2話 入国審査
マルクは、頭上からの淡い灯りで本を読んでいることが多かった。
その本は、彼の手の中にすっぽりと入るほどの大きさで、いつもは上着の内ポケットに入っている。
カーゴスペースの雰囲気に慣れ始めたミラは、それが何の本なのかを聞いた。
マルクは、「格言や祈りの詩を集めたものだ」と答える。
彼女は、その本を覗いてみたのだけれど、古い文字で書かれているので読めなかった。
ミラは、その本を読んでいるマルクの横顔を見ながら、彼を不思議な男だと思う。
読み込まれたその古い本は、マルクの印象とは違っている。
マルクは顔を上げた。
ヴァルハイ号のエンジンの、かすかな振動が変わったのだ。
彼は、しばらくそれを聞いていたが、ふっと緊張を緩める。
「国境を越えたようだな。入国審査ステーションはもうすぐだ」
そして、ミラと目が合うと、ニヤリと笑って言った。
「上手く通れることを祈ろうぜ」
ミラは、彼の言い方を不審に思い、男爵が入国審査は難しいと言っていたのを思い出す。
それで心配になったので、「入国審査は、そんなに難しいの?」と聞いた。
「二割は通らない」
「二割!? 十人が通らないってことじゃない!」
マルクはミラを見る。
「あんた、ここに五十人いるって数えたのか?」
ミラは、しまったと思うが、
「数ぐらい数えられるわよ。馬鹿にしないで!」と、ごまかす。
「別に馬鹿にしたわけじゃない」
ミラが、「なぜ二割なの? いつも二割なの? 変な人たちが乗っているからなの?」
と矢継ぎ早に聞くので、彼は圧倒され、
「二割が妥当な数値だからだろう。そのくらい落としとけってことだ」と言った。
「あんたの言う『変な人』かどうかは知らんが、ここを通る連中は、色々な企業を渡り歩く労働者で、ほとんどがまともじゃない。
住所のない者もいるし、国籍も怪しいもんだ。
だが逆に言えば、八割は通すってことさ。
労働者を確保しなきゃならないから、法的に認めてるだけだ」
「落とされる基準は何なの?」
「それも適当だ。時には、審査官の気分にもよる。
もっとも、あっちも専門家だから、不審者はすぐに分かるさ。
例えば、あんたが本当にラーウス人なのか、とかね」
ミラは、それを聞いて血の気が引く思いがした。
「わたしの書類はちゃんとしているし、出生証明書もあるから大丈夫なはずだわ」
マルクは彼女を見ると、あざけるように言った。
「そんなもん、誰だって持ってるさ」
「そんな・・・ラーウスに戻れないかもしれないって・・・」とミラはうつむいて両手を握る。
するとその様子に、マルクは、彼女をなだめずにいられなくなってしまった。
「いや、あんたが通らないと言っている訳じゃない。
上手く通ればいいと言っただけだ」
ミラは、心配で心が押しつぶされそうになるのだけれど、
男爵はこれを知っていて準備したはずだから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
彼女の唇は震えていた。
「あんた、そんなにラーウスへ戻りたいんだ」とマルクは驚いたように言う。
「いったい何年ぶりなんだ?」
「覚えてないわ。考えたくもないし。
ただわたしは、あの綺麗な森と湖をもう一度見たいのよ」
ミラは、おろおろするばかりで、マルクと話をする気にもなれない。
マルクも、女がこうなると、何を言っても無駄だと分かっているので黙ることにした。
ヴァルハイ号が入国審査ステーションにドッキングすると、乗客は審査カウンターへ向かった。
そこは幾つかの同盟国が管轄している貨物用貿易審査で、一日、数百隻の貨物船がやって来る。
貨物が主体なので、個人用の窓口は少なく、人々は幾つかの長い列を作って並ばねばならない。
ミラはマルクの前に立ち、平静を装いながら自分の順番を待っていた。
時々、カウンターの方から、落とされた者が悔しそうな声を上げているのが聞こえる。
その声は、並んでいる者たちを慄かせ、
簡単にはそこを通れないのだと言う雰囲気を作るのに成功している。
そして、やっとミラの番になった。
その審査官は、マルクにも増して表情の無い男で、先ず書類を確認し、それからミラを見た。
彼女は、慄く気持ちを出来るだけ隠すようにして立っている。
そして、汗ばむ手で、ポケットの中の、あのラーウスの折りたたんだ紙を握った。
マルクも審査官も、ミラがラーウス人かどうかを疑っていた。
どんなに装っても、生まれた土地の雰囲気を変えるのは容易ではない。
しかもラーウス人は、ほとんど自分の土地を出ないので、ここを通ること自体が珍しいのだ。
それでもマルクは、迷っていた。
ミラを観察しながら、彼女のラーウスへ戻りたい強い気持ちに推され、判断しかねていたのだ。
ところが、審査官がミラを観察するのは数秒しかない。
「手をポケットに入れるんじゃない」と審査官は冷たく言った。
ミラは、慌てて手を前に出す。
不振な態度は怪しまれるので、両手は前に出しておかねばならないはずだった。
彼女は、「しまった」と思うが、もうどうしようもない。
審査官の目は、より疑い深くなっている。
その時、ミラは、スパイスの香りに助けられた。
審査官の前に出された彼女の手から、スパイスの香りがしたのだ。
それは審査官の脳裏に働きかけ、彼の警戒心を解いていく。
一瞬のことだった。
審査官は、彼女の書類に通過の判を押していた。




