第八話 再会
夜。高瀬莉央が一人暮らしをしているマンションの一室には、食事と入浴を終えた二人が、それぞれ思い思いに過ごす時間が流れていた。
リビングは、車椅子での生活を前提に、家具の配置にゆとりを持たせている。部屋の中央には低めのテーブルが置かれ、その脇には二人掛けのソファーがある。壁際にはテレビと小さな収納棚。窓には厚手のカーテンが引かれ、外の街灯やマンションの明かりが、わずかな隙間から差し込んでいた。キッチンはリビングとひと続きになっており、食事を終えた食器はすでに片づけられている。生活に必要なものは一通りそろっているが、余計な装飾は少ない。莉央の性格を反映してか、実用性を重視した、すっきりとした部屋だった。
結城蓮は体育会の寮で暮らしているが、月の半分ほどは外泊届を出して莉央の部屋に泊まっている。今夜もすっかりくつろいだ様子でソファーに横になり、タブレットで読書をしていた。長い脚を伸ばし、片腕で頭を支えながら、ページをめくる指先だけを動かしている。ここで過ごすことにも慣れきっているらしく、もはや遠慮のようなものはほとんどなかった。
一方の莉央は、いつものようにネット将棋に没頭していた。
車椅子をテーブルに寄せ、手元の端末に視線を落としている。ただし、今夜の対戦相手は、あの不気味なアカウントではない。画面に表示されている名前は、@Kunio_Pacific_Ocean。
盤面には、すでに莉央にとって苦しい局面が広がっていた。
彼女の視線は盤上を忙しなく行き来し、次の一手を探している。普段なら、面白い手を見つけたときには口元を緩めたり、相手の意表を突く手を指して得意げな顔をしたりする。しかし、今はそんな余裕もない。細い眉が寄り、唇がきゅっと結ばれている。画面を見つめる表情は、いつになく強張っていた。
莉央は得意の攻め将棋で、序盤から積極的に仕掛けた。相手の陣形に切り込んでいく。だが、Kunio_Pacific_Oceanは慌てなかった。
攻めを受け止め、反撃を急がず、必要な場所に一枚ずつ駒を配置していく。莉央が攻め筋を変えれば、それに合わせて守りを修正する。強引に攻めれば反撃の隙が生まれ、手を緩めれば陣形を整えられる。
気づけば、莉央の攻め駒は次々と交換され、盤上には相手の堅い陣形だけが残っていた。
勝負手を放っても、相手は動じない。わずかな反撃の可能性まで丁寧に摘み取り、莉央の王を追い詰めていく。
派手な妙手はなかった。大駒を捨てるような鮮やかな攻めもない。ただ、莉央が勝つために必要なものを、一つずつ奪っていく。
そして、莉央は投了ボタンを押した。
「くー。これは完敗だなぁ」
莉央は車椅子の背もたれに身体を預け、悔しそうに笑った。
「相手、プロじゃないかなぁ?」
負けたこと自体は悔しい。けれど、それ以上に相手の強さが面白かった。莉央はさっそく棋譜を巻き戻し、どこで差がついたのかを確かめ始めた。
莉央が棋譜を巻き戻していると、画面の隅にチャットの通知が表示された。
【Kunio_Pacific_Ocean:おい、聖川。お前何しとるんや? 親父に似たヘボい将棋指しよって】
「えっ!?」
莉央は思わず声を上げた。突然の呼びかけに、ソファーで読書をしていた蓮も顔を上げる。
「何だ?」
「ちょっと、これ見て!」
莉央が画面を向けると、蓮は身を乗り出してチャットを覗き込んだ。
「この関西人、何者?」
「分からない」
莉央は困惑した顔で首を傾げた。
画面の向こうで、桜井孔明もまた、確信を持っていたわけではなかった。あの将棋には、どこか聖川広司を思わせるものがあった。だが、それだけで相手を聖川の娘だと断定することはできない。だからこそ、あえて名前を呼び、反応を探ってみたのだ。
莉央はひとまず、丁寧な返事を打ち込んだ。
【Tokinchan:対局ありがとうございました。どなたでしょうか?】
ほどなくして、返事が届く。
【Kunio_Pacific_Ocean:なんや? ワシを知らんのかいな。とりあえず、ググれ。】
莉央と蓮は顔を見合わせた。
さらに、続けてメッセージが表示される。
