3話 ミラの訓練
フロースは、心が浮き立っていた。
それはラーウスへ行くのを観光旅行のように思っていたからで、エルナトへ行くのも楽しみにしている。
もちろん、車の中で具合が悪くなったのは忘れていない。
それでも馬とかがあるだろうし、何とかなるだろうと楽観的に考えている。
彼女は、プリオベール男爵の「企み」とか「リスク」とか、そんなものはすっかり忘れていた。
「ミラさん、ずいぶん顔色が良くなってきましたね」
と、デルフェ婦人が言ったので、フロースは婦人を見る。
婦人は、微笑みながら続けた。
「聞きましたよ。あなたのお名前は、ミラ・ラスクと言うのだそうですね。
遠い外国の地から来てらっしゃるとか。
プレオベール男爵は、あなたが故郷へ帰るのを助けておられるのだそうですね」
フロースは、自分の名前はミラになったのかと思う。
確かに、いつまでも、デルフェ婦人に自分の名前を言わないでおくのは不自然だ。
偽名を使ってラーウスに行くのでフロースの名前は使えないし、天使と呼ばれるのにも違和感がある。
彼女は、はにかみながら、「ええ、ミラ・・・と呼んでください」と答えた。
婦人は、笑いながら、
「何かご事情があるのでしょう。どうぞ、今まで通りに振舞ってくださいね」と言った。
ミラという新しい名前は、彼女の気持ちを爽やかにし、心地よくしてくれる。
その名前は、自分に嫌なことを思い出させたりしない。
もうオーデンでもディフォーレストでもないので、重荷を下ろせたような気がしたのだ。
心の内で、「わたしは、ミラ、ミラになったんだわ」と繰り返すと、
雲の上か、花園の中を歩いているような気分になる。
そうして彼女は、すっかりと回復した。
「ミラ、これを使えるようになれ」
突然、プレオベール男爵が、ダガーナイフのような短剣を差し出して言った。
元々は装飾用の短剣で美しかったはずだけれど、かなり使い古されている。
柄と鞘に、黒地に銀の紋章が入っており、所々に宝石のはがされた後があって、色も磨り減っている。
刃は何度も研がれたようで、元の形を留めていなかった。
短剣を受け取ったミラは、その重さに驚きながら、
「わたしは、こんなものを使ったことがありません」と答える。
男爵は、「だから、これから教えてやると言ってるんだ。研ぎ方もな」と無愛想に言った。
ミラは、何故こんなことまでしなければいけないのかと思うが、仕方がないと思って従うことにする。
ドレスを脱いだミラは、動きやすい服に着替え、練習を始めた。
すると、短剣を上手に使える気がしてきて、強くなったような自分を誇らしく思う。
ところが男爵は、
「絶対、人に刃物を向けてはいけない、相手が突きつけてきたら、逃げるのが一番だ」と言う。
短剣を持って構えていたミラは、拍子抜けしながら、
「じゃあ、この練習には何の意味があるのですか?」と聞く。
男爵はうんざりした調子で、
「あんたが、どれだけ下手なのかを知るためだ」と答えた。
それから男爵は、ミラを台所へ連れて行き、
大きなキッチンテーブルに積まれた山盛りの野菜や果物を見せて言った。
「その短剣で皮をむいて切り刻め」
「こんなにですか!?」とフロースは驚いて聞いた。
男爵は、それには答えず、台所を出て行ってしまった。
それを見ていたデルフェ婦人は、この二人はいったい何をしているのかと思うのだけれど、
とにかく、ミラにエプロンを着けさせる。
しばらくして戻ってきた男爵は、彼女がむいた皮を摘み上げて言った。
「ひどいもんだな。これじゃあ食べる所はほとんどないぞ」
デルフェ婦人は、
「だいぶ上手になったのですよ」とミラをかばう。
ミラは憤然として、「わたしは、ちゃんと料理が出来ます!」と言った。
そのあと、ちょっと情けない声で、「皮むきは、下働きの子がしていたんです」と言い訳をする。
男爵は、
「皮むきまでやるのが料理というもんだ。どうせ、女学校かなんかで習っただけだろう?」と言った。
毎日、ミラは、護身術の練習と台所での皮むきにせいを出していた。
その意味は分からないままだったけれど、だいぶ上手になったと自負している。
それなのに、最近、男爵は不機嫌なのだ。
「きっと、お仕事が大変なのだわ」
