にいる大切な人」
妖精は、目を閉じた。
「妖精に心を持っていかれると、戻ることはない。時々、心の欠片が残っていることもあるが……いや、期待しないことだ。滅多にない」
アキトは少しだけ微笑んだ。
「そっか……。ありがとう」
妖精は、カップを傾けながら、何か考えていた。
「……お前さんは礼を何度も言うのだな。……このクッキーも旨いな」
「良かった。また焼くよ」
日が少し高くなってきていた。
そろそろ丸太小屋に帰った方がいいだろう。
ハルには、夜明けに散歩してくると伝えてある。あまり遅いと心配するだろう。
「僕、そろそろ帰らなくちゃ」
「家族のところに帰るんだな」
アキトは少し考えてから口を開いた。
「またお話できるかな」
「今日の時間は気に入った。また来よう。七日後の同じ時間に」
「ありがとう。待ってるね」
妖精が川辺に沿って帰っていく。
アキトはその後ろ姿を見送っていた。
妖精のそばで、一羽の小鳥が鳴いた。
朝の眩しかった日差しはいつの間にか柔らかくなり、優しく川面を照らしていた。




