守られる勇者(反省)
アグロヴァル卿の剣は、階段の踊り場に突き刺さっていた。
あれ、おかしいな? 斬られていないのは、痛くないのは、何故だろう。本能的に避けてしまったのかな。だとしてもそんな俊敏性、持ち合わせてないはずなのに。
様々な疑問を抱くアリスの耳に、斜め上から、第三者の声が飛び込む。
「伝説の勇者に斬りかかるって、もしや隠れアヴァロン勢だったりするんですか? アグロヴァル卿」
自分に俊敏性があって、本能的に避けたのではない。アグロヴァル卿が剣を振り下ろすその瞬間、アリスは後ろに引っ張られたのだ。
そうっと見上げた先、余裕な笑みで冗談を言う、チェシャ猫に。
「今日は気温も低めでとても過ごしやすいじゃないですか。昼下がりの鍛錬に最適な時間だっていうのに、修練場にお姿が見えなかったんで、何処にいらっしゃるかと思ってたんですよ。業務、大変そうですねぇ? 随分と分厚い資料をお持ちで」
何か言いたげなアグロヴァル卿を黙らせ続けるためだろうか、チェシャ猫はいつにも増して饒舌に語る。
「そんなお忙しいところ大変失礼しました。こちらとしてもより確実なシャーウッド盗賊の情報が欲しくてね、つい。ああでも、ご安心を。アーサー王様には今の一太刀について、可能な限りちゃーんと黙っておきますから」
そこまで言うと呆然とするアリスの手を引き、チェシャ猫は東棟へと向かい出す。
「ま、待て! 女、先ほどの侮辱、ただで済むと……」
「そう言えば、『円卓の騎士』になるのって、剣術か頭脳のいずれかで能力を認められる必要があるそうですね。だとしたら、鍛錬すべき時間に業務に振り回されていらっしゃる貴方は、どちらで登用されるのか……いやぁ、今から楽しみだなぁ」
「なっ……」
言葉を詰まらせたアグロヴァル卿を後目に、チェシャ猫はさっさとアリスを引っ張っていった。
***
東棟の2階、客室の並ぶ廊下まで引っ張られ、アリスは戸惑っていた。何だかチェシャ猫のまとう雰囲気が、いつもよりピリピリしている気がする。
「あ、あの、チェシャ……」
「変なモノに憑かれてるワケじゃないよねぇ?」
「え? ……うっ」
返答を考える間もなく食らわされたのは、いつかと同じかそれ以上の威力を持ったデコピン。
「いっ、たぁ……急に何……ふぐっ!?」
「さっき、回避する気ないように見えたんだけど、まさかあのタイミングで『涙』が君を守ってくれると全幅の信頼を置いて佇んでたのかい? となればいよいよアリスちゃんの能天気っぷりは常軌を逸してると言わざるを得なくなるんだけど」
「い、痛いってば!」
思い切り頬を抓られて両側に引っ張られながら嫌味を浴びせられ、堪らず両手でチェシャ猫の手を払う。じんじんする両頬を自分の手で包みながら、アリスは小さく反論した。
「……違うもん」
「じゃあ斬られるつもりだったんだ。いつから自殺志願者になったんだろう、是非その経緯をお聞かせ願いたいところだよ」
「ち、違う」
「え? 俺、何か間違ったこと言ってるかなぁ? 君はアグロヴァル卿と衝突して、アイツは君に斬りかかろうとしていた。君に逃げる意思がなかったとすれば、考えられる結末は『涙』が作用するかしないか、それだけじゃないのかい?」
そうだ、チェシャ猫の言っていることは、何一つ間違っていない。自分はあの時、回避する選択肢を捨てたんだ。プライドが高くて頭に血が上りやすいアグロヴァル卿が、衝動的な行為で後悔すればいい……そんな風に考えて。
そして、この罪悪感を、アリスは前にも感じたことがあった。間違いない、意地悪してくる男子に「何か用?」と無表情で返したその直後と同じ。凍りついた表情から得た爽快感なんて、一瞬にして消えた。
いつも静かに心配してくれてた友達が、「謝んなさいよ!」と全力で怒って、その男子に掴みかかったから。
「君はこの期に及んでまだ、致命傷を負えば元の世界に帰れるとか思ってるんだね」
「そ、そんなこと……」
「だったらもう、危なっかしいことするなよ。ちょっとは考えて動いてると思ったら、すぐこれだ。泣きながら盾になろうとしたり、無策で敵を引きつけたり、挑発したり……いい加減、振り回される身にもなってもらわないと困るんだけど」
