案内役の報酬 ―幕引き―
「チェシャ……?」
恐る恐る呼びかけたアリスに対し、チェシャ猫は反応せずに数秒思案し、そして、呆れたように、力の抜けた笑みをこぼした。
「……なるほど、そーゆーことか」
「どうしたの? 何か、変な魔力が働いてるの?」
「いいや、大丈夫だよ。行こう」
アリスの手を引き立ち上がったチェシャ猫は、目的地が分かっているかのように、森の中を迷いなく進む。無言の真直ぐさが少し恐ろしくなり、アリスは尋ねた。
「ねぇ、何処に向かってるの? てゆーかさっき納得したのって、何?」
「向かう先はもちろん、アリスちゃんが帰るためのゲートだよ。納得したっていうか……まぁ、俺の耳がこーゆー機能持ってる意味が、ようやく理解できたってトコかな」
ほら、と立ち止まったチェシャ猫の視線の先を見て、アリスは息を呑んだ。
直径2メートルほどの光の渦が、スタンドミラーのように存在していたのだ。もちろん、その渦の内部がどうなっているのかはよく分からず、まして本当にアリスのいた世界に繋がっているかも定かではない。
「これ、が……?」
「根拠を示せって言われると不可能なんだけど、それでも何故か確信を持って断言できるよ。ここを通ればアリスちゃんは元の世界に帰れるって。俺の数少ない記憶の断片の中で、かなりおっかない人がそう言ってたんだよね」
「おっかない人?」
「残念ながら、顔も名前も覚えてなくてさ。単に『怒らせたらマズい』っていう印象だけが強烈に残ってる感じ」
割と怖いもの知らずな物言いばかりしてたチェシャ猫がそんな風に言うなんて、と、アリスは少し驚く。
「で、俺の耳は、このゲートが発する強大な魔力を察知するために、魔力探知のオプションを付けられた。つまり、ミッションクリアしたアリスちゃんを、この場所に導くのが俺の最後の役割だったってこと」
半信半疑のアリスに対して、チェシャ猫の語り口調は落ち着いていた。彼が、自分自身に抱いていたいくつかの疑問が解消されたかのように。
示された通り、この光の渦が元の世界へのゲートであるならば、アリスがこの世界に別れを告げるのもこの場所、ということになる。
光の渦の前に立ち、そう実感した途端、言い知れぬ焦りが湧き起こってきた。
「チェシャ! あのっ……マーチさんや伯爵、ランスロット、ジョンさんに……」
「分かってるよ」
「それと、アーサー様と女王様と、マーリンさんと……」
「分かってるって」
「あと、ヴァンさんと、ルーカン君と、」
「アリスちゃん、こっちで出会った全員の名前列挙するつもりかい? 言っとくけど俺、このゲートがあとどのくらい開いたままでいてくれるかは、把握してないよ」
「あっ、うん、そうだよね……でも皆に、ありがとうって」
「はいはい」
「それから……チェシャ、ありがとう。いっぱい助けてくれて、本当にありがとう」
精一杯の笑顔を見せる。泣いても笑っても避けられない別れは、笑顔で飾るべきだと思った。
本当は立ち寄った場所全てに顔を出して、挨拶してから帰りたい。けれどそんな時間はない。だったらせめて、チェシャ猫に伝えようと思う。この世界で過ごした冒険の日々も、悪くなかったと。「勇者アリスは名残惜しく感じながら帰還した」と、チェシャ猫から皆に伝えてもらえればいい。
「何て言うか、その……チェシャがいてくれて、チェシャが勇者の案内役で、良かった」
今だから、曇りのない気持ちで言える。
嫌味ばかり言われたけれど、回りくどくて分かりづらい人だったけれど、からかわれて、バカにされることも多かったけれど、間違いなく、長い旅を支えてくれていた。「答え」ではなく「選択肢」を示してくれた。不安や恐怖、そして疑問を、取り除いてくれた。
背筋をピンと伸ばして、チェシャ猫に感謝を告げたアリスは、次の瞬間、不意に抱き寄せられた。
「わっ……!」
「……あのさぁ、何でそんなセリフを面と向かって言えるんだい? アリスちゃんのそーゆートコ、ホント意味わからないし、信じられないし、神経疑うし……。アレだよ、お花畑感覚で塗り固められたポジティブ思考だよね」
「ひ、人が折角感謝してるのにっ……」
「うるさい。少し黙ってジッとしててよ」
ぎゅうっと強まるチェシャ猫の腕の力。もう何度か抱きしめられているのだから、そろそろ慣れてしまえばいいものの、そんな感覚はちっとも養われていない。アリスの顔は瞬く間に熱くなり、おまけに胸の奥も苦しくなってくる始末。
森番の名に相応しい、森の葉っぱの香り。この香りとも、お別れなんだ……だったらもう少し、黙ってジッとしてようかな。彼は何を考えて、どんな表情をしているんだろう。ちょっとでも寂しく思ってくれてたら、なんて、さすがに虫が良すぎるよね。
互いの表情を確認できない中で、アリスは自分の身勝手な考えに思わず笑みをこぼす。一方のチェシャ猫は、片腕はぎゅっと強めたまま、もう片方の手でアリスの後ろ髪をゆっくりと撫でた。