と思ったミラは、自分の努力の成果を喜んでもらおうと、男爵をダイニングルームに呼んだ。
テーブルの上には、上品な皿の上にスープボールが乗せられ、ピカピカのスプーンが添えられている。
ミラは男爵をテーブルに着かせると、得意げに、淡い緑色の豆のクリームスープをボールに注いだ。
男爵は怪訝な顔をし、ミラを見る。
ミラは、期待に目を輝かせ、男爵がスープを食べるのを待っている。
男爵は一口食べると、スプーンを皿の横に置いた。
「お口に合いませんか?」とミラは心配する。
男爵は、「いや、上手いよ」と答えた。
「では、」とミラが言いかけると、
突然、男爵はボールを取り、スープを床の上にこぼした。
犬たちが走って来てスープを舐める。
男爵は怒っていた。
そして立ち上がるとミラに迫り、「あんたは何をやってるんだ!?」と怒鳴る。
怖くなったミラは、両腕を頭の上で交差させ、目を瞑り震える。
デルフェ婦人が、台所から飛んできて、
「ミラは旦那様に喜んでもらおうとして」と言うと、
「これが喜んでいるように見えるか!?」と怒鳴った。
そして、「ミラに料理をするよう言った覚えは無い!」と言った後、口調を変え、
婦人に、「声を上げてすまなかった」と誤る。
それから男爵は、空のボールを裏返してテーブルの上に置き、
「あんたが食器を使うとしたら、このやり方だけだ。この底で刃を研ぐ練習でもしてろ!」
と捨て台詞を残すと、その部屋を出て行ってしまった。
デルフェ婦人は、むせび泣くミラの涙を拭き、その肩を優しく抱いて慰めた。
次の日、男爵は、ミラが庭で護身術の練習をしているのを見かけた。
彼が近付くと、彼女はびくっとして体を強張らせる。
男爵は「まずい」と思った。
彼女が怖がったのに呆れたのだ。
そして、「護身術を練習しているはずなのに、なんで怖がるんだ」とがっかりする。
ミラが怖がったのは、自分のせいだということには気付いていない。
男爵は、ミラの遊び半分のような態度にイライラしていたのだ。
怖がらせないようにと思ったのが、逆効果だったとも反省している。
そして、豆のスープにしても、
どうして女は余計なことをしたがるのかと、途方に暮れていたのだ。
今まで、女たちがそんなことをする時は、ほっておいた。
だが、今回はそう言う訳にはいかない。
すべてがミラにかかっているのだ。
もしかしたら、自分の計画は、彼女には無理なのかもしれない。
大体、なんだ、このへっぴり腰は。
護身術じゃなくて子供の遊戯だ。
言われたことすら満足に出来ない。
いや、初めから、かなり無理なのは分かっている。
そして、難しいと分かっていて、やると決めたはずじゃなかったのか。
キラルと交渉できるチャンスは、これが初めてで、恐らく、最後だ。
成功させるには、真剣に取り組んでもらわねばならない。
だが、それをどうやって彼女に分からせるかだ。
しかも、全てを明かす訳にもいかない。
男爵が黙ったままなので、ミラは、また自分は何かまずいことでもしたのかと心配していた。
こんなにがんばって練習しているのに、とも思う。
そして、自分は何をやってもだめなのだと気落ちしてしまう。
とにかく、今やっている練習がラーウスに行くのにどんな意味があるのか、皆目検討も付かないのだ。
そこまでする必要がどこにあるのだとも思う。
突然、男爵は、「ミラ、わたしに短剣を突きつけて襲ってみろ」と言う。
彼女は、
「えーっ!? 『人に刃物を向けてはいけない』と言ったのは、あなたでしょう?」と思ったが、
「はい!」と言って、短剣を差し出し突進した。
男爵は、彼女の短剣を、いとも簡単に振り払って手を捕らえる。
彼女は、彼の手を下に押さえて外そうとしたのに、
次の瞬間、腰を捕まれ、逆さまに持ち上げられてしまった。
「きゃあ!」とミラが叫ぶ。
その声に、デルフェ婦人が台所から飛び出してきた。
「何をなさってるんです!?」
デルフェ婦人の驚きと怒りのこもった叫びに、男爵は慌ててミラを下ろす。
そして「練習だ!」と叫んだ。
腰を抜かしたミラは、顔を青くして座り込んでしまった。
「やりすぎです!」と言ったデルフェ婦人は、ミラを抱えて家の中へ連れて行った。




