(とりあえず)初めての任務を終えて
「リアム・ウェードラインの悪い噂が広まり始めたのもその時期ね。手に終えないほど危ない少年だとかなんとか」
クラリス様の言葉がようやく途切れる。
メアリーとロルドの方を見ると、メアリーは目元を押さえ、ロルドも鼻をすすっていた。
「それから私は経営学を学び、今に至るわ」
クラリス様は紫の瞳を儚げに伏せる。美しい黒髪が窓の外の夜空に溶け込んで、彼女の周りだけが幻想的な情景と化していた。
余韻のある沈黙が訪れ、私はどうしようか迷いながら、思い切って口を開いた。
「クラリス様、婚約破棄する必要ってありますか?」
クラリス様はへの字に眉を曲げ、まるでミミズを見るかのような目で私を見る。
「あのねぇエマ。今のは過去の話に過ぎないのよ。もう終わった話」
お前は馬鹿なのか、とでも言うかのような視線にたじろぐ。
「大体、婚約破棄の一番の目的は、このアルセイン家の領地経営から退かないためよ。そりゃあ、今7歳の弟が大きくなったらその座を明け渡しますけどね。でも、少なくともあと10年は私の席よ」
誰にも奪わせないわ、と言ったその目からは強い覚悟が感じ取れた。
そうか。5歳の時からの初恋さえしまい込めるほど、領地経営が、いや領民のことが大切だったのか。
クラリス様と私は同い年のはずだ。でも12歳の私は、自分の想いよりもその他大勢のことを優先することなんて決してできなかった。
というか今だって、役者という自分の夢を追うためにここにいるのだ。
領地経営を続けたいから、とクラリス様は言うが、一日中執務室にこもって書類と格闘する毎日が楽なはずない。
仕事のやりがいと充実感に幸せを感じているのは確かなんだろう。しかしクラリス様の目元に深く刻まれたクマを見れば、その努力と研鑽の日々が、自分だけのためでないことなんて一目瞭然だ。
「…理解しました。あの、1つずっと疑問に思っていたことがあるんですけど」
「いいわ。言ってごらんなさい」
「婚約破棄に私を使う必要ってありますか? クラリス様なら向こうから破棄されるよう、ご自分でできるんじゃないかと」
本当に、ずっと疑問だった。
財政をここまで立て直したクラリス様だ。きっと、商人との駆け引きだって上手いに違いない。
それにさっき、「感情は表に出さない」と言っていた。それこそが芝居なんじゃないのか。
私のことがバレた時のリスクを払うまでもないんじゃないのか。
クラリス様はそっぽを向いたまま何も言わない。聞こえなかったのだろうか。
もう一度言おうと口を開くと、すかさずロルドが前に出てきた。
「エマさん、分からないんですか。クラリス様はああ言ってるけど、俺の見立てではまだ消えてませんよ」
「なにが?」
「こ・い・ご・こ・ろ。だからリアム様に嫌われるような言動なんか、できないんですよ」
瞬間、ロルドはクラリス様に膝カックンされ、床に崩れた。
「エマ・グレイ」
そう言い放ったクラリス様は、あの鋭い視線で私を突き刺す。
「あなた、自分の立場分かっていて?解雇されたくないんだったら、四の五の言わず仕事を全うしなさい」
その表情が、ロルドの言葉を信じるには十分だった。
なんだ、そういうことか。ストンと腑に落ちた気分だった。
「二度とあんなみっともない顔をしないこと!大体、役者なんだから甘い言葉なんて慣れっこでしょう」
「いえ、それが…」
私は役者と言ってもまだ下っ端。運良く与えられるのはほとんどが脇役。主人公が通うパン屋の娘の友達とかだ。
一番最近演じたのは、怪我をして降板した役者の代役だった。主人公の恋人を影で一途に想い続け、最終的には死んでしまった哀れな少女。
しかしそんな重要そうな役でも、愛の告白をされる立場ではなかった。
「男性から可愛らしいなんて言われたの、本当にこれが初めてで…」
「はいだから顔を赤らめないっ!」
クラリス様はうんざりしたようにため息をつく。
「あなた、本気でやるつもりあるの?」
「あ、あります」
「本気で嫌われなきゃダメなのよ」
「分かってます…」
「今日のは生ぬるすぎよ。もっと悪女を演じなさい。メアリーが持ってきたお菓子を皿ごと落とすとかしないと」