「……ごめん」
かったるそうに背伸びをするチェシャ猫を前に、ついに何も返せなくなった。反射的にこぼれたのは、謝罪の言葉のみ。
とんでもないことをしたのだと、気付いた。旅の中で何度も何度も、守ろうとしてくれた。なのに、先ほどアリスは……彼が守ろうとしているアリス自身を、捨てようとした。一時の怒りに、無気力に、身を任せて。
「ごめん、チェシャ……私、すごく、バカなことした」
「……良かった。やーっと分かったんだねぇ、自分の頭の弱さ」
「な、何よそれっ! そうじゃなくて、」
「じゃあついでに記憶力の悪さも自覚してもらおうかな。アリスちゃん、俺が最初にキノコの森で言ったこと、忘れてるだろ」
「え?」
ピリピリした雰囲気が元に戻ったのはいいが、相変わらずの嫌味オンパレード。反論する間もなく投げかけられた質問に、アリスは必死に記憶の糸を辿った。
キノコの森で言われたことなんて、いっぱいありすぎて分からない。そもそもあの時だって、突然現れたチェシャ猫の口達者ぶりに苛立っていたし……
考え込むアリスの姿に、チェシャ猫は「やっぱりね」と溜息をついて背を向けた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 初めて会った時でしょ? たくさん話し過ぎてどれのことだか……」
「アリスちゃん」
引き留めようとしたアリスの言葉を遮り、チェシャ猫はふっと振り返った。
「君は、俺が存在する理由なんだよ」
見せられた微笑は、いつものチェシャ猫の笑みとは異なっていて。何事もなかったかのように自分の客室に戻っていくチェシャ猫を呆然と見つめながら、じわっと自分の顔の熱が上がるのを感じ、呟いた。
「そ、そんなこと、言ってたっけ……」
***
やはり、金品類は何処から盗まれるのかが分からなければ、守備もしようがない。リスティスの城は、5名から成るアリス御一行だけで守るには広すぎるのだ。
かと言って侵入ルートを探ろうにも、以前の資料も見せてもらえないから推測しようがない。
それでも1世紀に1度レベルの奇跡が起きて盗賊の悪行を防げたとして、拒絶されている今の状態ではリトル・ジョンを連れていくことすら不可能。
「完全に詰んでる……」
重たい溜め息をつきながら、もはや慣れた薄暗い地下通路を歩く。溜息だけではない。リトル・ジョンの元へ夕食を運ぶ足取りも、鎖に繋がれたように重かった。
鉄格子の前からでは、リトル・ジョンがどの辺りに座っているのか、分からなかった。昼にあれだけハッキリと否定してしまったのだ。姿を見せてくれるどころか、話を聞いてくれるかも怪しい。
「夕食、持ってきました。食べませんか? もう夜の9時ですし」
無音。僅かな呼吸だけが、辛うじて聞き取れるだけで、他に一切の音はない。牢の中の彼はアリスと話すどころか、夕食を受け取る気もなさそうだ。鉄格子の上部に設置されたランプを見ながら、アリスは再び口を開いた。
「さっきは、ごめんなさい。だけどジョンさんには、似合わないと思ったんです。盗賊っていう、やり方が」
「うるさい。黙れ」
「私だったらどうしてたかっていうのも、考えました。私には剣や弓の技術がないし、でも不平等は嫌だし、友達が危険な目に合うのも怖いし……だから多分、アーサー王様に直接会いに行くと思います」
「そこで喋るな……帰れ」
「帰れません。ジョンさんに伝えたいこと、全部口に出すまで」
「黙れって言ってんだよ!! 何なんだ!! 何のつもりなんだよあんた……俺を、蔑んでんのかよ……もっと良い方法があったのに、簡単に賊に成り下がって、森の仲間巻き込んで……どーせ俺は頭足りないよ!! 分かってるよ! あん時もロビンの言う通りにすれば何とかなるって……それが一番いい方法だって思って喜んで飛びついただけだ! 認める! けど今更戻れないっ……戻れるもんか!! シャーウッドについてこれ以上あんたに何も話す気はないんだ! もう、帰ってくれ!!」
ジャララッと激しく鎖の動く音が、鉄格子の向こうの暗闇から響く。
たった今ぶつけられた悲痛と困惑に溢れる叫びを、アリスは深呼吸しながら反芻した。