6話 セフェの思い出
セフェの潮風は、包み込むように穏やかだった。
アリアの姉が嫁いだ公爵家別邸、海の見えるベランダのドアは大きく開いている。
そこでアリアとフロースは、おしゃべりを楽しみ、笑う。
海からの爽やかな潮風が、フロースの髪をゆったりと波打たせている。
アリアはそれを眺めながら、フロースを取り戻した嬉しさに心を弾ませていた。
喪が明けたフロースには、ディフォーレスト家から迎えが来ていたのだけれど、
アリアは遣いのレオを追い返し、学校の休みを利用して、セフェの海岸で休暇を楽しんでいる。
オーデン伯爵ヘンリーの後見人、ディフォーレスト子爵は、伯爵家の財産管理をし、全ては落ち着いていた。
ヘンリーは、幼いころから寄宿学校へ入れられており、あまり父親と接していない。
彼は、父親のような生き方はしないと心に決め、勉学に励み、自分を支えてくれる子爵を尊敬している。
マルロー婦人は、手のひらを返したようにフロースに優しくなっていた。
フロースは、長年オーデン家に仕えたこの侍女長を如何こうするつもりはなく、彼女のことを父に告げ、
オーデン伯爵ヘンリーとの間に不都合を起こしたくないと考えている。
それに、これ以上、自分のせいで人が不幸になるのはいやだった。
フロースは、伯爵と結婚した自分の浅はかさをつくづくと思い知らされていた。
父は、娘の助けに頼るような人ではなかったのだ。
そして自分の結婚が失敗に終わり、しかも夫の死は醜聞でしかなく、かえって父を煩わしてしまったと後悔している。
母はフロースが戻ってくることを歓んでいるのだけれど、娘の不幸に心を痛めているのも事実で、それもフロースを心苦しくさせていた。
フロースは、オーデン家を出られたのは嬉しいものの、実家へ戻るのも気が進まないでいる。
それで、アリアの誘いは嬉しかったのだ。
アリアは、フロースの気がすむまで、この公爵家別邸にいていいと言うのだけれど、
フロースは、出来れば誰もいないところで、静かに暮らしたいと思っている。
まだ二十一歳のフロースがそう思うのは、かえって周りの人々を悲しくさせるのだけれど、
彼らは、彼女が立ち直るのには時間が必要なことも分かっているので、見守ることにしている。
アリアは、自分の服や帽子を取りに行き、戻ってくると賑やかにしゃべりだした。
「フロース、あなたの服はなあに? 黒かグレーばっかりじゃないの。
喪は開けたんだし、これから買い物に行きましょう。
わたしの服を貸してあげるから着替えて、イベリスも言ってたでしょう? 服で気持ちが・・・」
と言いかけたアリアは、はっとして止めた。
フロースは、何も言わずに笑みでアリアに答える。
アリアは、服を長椅子に置くと、窓際に座っている彼女の横にやって来て座った。
「これからどうするの? イベリスに連絡する?」
「あの方とはもう終わりました」とフロースは言った。
「あなたは、まだイべりスを愛しているじゃない」
「そうだとしても、どうにもなりません。あの方は、アクィラ王に忠誠を誓われた方です」
「それでも、彼はまだ独身なのよ。結婚もできるじゃない」
ところが、フロースはそう思わない。
「もしあの方が、わたしを求めておられるのでしたら、そのようにおっしゃることでしょう。
わたしは夫を亡くし、喪が明けても、あの方からは何の便りも貰っていません。
王の助言者の一人としての立場もおありです。
未亡人となったわたしは、あの方の妻にふさわしいとは思えません。
しかも、夫の死は醜聞となっており、わたしの評判も良くありません。
わたしは、あの方の重荷になるだけです」
それを聞いたアリアは、じっとフロースを見つめる。そして呆れたように言った。
「あなたの話を聞いていると、なんだか昔の話みたいに思えるわ」
