1章 スラム 1話 囚われの身
フロースは頭を上げ、窓の外を見た。
少し前まで見えていた古いレンガ造りの建物が、影のように青い空に浮かび上がっている。
彼女は、「夜がくる」と思った。
フロースは、誰も使っていない建物に連れてこられ、階段を上り、事務所のような部屋へ入れられると、目隠しや口に張られたテープが外された。
今は一人、手を縛られたまま冷たい床の上に座らされている。
建物の周りは静かで、人通りのない所らしいということしか分からない。
彼女をここへ連れてきたのは三人の男たちだった。それからもう一人、リーダーらしい男が加わっている。
その四人の男たちは、後にやって来た別の男たちと階下へ降りたまま戻ってこない。
男たちの声が、途切れ途切れに聞こえてくるのだけれど、声の感じから不都合なことが起こっていると分かる。
「わたしは殺されるのかしら」とフロースは思った。
初めは恐ろしかったのだけれど、しばらくすると、それでもいいのかもしれないと思えてきた。
人生の挫折を味わっている彼女は、諦めやすくなっている。
そして、「イベリス・・・」と、その名を声に出して呼んだ。
「今どうしているのかしら。
わたしがこんな所にいるなんて、考えもしないでしょうね」
彼女はイベリスの両親のことも考える。
ラーウスと、ウィリディスを含む周辺諸国の平和のために犠牲になった人たち。
イベリスは、自分の迷いの答えを見つけたのだろうか。
フロースは、そんなことを考えている内に、失うものは何も無いのだと思った。
もうイベリスに会うことはないという思いと、生きていてもしょうがないのだという気持ちは、彼女の生きる希望をも蝕んでいく。
静けさの中、恐怖の果てにたどり着いた死への誘惑は、かなり魅力的である。
突然、どやどやと通路を歩く男たちの足音が近づいてきて、ドアが開いた。
入ってきたのは、先ほどの四人の男だちだった。
「ふ~ん・・・泣いているかと思ったら、結構、気が強いじゃないか」とリーダー格のひげ面の男が言った。
「お頭、どうします?」と男たちの一人が聞く。
「手を自由にしてやれ。
やれやれ、今更、人違いだと言われてもな。こっちは、言われた通りにやっただけなのに」
それを聞いたフロースは、やはり、アリアの代わりに誘拐されたのだと思った。
彼女はアリアの服を着て、帽子を深々と被っていたので、間違えられてしまったのだ。
アリアは、今頃、自分の浅はかさに悔恨の情にかられているだろうと、フロースは思った。
彼女のおろかさが招いた誘拐だ。
それは、フロースがいつも懸念している彼女の問題点でもあった。
皆から愛されるアリア。
自分を過信する帝国の姫。
事が起きるまで、その重大さを考えない天真爛漫な性格。
それでもフロースは、誘拐されたのがアリアではなくて自分で良かったと思っている。
これで彼女は、用心深くなるだろう。
いずれにしても、彼女は狙われていたのだから。
フロースは、手が自由になっても、そこに座ったままだった。
お頭と呼ばれる男が、「へえ・・・」と言って、フロースを上からしげしげと見る。
フロースは、こんな男の目は知っていると思った。
あの、いやらしい伯爵の目だ。
そのとたん、フロースの体に力が戻ってきて、「もうこんな男たちの餌食になるのは真っ平だ」と思う。
彼女の体から嫌悪感が炎のように放たれ、目は殺気立つ。
そのフロースの様子に、お頭と呼ばれる男はうす笑いをしながら、
「まあ、そういきり立ちなさんな。依頼主が、あんたを俺たちの好きなようにしていいそうだ。
さあて・・・どうしたもんかね。え?」と言いながら、フロースに近付いてくる。
彼は、彼女の腕を掴むと顔に触ろうとした。
その時、フロースは思いっきり男の手を噛んだ。
「こいつ!」と彼はフロースの顔を殴り、フロースは床にたたきつけられる。
その瞬間、窓ガラスが割れ、二つの閃光が走り、
一つはその男の肩を貫き、もう一つは後ろにいた男の胸を打った。
「光線銃だ!」と別の男が叫ぶ。
彼らは床に伏せ、それから窓の外を見る。
フロースが倒れた男を見ると、その心臓は打ち抜かれていて即死していた。
建物の外で撃ち合いが始まっている。
「畜生! あいつら、俺たちをおとりにして自分たちは逃げるつもりだったんだ!」と誰かが叫んだ。
「お頭、どうする? 囲まれたみたいだぜ」
お頭は、撃たれた肩を押さえて答える。
「ふん、こんなこともあろうかと逃げ道は考えてあるさ。
下水道への入り口は開けてある。地下室へ行くぞ!」
「女は!?」
「連れて行くんだ! まだ役に立つ!」と男は言って、ほふく前進をしながらフロースを振り返って言った。
「生きていたけりゃ、しっかりと付いて来るんだ」
別の男がフロースの腕を掴み、部屋から引きずり出す。
フロースは、男たちに付いて地下室へ下りた。
外から撃ち合いの音が聞こえる。
お頭は、「あいつら、俺様を舐めるからこんなことになるんだ。
せいぜい、俺たちのために戦って時間稼ぎをしてもらうさ」
と言って、床の丸い蓋を開けると、真っ先に穴の中へ入っていった。
お頭は、迷路のような下水道を、まるで自分の庭であるかのように走る。
そして、いくつものゲートをくぐり、表に出てきた時は朝になっていた。
彼らがたどり着いたのは、貧民街の中にある古い建物の中だった。
一人の女が「あんた!」と言ってお頭に駆け寄る。
お頭の肩は、血で真っ赤に染まっていた。
「畜生、血が止まらないんだ。医者を呼んで来い!」とお頭が言うと、別の男が答える。
「呼びに行ったんだが、酔っぱらって足がふらふらだぜ。あれじゃあ何もできない」と言って、カバンをそこに投げる。
投げ出されたカバンの口が開き、医療品が散らばった。
「水樽へ突っ込んで起こすんだ!」とお頭は、肩を押さえながら怒鳴る。
その騒ぎを聞いていたフロースは女に言った。
「わたしは少しの間、看護学校に通っていました。止血ぐらいは出来ると思います」
女はフロースを見る。
「あんた誰!? まあ誰でもいいさ、とにかくあの人を助けて!」と叫ぶ。
フロースは、その男の方の服を切り裂き、肩を見る。
「動いている間に、傷口が開いたようですね。綺麗な布はありますか?」
女が布を差し出すと、フロースは傷口にそれを当て、女の手を取って、
「ここを、こういう風に押さえてください。圧力をかけるのです」と言った。
そうして、しばらくすると血の流れはいくらかおさまり、フロースは男の肩を包帯で硬く巻き、
「傷口は完全に閉じてないので、お医者様に診てもらえるまで安静にしてください」
と言って後ろに下がり、壁によりかかると座り込んだ。
「毛布を持ってきておくれ! 医者はまだ起きないのかい? 全く、肝心な時に役に立たないんだから!」とあの女が叫んでいる。
フロースは、そのお頭たちの騒ぎを、何も考えることなく眺めていた。




