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イベリス (Iberis)    作者: Naoko
2部 ミラ
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     3章 交渉 1話 光と影

 フロースは、「あの人だ」と思った。

彼は、窓からの光を受けながら部屋へ入ってくる。

その自信に満ちた様は神々しくさえ見えるのに、「黒の男爵」と呼ばれる影のようなものを感じる。

彼女は、窓際の椅子に座ったまま、まるで怖いものでも見るかのように動けないでいた。


 フロースの顔は、男爵の方からは良く見えない。

彼女の後ろから光がさし、その顔を影にしていたからだけれど、光は彼女の短い髪をきらきらと輝かせ、

身にまとっている白くて長いレースのガウンも、縁取りされた淡い光を放っている。

光は動いているのに、緊張を拭えない彼女は、じっとしている。


 男爵は、彼女のそばに椅子をたぐり寄せ、そこに座り、口を開いた。

「元気になったようだな」


 フロースは、答えに戸惑う。

男爵に会ったら何を言おうかと考えていたのに、今は思い出せない。

それでも看病のお礼を言わねばと思い、

「おかげさまで・・・」と言ったのに、言葉に詰まり、うつむいてしまった。


 「高熱で死にかけたんだが、良く戻ってきたな」と男爵が言った。

「まあ、あの熱で、貧民街で感染した病原菌は死んだかもしれないがね。

それに、あんたは毒を飲まされていた」

毒と聞いて、フロースは彼を見る。

「死ぬような種類の毒じゃなかったが、いずれは何かの病気にかかって死んだかもしれない」


 フロースは、伯爵家で体がどんどん衰えていったのを思い出し、「マルロー婦人だ」と思った。

マルロー婦人が勧めるお茶には、苦味があったのだ。

男爵は、「それも解毒したから、もう心配ないが、あんたも大変な目にあったもんだ」と冷笑する。

フロースは惨めだった。

そんなことにも気付かなかった自分が、あまりにも頼りなく、情けなく思える。


 「さて、あんたは、これからどうするのかね?」

と問う男爵に、フロースは、

「お分かりのくせに。わたしは、あなたに買われたのに、返すお金がありません」と答える。


 男爵はそれに驚き、笑いながら言った。

「いや、払った金を返してくれるのはありがたいが、今のあんたじゃ無理だろう」

「では、わたしは何をすればいいのでしょう。

あなたは、デルフェ婦人に、わたしのことを話しておられません。

それに、わたしの家族にも連絡しておられないでしょう?

あなたには、すでにお考えがあるからだと思います」

フロースはそう言うと、またうつむき、両手を膝の上でぎゅっと握った。

それは彼の女になれと言う意味なのだと思ったからだ。


 ところが男爵は、

「それは、あんたがそうして欲しいと思ったからなんだが」と答える。

フロースは顔を上げると不思議な表情をした。

どういう意味だろうと思ったのだ。

「戻りたくないのだろう? 違うのかね?」と言われたフロースは、

「そうだ、自分が、逃げようとしなかったのだ」と思い出す。


 自分は、貧民街の人たちを好きになった。

あそこで必要とされたし、充実もしていた。

自分の忌まわしい過去を思い出す暇もないほど忙しかった。

ところが今はもう、あそこは無くなってしまっている。


 フロースは、答えられない。

自分が、どうしたいのか分からないのだ。


 「それに、あんたは自分の名前も好きではない」

彼女はまた驚く。

「だからわたしの名前を、デルフェ婦人に教えなかったのですか?」

「それもある」

そう言う男爵は、いくらか違う人のようにフロースには思え始める。


 「まあ、それはわたしの計算違いだったが、

あんたに使った金は、返してもらおうと思えば子爵に請求すればいいし、

政府の機密費から出させることも問題ではない。

だが、わたしとしては、返して欲しいと思ってやったことではない。

もし、あんたが死ぬようなことにでもなれば、連絡するつもりではいたがね。

あんたが家へ戻るかどうかは、自分で決めることなのだが、そうしたくないようだし、

かといって、どこへ行きたいのかも分からない。

それは困ったことだとは思わないかね?」


 フロースは、自分の心が見透かされているようで、その彼の目に吸い込まれそうになる自分に戸惑う。

彼の目は、グレーがかった緑だ。


 「どうしてあなたは、そんなに親切なのですか?」

フロースは聞いた。


 男爵は、フロースの一途な眼差しを見て、思わず苦笑いし、

「下心があるからに決まっているじゃないか。あんたは、まだまだだね」と答える。


 フロースは、顔を真っ赤にして言い返す。

「分かりました。

あなたは、いい方なのかもしれないと、少しでも思ったわたしが馬鹿でした。

そうやって、あなたはデルフェ婦人も騙しているのです。

あなたのことを、とてもいい方だとおっしゃっていました。

そんなのは真っ赤な嘘です!」

男爵は、にやにやしながら答える。

「それはお互い様だ。あんただって、自分のことを隠しているじゃないか。

白い天使アンジェ、貧しい人たちのために奉仕をしている汚れのないお嬢様だったな」


 フロースは、男爵をにらんだ。

そして悔しいけれど、この人には勝てないと思った。

二十一歳の自分が、この大人の男性に勝てるはずもない。

それなのに、次第に彼に惹かれていく自分がいて、腹立たしくさえ思う。


 「まあ、デルフェ婦人がそう思いたければ、それでいいじゃないか」

と男爵は、フロースの手を取りながら言った。

「あんたには、そんな雰囲気があるのだし」

「それは、あなたもいい人だと言うことですか?」

フロースはそう言って、彼の手を払いのけ、そっぽを向く。


 男爵は目を細め、フロースをせせら笑うように答える。

「そうなんだが、あんたは信じない」

「ええ、信じませんとも!」とフロースは憤然として言った。


 「あなたは失礼な方です。わたしをからかっているのです。

デルフェ婦人は、あなたが無理をしていると心配しておられます。

あんな優しい方を騙して。

婦人は、あなたに暖かで幸せな家庭を作って欲しいと願っておられます。

わたしに言わせれば、あなたはそんな幸せを望んでいるのではなく、腹黒く何かを企んでいるのです」


 男爵は、大真面目に言うフロースに、吹き出してしまいそうになる。

そして言った。

「では、わたしの企みの一つを教えてやろう。

ミラ・ラスクを知っているかね?」

フロースは、どこかで聞いたような気がすると思った。


 「ラーウスのキラルが、ミラ・ラスクを捜して、よこすようにと言ってきた」と男爵が言うと、

「ラーウスのキラル!?」

フロースは叫んだ。


 彼女の反応に、男爵は「やっぱりだ」と思う。

そして言った。

「わたしは、それは、あんたのことじゃないのかと思ったんだ」



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