フロースはそんなアリアを見ると微笑む。
「姫様、あなたはいつも自由ですね。わたしはそんなあなたが羨ましいです」
アリアは、それを言うフロースの心の悲しさが痛いほど分かる。
そしてアリアは、ふっと息を吐き、「自由ね・・・」と言って肩を落とした。
アリアは看護学校を卒業し、貴族や将校たちのサロンのような療養所でボランティアをしていた。
帝国の娘が病院で働くなど考えられず、雇ってくれる所すらなかったのだ。
「自由なんてそう簡単なものではないわね」とアリアは言った。
元々アリアは、看護師になりたいという強い志しを持っていなかったので、ここへ来て行き詰っていた。
片思いのカイはまだ二十歳、自分の勉強が忙しく、ガールフレンドどころではないと言っている。
それにカイは、初歩的な医療の知識しかない自分との会話を楽しむどころか、邪魔者あつかいするだけだと思う。
「わたしには、これ以上進学する理由はないし、かと言って、せっかく得た知識を使わずに終わらせてしまうのも嫌だわ。
もっと経験を積みたいと思うのだけど、私が見舞う患者は貴族たちばかりで、結局は囲いの中なのよね。
こんなことなら、私も連邦国に留学したかったわ。
まあ、そこまでは許してもらえなかったでしょうけれど。
カイが、なぜ連邦国側に行ったのかと思っていたら、こういう事だったのよね」とため息をつく。
「とにかく」とアリアは言って、気分を切り替えることにする。
「海岸を散歩して、お買い物を楽しみましょうよ」
そして、自分のドレスをフロースに当て、
「あなたとはサイズは同じだけど、丈が違うから、この長めのドレスがいいわね」と言った。
そうして着替えた二人は、玄関で待っていた公用車に乗り込んだ。
ところがアリアは、車が海岸通りの手前で停止すると、
急にドアを開け、外に出るとフロースを車から引っぱり出し、彼女の手を握って足早に歩き出した。
「姫様、どうされたのですか?」フロースは、アリアに手を引かれながら聞く。
アリアは振り向くと、悪戯っぽい目をして答える。
「だって、警護がうるさいんですもの。
セフェは比較的安全だし、ボードウォークを歩くくらい自由にさせて欲しいわ」
「怒られますよ?」
そのフロースの口調は、いつもの彼女に戻っていた。
アリアはそれが嬉しくて、フロースに向かって笑顔を見せる。
「平気よ、怒られるくらい。
さあ、あの人たちはすぐに追ってくるから、急いで道路を渡りましょうよ」
アリアは、ちょっとした冒険気分で、うきうきしながら道路端に止まった。
彼女のバッグから、ワイアレスフォンのベルが鳴り続けている。
その音をうるさく思ったアリアはアンサーする。
「え? 良く聞こえないわ」
道路の騒音がうるさいので、アリアは道路から離れた。
フロースは、ひとりそこに残り、道路の向こう側にあるボードウォークを眺める。
その先には砂浜があり、海が広がっている。
そして、空だ。
イベリスとここで楽しく会話をしてから、二年近く経っている。
フロースは、その時のことを懐かしく思い出した。
彼の声、笑い顔、短くなった前髪を手でかき上げる癖、そのすべてを覚えている。
風がさっと吹き、フロースの帽子を飛ばそうとした。
それを押さえてうつむく。
帽子の中に隠れていた髪が一筋、彼女の肩に落ちた。
「えっ? 反政府ゲリラが?」
とアリアは言って、ワイアレスフォンを耳に当てたままフロースを振り返る。
その時、一台の車がフロースに近付く。
そしてドアが開き、彼女を引きずり込み、そのまま走り去る。
アリアは、その一部始終を、まるで音の無いスローモーションの映像であるかのように、
呆然として見ているだけだった。
フロースを取り戻したと思ったアリアは、再び、彼女を失ってしまったのだ。




