9話 まったりした酒
バーディは、アリアに頼まれてラーウスへやって来たのだと言った。
ベラがフロースであることは秘密なので、表向きはロケーション・ハンティングをしに来たのに、
彼女が派手な出迎えをしてしまったので、異国人であることがバレてしまった。
とにかくベラは、嬉しさのあまり堰を切ったように話し始め、
バーディの後を、金魚の糞のごとく付いて周る。
それは、憂鬱だったベラの気持ちを解き放してくれるようだった。
バスルームの前まで行ったバーディは、振り返って言う。
「まさか、中までは入って来ないよね」
ベラは、笑って誤った。
イベリスは、最近、塞ぎ込んでいたベラが、嬉しそうにしているのは嬉しいのだけれど、
彼女は、こんなにしゃべれるのかと驚き、少しばかり嫉妬する。
その夜バーディは、エルナトの温泉を楽しみ、それからイベリスをキッチンに誘った。
夜は更けており、はしゃぎすぎたベラは、すでに自分の小屋へ戻って休んでいた。
バーディは、「これは、ディフォーレスト家に代々伝わる穀物蒸留酒なんだ」
と言って、それぞれのグラスに注ぐ。
イベリスはその香りを嗅ぎ、グラスに口を付け、舐めた。
そして、「いいものですね」と言うと、
水差しの水を、二客のウォーターゴブレットに注ぎ、
一客をバーディの前に置き、もう一客の水を飲んで言った。
「エルナトの水にも良く合う」
バーディは、ふっと笑う。
イベリスは、ゴブレットをテーブルの上に置いた。
「彼女を帝国に帰す訳にはいかない。
もちろん、できるだけ早く家族に会わせたいと思っているが、いつになるかは分からない」
「それは、アリアから聞いて知っている。
今の所、彼女もそれを望んでいない様だしね。
すでに子爵はフロースが無事なのを知っているが、時が来るで内密にするそうだ」
「ディフォーレスト子爵には、エスペビオスで会ったことがあるが、立派な人だったね。
わたしを覚えていないだろうけど」
「いや、子爵は一度会った人の顔と名前は忘れない。
君の事は覚えているはずだ。
彼女が恋してた男だとは知らなかっただろうけどね。
とにかく子爵は、今、成人したばかりの若いオーデン伯爵を一人前にするのに忙しい。
だから、彼女のことで問題が起こるのはまずいんだ。
彼女も、事を荒立てたくないと言っているし」
「問題? 何のことだ?」
「なんだ、君も知らなかったのか。
実は、僕も今日初めて知ったのだけれど、彼女は、伯爵家で毒を盛られていた」
「何だって!?」
「その毒は、少しずつ体が弱っていくもので、すぐに死ぬという物ではなかったらしい。
解毒したから大丈夫だと言っていた」
「誰に毒を盛られたんだ? 伯爵からか?」
「彼女は、それ以上のことは言いたがらない。
今日、彼女は良くしゃべっていたから、つい口を滑らしてしまったらしいんだ。
言った後で『しまった』と言う顔をしていた。
恐らくアリアも知らない。
知ってたら、今頃は大騒ぎになっているはずだよ。
突然、伯爵が死んでしまったのは驚きだったけれど、彼女にとっては良かった。
そうでなければ、今頃は、体が弱って、何かの病気に罹って死んでいたかもしれない」
バーディは、考え込んでいるイベリスを見て、フロースの結婚式の日を思い出した。
あの時、彼女が見間違えたのは、この男だったのだ。
背格好は同じだし、髪の色は少し違うけれど、あの控え室の入り口は薄暗かったから良く見えなかった。
「フロースは結婚式の日、僕を見て、君だと思ったらしいんだ」
それを聞いたイベリスは、顔を上げた。
「彼女はものすごく綺麗なのに、悲しそうで、まるで消えてしまいそうだった。
あれは長い間、忘れられない姿だったね。
それから、彼女のオーデン家での一年間は、とても辛いものだったらしい。
彼女は、他のことは言いたがらないし、ここへ来るまでのことも言おうとしない」
イベリスは、その時、自分は何をしていただろうと思った。
彼女のことを思い出すことなく忙しくしていた。
「ここでも色々あったみたいだけど、それは楽しかったらしくて、良くしゃべるんだ。
あのフロースが、野山を駆け巡るだなんて想像もできなかったよ。
ディフォーレスト家にも森はあるけれど、あれは子供の遊びだったからね」
イベリスは話を聞きながら、蒸留酒のグラスを見ていた。
それは澄んだ黄金色で、まったりとしている。
彼は、ベラの気持ちについて、あまり考えていないのかもしれないと思った。
彼女が頑ななのも、意味があるのかもしれない。
そして、エルナトとサライへの道を車でいけないほど怖がりなのに、と思うと、
彼女の命がはかなく思えて仕方が無い。
イベリスは、「ここに、ヘリの発着所を作るんだ」と言った。
「ああ、彼女から聞いたよ」
イベリスは、彼女が車の中で怖がったのを見て、
ここへは連れて来れないと思ったのが、彼女を諦めた一つの原因だったことを思い出す。
もし、あの時、要塞に入り、自分の使命を良く理解し、彼女をここへ留めていたら、
他の男と結婚することもなかっただろうし、毒を盛られることもなかった。
「あれは、彼女がこことサライを簡単に行き来できると思ったのがきっかけなんだ」
バーディはそれを聞いて微笑む。
「そうか、彼女が、あそこへ二日もかけて歩いていくと聞いた時は驚いたよ。
足腰が強くなっただろうね。
前に彼女を連れて山歩きをした時は、すぐにへたばってしまったからね」
イベリスは笑うと言った。
「今では、大きな荷物を背負って山を歩くんだから驚きだよ。
とにかく、彼女には、薬草採りもさせるつもりもない。
彼女はラーウス人じゃないんだし、もう危ない目に遭わせることなんかしない」
「フロースは変わったと思うかい?」
「いや、彼女は、ベラと呼ばれても、初めて会った時のままだ」
バーディは、それを聞いて嬉しそうに微笑む。
「それは良かった」
「ああ、でも、フロースと呼ばれたくないらしい。
そう呼ぶと、ものすごく不機嫌になるんだ」
「そう言えば、僕にもベラって呼べって言ってたな。
不機嫌とまではいかないけれど」
イベリスは、ベラが毒を盛られたこと、誘拐されたり、バルナの騎士と密入国し、
そしてラーウスでの密猟壊滅騒動や残党たちとの闘争など、
数々の危険の途中で、命を落としていたかもしれないと思うと、心が凍るような気がした。
収穫期が終わったのに、なかなか戻って来なかった時のことを思い出しても、
もう彼女を一人にさせることなどできないと思う。
愛する者を失う怖さを感じたのだ。
イベリスは、彼女がそばにいてくれれば、安心できるのだと思った。