しょんぼりとうなだれていると、メアリーが肩を優しく叩いた。
顔を上げると、女神の微笑み。
「今日のエマ、とてもあなたとは思えないほど凄みがあったわ。あなたの芝居をあんなに近くで見られたんですもの。私いま、とっても幸せ」
その言葉が、ストレスにより朝からキリキリしていた胃の奥までじんわり染み渡った。
メアリーの笑顔だけであと100年は生きられる気がする。
「…まあ、次回からは頼むわよ。あなたの代わりを見つけるの、残念ながらそう容易くないんだから」
*****
アルセイン侯爵家メイド、エマ・グレイは困っていた。
人生大一番とも言える仕事を、とりあえずやり切ったあの日から早一週間。
実に、平凡な一週間だった。
クラリス様に呼ばれもしない。広い屋敷の中、忙しいメアリーとはなかなか会えない。ロルドは――まあいいだろう。
リアム・ウェードラインとクラリス様との接触予定がない限り、私の特別任務は発生しない。
元の生活に戻ったと言えばそうなのだが。
「え、シャーロット!どうしたの?」
昨日、二週間も無断欠席をしてしまった副業先のルーティア劇団におずおずと顔を出すと、同僚に盛大に驚かれた。
シャーロットというのは私の芸名で、劇団ではそう呼ばれている。
「あなた、アルセイン侯爵家のお抱え役者になったから、こっちでの活動は一旦休止するじゃなかったの?」
「え」
「先々週、侯爵家の人が直々に話しに来てたわよ。すっごくかっこいい男性。ねえシャーロット、あの人名前なんて言うのかしら」
というわけで、副業が封じられた今、私はただのハウスメイドでしかなかった。
だからなんだ、という話でもある。別に暇なわけではないし、つまらないわけでもない。
けれどこうやって庭の花のお世話をしていると、ふとした時にあの濃すぎた時間が思い出される。もはやあのキリキリとした胃の痛みすら懐かしい。
アイリスにアネモネ。青や赤の花びらが凛と上を向いている。そういえばお茶会でリアム様に紹介したっけ。でももう、随分と昔のことに思える。
あれは夢だったんじゃないか。なんて馬鹿げたことを考えていると、遠くから馬車がやってくる音が聞こえた。
黒く立派な馬車は門の前で止まり、中から一人の青年が降りてきた。
落ち着いた雰囲気をまとう黒髪の彼は丁寧な礼をした。
「私、ウェードライン侯爵家の執事をしております、ギルバートと申します。我が主、リアム・ウェードラインからクラリス・アルセイン様に贈り物です」
慌てて門を開いた私は、中へ案内しようとしたが、すかさず「ここで結構です」止められる。
「あの、贈り物って?」
彼は馬車の中から少し大きめな包みを取り出した。
「青いバラです」
「えっ」
「枯れたらまた新しいものを持ってきます」
そういえば、高飛車で高慢な令嬢を演じるためにリアム様に無理難題を吹っ掛けたんだった。すっかり忘れていた。
でも、
「そんな。だって、青いバラなんて存在しないんじゃ…」
「とある工夫を凝らしまして」
そう言った彼の瞳が、青空を切り取ったかのように澄んでいて、不覚にも見惚れてしまう。
手元のバラなんかに決して劣らない、透き通った瑠璃色――
「どうかしましたか」
「あっ、その。すみません、あの、きれいな瞳をされてるな、って」
言ってしまってからとても恥ずかしくなった。これではまるで口説いているようではないか。
いや待てよ。初対面の相手に突然「瞳がきれい」なんて言われたら、気持ち悪い……?
まずいまずいと、私は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、他意はないんです」
「分かっています。いいですよ」
顔を上げると、ギルバートと名乗った彼は顔を緩ませていた。
「ありがとうございます」
フッと目を細めて微笑んだその顔が、お茶会での会話を呼び起こした。
『可愛らしいな、と思って』
あれ。
「どうかしましたか?」
「い、いえっ!では青いバラ、確かに頂きましたので、しっかりと主人に渡します!」
彼は再び一礼し、去っていった。
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