「最初に言ったろ? 他のメンバーはともかく、俺の場合は天命なんだって。感謝なんてされる必要無いし、報酬も見返りも要らないんだ」
優しい指の感触に、また笑みがこぼれる。
最後の最後だから、と割り切って、アリスはチェシャ猫をぎゅっと抱きしめ返した。
「感謝するのは、私の勝手だもん。チェシャに決めてもらうことじゃないよ」
捻くれ者の彼はきっと、感謝されることに慣れてないのだろう。そう思うと少し可笑しくて、親しみを覚えてしまう。
「せめて、リンゴの一つでもあげられたら良かったんだけどね。ごめんね、無一文の勇者で」
「え?」
「だって好きでしょ? リンゴ」
そっと顔を上げた先に、驚きで丸くなっているチェシャ猫の両目。トパーズ色の瞳に向かって、アリスはムッと口を尖らせた。
「それくらい気付くよ、よく食べてたじゃない」
「そうだったっけ」
「うん」
「……ふ、あはははっ」
一本取られた、とでも言うように、笑い出すチェシャ猫。面白いことを言った覚えなど全くないため、アリスは困惑する。
「な、何よ、どしたの?」
「いや……それじゃあ一つだけもらっておこうかな」
直後に向けられた笑みは、ニヤリとした妖しい笑みで。
「えっ? だから私、リンゴも何も持ってないって……」
良くない企みを察知したアリスの言葉は、最後まで続かなかった。
嗅覚を刺激する葉っぱの香り。それ以上にアリスの思考を麻痺させたのは、柔らかくてほんのり熱い、初めての感触だった。
自分の唇が塞がれている……紛れもなく、目の前にいるチェシャ猫の唇によって。
ゆっくりと一度だけ啄んでから、幽かなリップ音と共に離れてく。
まともなリアクションが取れずに硬直したままのアリス。もはや、思考する余裕など何処にもなかった。
ひたすらに紅潮していく彼女の頬を撫でながら、チェシャ猫はぺろりと舌なめずりを見せて、満足げに口角を上げた。
「……ごちそうサマ」
オーバーヒート状態から回復できないアリスの身体は、そのまま後ろに突き飛ばされる。
「あっ……!」
「じゃあね、アリスちゃん。バイバイ」
背後にあった光の渦に、飲みこまれる。眩しくて目を瞑りながら、アリスは最後に手を伸ばした。
待って、待ってよ。こんなのズルい。チェシャ、今、さっき、何てことして……――!
ぼすんっ、
背中から落ちた割に、衝撃は少なかった。多分、ベッドの上とかなんだろう。眩しい光の渦から出て来れたのかと不安になりながら、そっと目を開ける。
最初に確認できたのは、ベージュの天井だった。首を少しだけ横に向ける。白い壁にかかっているのは、カレンダーと、ハンガーにかけられた制服。その横に、分厚い本が積まれている机。もう一度、正面に目を向ける。ベージュの天井には、茶色いシミがあった。見覚えのある位置に、ぽつりと一つ。
寝返りを打つ。毛布から柔軟剤の香り。気付けば自分は、パジャマ代わりのジャージに身を包んでいた。起き上がらずに得た情報をまとめて、一つの結論に達する。
そうか、やっぱり受験勉強で疲れすぎて、長い長い夢を見ていたんだ。
魔法石とか、王様とか騎士とか、戦争とか、獣人とか吸血鬼とか、なかなかエキセントリックな夢だった。どんだけ想像力豊かなんだろう、自分の脳みそ凄いなぁ……。
半ば感心しながら、ふと、無意識的に指先で唇に触れる。
……待って、違う。だってまだここに、残ってる。過ぎるほど鮮明に、覚えてる。夢なんかじゃない。妄想でもない。現実だった。此処じゃない世界で、確かに魔法を見た。凍傷になったし、乗馬の練習をした。怖い思いをたくさんして、その度に色んな人に助けられた。
夢じゃない、夢なんかじゃない。間違いない。信じられないけど、信じたくないけど、この世界に戻ってくる直前、あの嫌味だらけの捻くれ者に、よりにもよってファーストキスを……
「…………奪われた」
頭の中で、猫耳男子の声が響いた。
―「真っ赤な顔……熟れたリンゴみたいで、美味しそうだ」
―「……ごちそうサマ」
うつ伏せになって枕に顔をうずめる。リンゴが好物だとか、言い当てなければ良かった……! 最後の最後に何てことをしてくれたのか。言いたい文句は溢れ出てくるが、言う相手は何処にもいない。
ぐちゃぐちゃな上にやり場のない感情は、シーツをぎゅうっと握っても発散されることはなく。勇者アリスこと有澤鈴は、枕に顔をうずめたまま、たった一言吐き出した。
「チェシャの、ばかっ……!」
― おわり ―
読破ありがとうございました!
ここまで長い物語を書き上げることができて、私が一番驚いています。
自己満足を詰め込んだ冒険譚でしたが、少しでも読者様を楽しませることができていたのなら幸いです。
エピローグは短めのものをアップする予定です。