【Kunio_Pacific_Ocean:ググったらワシは龍山大学の附属病院に入院してるから、午後イチで見舞いに顔出すように。Tokinchanと名乗れば通してもらえるようにしておく。以上。】
蓮がスマートフォンを手に取り、Kunio_Pacific_Oceanと入力して検索しようとする。その横で、莉央は画面上のアカウント名をドラッグしてコピーすると、間髪入れずに検索をかけた。
検索結果に表示されたのは、有名棋士のネット将棋アカウント名をまとめた一覧ページだった。莉央は目当ての名前を探し、すぐに指を止めた。
「この人、桜井先生だ」
「有名な人?」
蓮が画面を覗き込む。
「父親の同門で、弟弟子だった人。タイトルホルダーで、将棋界の第一人者」
莉央はそう答えながら、改めてチャットの画面を見た。まさか、あの桜井孔明から直接メッセージが届くとは思ってもいなかった。
翌日、龍山大学医学部附属病院。
面会時間は午後一時からだった。
正午を少し過ぎた頃、莉央と蓮は病院の正面玄関をくぐった。大学病院らしい広々としたエントランスには、外来患者や付き添いの家族が行き交っている。受付の案内板を確認しながら、二人はエレベーターホールへと向かった。
莉央は、濃紺のテーラードジャケットに淡いブルーの襟付きシャツ、ダークグレーのワイドパンツという装いだった。黒いベルトでウエストを締め、足元にはつま先の尖った黒いヒールを合わせている。普段のカジュアルな服装とは打って変わった、かなりフォーマルなコーディネートだ。短いブロンドの髪もきちんと整えられ、大学院生というより、派手な髪色以外はどこかの企業の若手社員のようにも見えた。
一方の蓮は、いわゆるオールドマネーと呼ばれるスタイルでまとめていた。
上質なネイビーのニットポロに、クリースの入ったライトグレーのスラックス。腰にはシンプルな黒革のベルトを締め、足元は磨き上げられたダークブラウンのローファーだった。腕時計も、目立つロゴや派手な装飾のないクラシックなデザインだ。仕立てのよい服をさりげなく着こなしているが、ブランドを誇示するようなところはない。清潔感と落ち着きがあり、育ちのよさが自然とにじみ出る装いだった。
並んで歩く二人は、どちらも普段より少しだけよそ行きの雰囲気をまとっていた。
受付で面会の手続きを済ませ、案内された病棟へ向かう。エレベーターを降りると、廊下には消毒液の匂いが漂っていた。看護師がワゴンを押して通り過ぎ、病室の扉の向こうからは、かすかな話し声や医療機器の電子音が聞こえてくる。
莉央は病室番号を確かめ、車椅子を止めた。
「ここだね」
「ああ」
蓮が短く答える。
莉央は扉の横に掲げられた名札をもう一度確認した。桜井孔明。将棋界の第一人者であり、父・聖川広司と同じ一門に属していた棋士。そして、昨夜のネット将棋で自分を完膚なきまでに打ち負かした相手でもある。
まさか、こんな形でまた会うことになるとは思わなかった。
莉央は一度だけ息を整え、病室の扉をノックした。
病室の扉を開けると、ベッドの上で上体を起こした桜井孔明が二人に目を向けた。右腕と右脚はギプスで固定され、身動きもままならない様子だったが、その眼光には衰えがない。
「ご無沙汰しております、桜井先生。昨夜、一手ご指南いただいた『と金ちゃん』でございます」
「なんや、本当に来たんか?」
桜井の大きな目が、驚いたようにさらに見開かれた。まさか本当に病院まで来るとは思っていなかったらしい。
「『クニオ・パシフィック・オーシャン』や」
オンラインでの名乗りに合わせ、桜井も冗談めかして自分のIDを口にした。
「これ、つまらないものですが」
蓮が洋菓子店で買ってきたチョコレート菓子の手土産袋を差し出す。
「なんや、兄ちゃんはボディガードか? お土産、おおきに。そこ置いといて」
「霊媒師です。『と金』さんは今、悪霊に狙われてるので」
蓮が何食わぬ顔で答える。莉央は思わず彼を見上げると、腕を伸ばして肩口を引き寄せ、その顔を自分の耳元まで近づけた。
(何言ってるのよ)
(ああいうタイプは、下手に恐縮したら飲まれるぞ)
蓮は小声でそう返した。
