空飛ぶハンカチ(しるべ)
もちろん、一刻も早く元の世界に帰りたい。けれど、「龍穴」が見つかれば本当に魔法石はアリスの首から取れるのか、それも定かではない。徒労に終わる可能性もあるのだ。だったら……
「……そうだね、戻ろう」
アヴァロンとキャメロットの対立関係には、終止符が打たれた。ならば今度は、戦闘準備など無しで探しに来れる。
大丈夫、元の世界に帰るのが数日延びたところで、今更大したことはない。(アリスにできる最大限の妥協で言えば)受験当日までに戻れればそれでいい。マッド・ハッターに正しい地図をもらってから出直そう……。
焦る気持ちを深呼吸で抑えたアリスは、ふと、自分が今まで肩にかけていたポシェットがなくなっていることに気付いた。
「あれ?」
付近を見回すと、少し離れた所に落ちているのが見えた。モルガンの魔法で鞭のごとく動いた枝に吹っ飛ばされた際、肩掛けの紐が切れたようだ。中身も周りに散らばっていたので、軽く土を払ってポシェットに入れ直す。
と、その時だった。少し強めの風が吹き、アリスが拾おうとしていた白いハンカチが舞う。
「あっ、待って!」
つられるように立ち上がって追いかけるが、見事に草木をすり抜け飛んでいくハンカチ。それに味方してもう一度風が吹く。
アリスもいよいよ小走りしつつ手を伸ばす。が、不意に後ろにグッと引っ張られた。
「わっ、」
「あのさぁ、この森が平地じゃなくて山の中腹にあるってこと、忘れてない?」
「だってハンカチが…………あ」
後ろからアリスの腕を掴みストップをかけたのは、チェシャ猫だった。言い返そうとしてようやく自分の足元を見る。
「整備された街中の道と同じようにハンカチ追いかけて、この急な坂を転がっていく予定だったのかな?」
「……ごめん、ありがとう」
「ホント、アリスちゃんってちょっと目を離すことすら許してくれないよね。何なら、リスティスに帰るまでずっと隣で手を握っててあげてもいいけど? そしたら君が、足りない頭で暴走するのも少しは抑制でき…………ん?」
ドキッとする言葉の後にいつもの嫌味連発が来るのかと思いきや、耳をピクッと動かして言葉を途切れさせるチェシャ猫。疑問に思ったアリスは、その視線を追い……目を丸くした。
「チェシャ、あれって……」
「……どうやら、単に風で飛ばされたワケじゃないみたいだねぇ。僅かに魔力の気配がある」
ふわふわと、まるでアリスを待っているように空中浮遊しているのは、アリスが追っていた白いハンカチだった。旅立つ前にロゼ女王からもらった、3滴の血痕のある「お守り」代わりのハンカチ……。チェシャ猫が感じ取ったのならば、魔力が働いているのはほぼ確実と言っていい。
けれど、最初から魔法がかけられていたのなら、チェシャ猫はもっと早く反応できたはず。今、この瞬間にかけられたということなのだろうか。
「アリス殿、森番、どうかしたのか」
「軍司サマ、そっちの諸々は頼んだよ。伝説の勇者サマはもう少し進む必要があるみたいでね、同行した方が良さそうだからさ」
「えっ?」
後方から呼びかけたマーチ・ヘアに対するチェシャ猫の返答を聞き、アリスの方が戸惑う。そんな反応は気にも留めずに、チェシャ猫は「じゃあヨロシク」と言いながらアリスを抱え上げた。
「わっ、ちょっとチェシャ、」
「アレ追いかけるから、掴まってて」
縮まる距離に緊張しながらも、反射的にチェシャ猫の服を握る。アリスの予測は正しく、次の瞬間チェシャ猫は地を蹴った。フリーフォールのような急降下。耳の横を駆け抜けていく風の音。続いてやって来る、トランポリンに似た上下運動による振動。
