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イベリス (Iberis)    作者: Naoko
2部 ミラ
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          4話 穏やかな家政婦

 フロースの高熱は続いていた。

彼女は、自分がどこにいるのか分からないのだけれど、柔らかなベッドに寝かされているのを感じる。

重さの無い、真綿の布団が、彼女の体を柔らかく包んでいる。

体に触れるものは、すべて痛みを感じるので、雲に包まれたような柔らかさは気持ちを落ち着かせた。

窓には、ぶ厚いカーテンがかけられており、その隙間から、少しの光が漏れている。

薄暗い部屋は、彼女の目に優しい。


 看病をしているのは、ふくよかな婦人で、その笑顔は柔らかだった。

婦人のぽっちゃりした手が、フロースの体を、大切な陶器を扱うかのように優しく触る。

マルロー婦人の、痩せた冷たい手のようではない。

時々、医者らしい男性が彼女の様子を見に来て、薬を婦人に渡している。


 フロースは、それらを見ながら夢と現実の間を行き来していた。

その夢も、はっきりしたものではなく、漠然と感じるだけで、何も思うことはない。

眠っている時と、何かを眺めている時があり、どちらが夢で、そうではないのかさえ分からないでいる。


 たまに、プレオベール男爵が、自分の傍らにいるような気がした。

彼を見つめているらしいのだけれど、それも夢か幻のようだ。

その手がフロースの方に伸び、影をつくるので目を瞑る。

そして、額に触れた温かい手に安らぎを感じ、再び眠りに落ちていくのだ。



 しばらくすると、フロースは目を覚ましている時間が多くなり、起き上がれるようになった。

まだ一人では立てないので、婦人の助けを借り、ベッドの上に上半身を起こして座る。

フロースは口を利かなかった。

それはまるで、言葉を失ったかのようで、婦人は、優しくささやくように話し続けている。

彼女は、自分をデルフェ婦人、この家の家政婦だと言った。



 「今日は、少し歩きましょうね」

とデルフェ婦人は、カーテンを半分開け、振り返って言った。

フロースは、支えてもらい、ベッドの端に座ると足を床につける。

床のひんやりした感触が、彼女の意識を呼び起こしていくようだ。


 歩いた後で再びベッドに戻り、デルフェ婦人はフロースの体を拭いて着替えさせる。

そして、「さあ、白いアンジェさん。この白い寝衣は、あなたに良く似合ってますよ」と言った。

フロースは、「白いアンジェ」に反応し、婦人を見る。

婦人は、にこやかに微笑んだままフロースを見ている。

すると涙が溢れた。


 「あらあら、わたくしは何かいけないことでも言いましたか?」と婦人が心配するので、

「いいえ」とフロースは、初めて、小さな声で、彼女に口を利いた。

「まあ!」と婦人は喜びの声を上げる。


 「口が利けるのですね。良かったわ。

長い間、高熱が続いたので、しゃべれなくなったのではと心配していたのですよ」

それからフロースは横になり、また眠る。

ただ眠るだけで、何も考えなかった。



 そうして数日が過ぎ、フロースは、ひとことふたこと話すようになった。

考えや記憶も少しずつ戻ってくるようで、サイドテーブルに置かれた花や、窓の外の景色について何かを言ったりする。


 デルフェ婦人は、フロースのことを「アンジェさん」と呼んでいた。

それは、おそらく、男爵から聞いたのだろうとフロースは思う。

婦人は、フロースの名前を知らないようだった。



 「旦那様は、とてもいい方なのですよ」

とデルフェ婦人は、庭から摘んできた花の入った小さな壷を、サイドテーブルに置きながら言った。


 「前の旦那様が亡くなられて、わたくしたち召使いは、ちりじりになったのですけれど、

失われた領地を買い戻し、雇われていた者たちも呼び戻して下さったのです。

働けなくなった者たちにも、きちんと退職金を払って下さったのですが、皆、死ぬまで旦那様に奉公するのだと言っています」

フロースは顔を上げ、婦人を見た。


 「あなたは、貧民街の病人たちの看護をなさっていたのですってね。

そこで、病気になってしまわれたとか。

あなたのやっておられたことは、とてもすばらしいことだと思います。

あなたのようなお嬢さんが、旦那様のお嫁さんになってくださるといいのですけれど」


 それを聞いてフロースは困惑する。

自分の知っている男爵とは違う人の話なのかと思ったのだ。

しかも、この婦人は、自分をお嬢さんだと思っている。

自分の過去を聞かされてないらしい。


 この簡素で品が良く、静かな部屋。

窓の外から漂ってくる花や草木の匂い。

穏やかで、上品な家政婦との心地よい会話。

フロースは、自分が全く違う世界にいるような気がした。


 そして婦人は、「あら、御免なさいね。

わたくしったら、余計なことを言ってしまったようだわ」と言って笑った。

婦人の、ころころと、水滴が、はすの葉を転がり落ちるような笑い声に誘われて、

「あの・・・ご主人様はどこに?」とフロースは言った。


 婦人は、フロースを見てにっこりと笑い、

「先週からお出かけのようなのです」と言った後で、顔をいくらか曇らせる。


 「わたくし、実は心配しているのですよ。

旦那様は、小さいころは優しいお子様でしたのに、

不幸があってお父様を亡くされ、その後、お母様も病気で亡くしてしまわれました。

親戚の方々にもそっぽを向かれ、とてもお可哀想でしたのよ。

ところが数年前に、わたくしどもの所に戻って来られた時は、それはそれは立派になられて・・・

ですが事業が成功し過ぎているようで、

まあ、良いことなのですが、なにか無理をしておられるのではと気になっているのです。

そんなに立派になられなくても、もうこれで十分ですのに。

出来れば、素敵な方と一緒になられて、暖かで幸せな家庭を作って欲しいと願っているのですけれど」


 「暖かで幸せな家庭?」とフロースは思った。

どうしても、あの男爵と一致しない。

この婦人は嘘をついているのか、もしくは騙されているのではないかと思う。


 そう思いながら、フロースは、自分が疑り深くなっていると思った。

この穏やかで優しい婦人に、そんなことを感じてしまうなんて、と自分を恥じる。

そして、「暖かで幸せな家庭」など、自分にもほど遠いのにと思った。



 それから数日して、デルフェ婦人が仕えている「旦那様」は戻ってきた。

そのころまでにフロースは、婦人の手を借りて椅子に座り、窓から外の庭を眺めて過ごす日が多くなっていた。


 騒々しい音がしたかと思ったら、急に、あの二匹の大きな犬たちが、フロースの部屋へ入って来る。

フロースは、「あっ」と声を上げた。

そして、体を硬直させる。

それを見たデルフェ婦人は、

「まあまあ、アンジェさんを怖がらせてはいけませんよ」と犬たちを叱った。


 それは、なんとも滑稽な様子だった。

大きくて恐ろしそうな二匹の犬たちは、この優しい婦人に怒られ、どうして良いのか分からないと言う風に戸惑っている。

そして婦人は、「シュッ、シュッ」と言って犬たちを追いたてながら、部屋の外へ出て行った。


 フロースは、開いたままのドアから、冷たい空気のようなものが流れてくるのを感じる。

体の硬直は、解けていない。



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