そっと目を開けると、やはりチェシャ猫は枝を渡って、なおもヒラヒラと舞うハンカチを追いかけていた。
「ねぇ、どうして……もし罠だったら、」
「その可能性も捨てきれないけど、現時点でアレそのものに大きな魔力は感じないんだよねぇ。それにアリスちゃん、魔法具クラウ・ソラスを変形させるっていう結構な凄技覚えたんだろ? 何かあっても護身はできるじゃないか」
「……でも、」
「罠だとして、回避できるように案内役が一緒に来たワケだしさ。頭弱いアリスちゃんだけだと、さっきみたいに追いかける段階でしくじるの目に見えてるし……ああむしろ、そういう失敗エンドしか想定させないのって逆にすごく貴重だと思わないかい?」
「もう! 分かったから静かに追いかけてよ!」
ラモラック卿に追い詰められていた時は本当に心強かったのに、これほど嫌味を畳みかけられると耐えられない。痺れを切らして訴えたアリスに、チェシャ猫は愉しそうに笑って「はいはい」と返した。
***
しばらく飛び続けたハンカチがふわりと着地(という表現が正しいのか定かではないが)したのは、木々が数本切り倒され拓けた場所だった。その数メートル手前に降り立ったチェシャ猫は、アリスを降ろして言う。
「ふぅん……なるほどね」
「何? どういうこと?」
「つまり、ココが本当の『龍穴』なんだよ」
「えっ! 洞窟も何もない、平地なのに?」
「先入観ってヤツさ。現に、この場所には慢性的に強い魔力が存在しているみたいだしねぇ……長い間、この場所そのものが認知されないよう隠され続けてたってところかな」
チェシャ猫は耳を動かしながら、辺りを見回す。アリスも見回してみるが、木々が切り倒されている以外はいたって普通の土地。となれば、白いハンカチが舞い降りたポイントに近寄るしかない。と、前に進もうとするアリスの手を、チェシャ猫が握った。
「な、」
「リスティス城の礼拝堂みたいに転移魔法が敷いてあるかも知れないだろ。アリスちゃん一人でどっか飛ばされたら、探すの面倒くさすぎるじゃないか」
「……うん」
その主張に反論はできなかったが、突然のことにドキドキしてしまう。ただやはり不安もあって、アリスもチェシャ猫の手をきゅっと握り返した。
一歩一歩、白いハンカチに近付く。この場所が本当に「龍穴」であるならば、一体どうやって涙を処分すればいいのか……もし失敗したり、何の反応も起きなかったりすれば、他の手掛かりはあるのか……。
様々な不安要素と緊張を、深呼吸に変えていく。ハンカチの前でしゃがみ、躊躇いながら、拾い上げた。
―「待ってたよ」
ハンカチに向けていた注意が、パッと弾ける。その瞬間に起きた「3つの異変」によって、アリスはパニック状態に陥った。
1つ目は、覚えのある声が唐突に頭の中に流れ込んできたこと。2つ目は、辺りが森の中から真っ白な世界に変容したこと。そして3つ目は、しっかりと握っていたにも関わらず、チェシャ猫の手の感触が跡形もなく消えてしまったこと。
「チェシャ……チェシャ!?」
前後左右を確認したところで、目に入るのは白、白、白。チェシャ猫の姿どころか、声も息遣いすらも聞こえない。
どうしよう、ココは何処? 落ち着かなくちゃ、早く、早く。脱出するためには? そもそも出入口なんてある?
思考をまとめられないままその場でクルクルと立ち往生するアリスの前に、銀色の光が表れた。それは、ランタンのように柔らかく温かく、しかし、星のように鋭く美しい、光の球。
攻撃魔法かも知れないと、反射的に数歩下がるアリス。だが「それ」から発せられたのは攻撃ではなく、アリスへの語り掛けだった。
「待ってたよ、勇者アリス」