「なんや、霊媒師か。そないやったら、ワシをお祓いしてほしいわ。悪霊に襲われて入院しとるんや」
桜井は破顔し、すかさず冗談に乗ってきた。
「実は僕たちも、その悪霊の正体を探っておりまして。成仏させてやらねばと思っているのですが、オンラインお祓いは対応外で困っているわけです」
蓮は手土産袋からチョコレート菓子の箱を取り出し、桜井に見せてから、枕元の荷物置きにそっと置いた。
「おおきに。ワシも背は高いほうやけど、兄ちゃんも大きいな。ガタイもええ。亡霊退治より、悪人退治するほうが向いてるんちゃうか?」
「そうなんですよ。正体さえ分かれば、首根っこ押さえてとっ捕まえられるんですがね」
蓮は屈託なく答えた。
お互いが同じ悪霊の話をしているのかどうか、わざわざ確認する必要はないようだった。少なくとも、蓮はそう考えているらしい。
「そう。『と金ちゃん』を呼んだんは、悪霊の話がしたかったからなんや。アンタは聖川の関係者か?」
桜井の視線が、今度は莉央に向いた。
彼は、彼女が聖川龍王本人だと気づいていないのだろうか。それとも、これもまたカマをかけているのか。
事故から九年。かつての莉央は長い黒髪の、いかにも育ちのよさそうな少女だった。今の彼女は髪を短く切り、明るい色に染めている。纏う雰囲気も当時とはまるで違う。昔の面影を探そうとしても、そう簡単には見つからないのかもしれない。
「娘です。高瀬莉央って言います」
莉央はあっさりと答えた。
高瀬という姓は、事故のあと彼女を引き取った母方の親族のものだった。母親の姓でもない。かつて聖川龍王と呼ばれた少女は、名前も変えて新しい人生を歩んできた。
戸籍上の名を変えるには相応の手続きが必要になる。特に名の変更は、正当な理由が認められなければ簡単には許可されない。彼女の場合、父がつけた「龍王」という名は女性の名前としてはあまりに特異であり、読みも含めて変更する理由は十分にあった。読みをリョウからリオに変えたのも、その一環だった。
「やっぱり、広司さんの隠し子やったわ」
桜井は、自分の推理が当たったことを喜ぶように言った。
「隠し子?」
莉央は眉を寄せた。どうやら何か勘違いされているらしい。とはいえ、訂正するには説明しなければならないことが多すぎる。
「アンタの棋譜を見て一発で分かったわ。あの派手で素人好みするヘボ将棋は遺伝やな。ヨカタの将棋や」
桜井は将棋に関して容赦がない。自分の対局であっても、出来が悪ければ平然と酷評する男だ。その口ぶりには、オンラインで対局した相手への評価がそのまま表れていた。
「そしたら、亡霊の正体はアンタの姉ちゃんか?」
「姉ちゃん?」
莉央は困惑して蓮を見上げた。
蓮は彼女の耳元に顔を寄せる。
(莉央が聖川龍王だとは気づいてないぞ)
(え? まさか、隠し子だと思われてる?)
(高瀬莉央って名乗ったのが悪かったんじゃないか?)
(訂正するのも変じゃない?)
小声でやり取りしながらも、二人は桜井の真意を測りかねていた。冗談で言っているのか、それとも本気でそう考えているのか。今のところ、どちらとも判断がつかない。
「アンタの腹違いの姉ちゃん。いや、妹か? どっちにしろ、聖川リョウってのは父親とは真逆で、玄人好みするええ将棋指しやった。プロを目指す奨励会員ってのは、ああいう目をして、ああいう将棋を指さなアカン。一局一局に、負けたら死ぬ覚悟を持つ将棋や」
桜井の声から、さっきまでの軽薄な調子が消えていた。
莉央は黙って彼を見つめた。
父親とは真逆。玄人好みする将棋。負けたら死ぬ覚悟。
それは、かつての自分に向けられた言葉だった。今の自分ではなく、あの頃の自分に。
「あの……」
莉央は、わずかにためらってから口を開いた。
「聖川龍王は、私です」
「な、な、なんやて? 将棋から足洗ったんか。あの頃とは棋風も雰囲気も全く別人みたいやったから、気付かんかったわ」
桜井はそう言って、改めて莉央の顔を眺めた。
桜井にとって将棋とは、勝負の世界に身を置く者が指すものだった。素人の将棋は、同じ盤と駒を使っていても、自分たちの将棋とは別物だという意識がある。昨夜の対局で感じた違和感も、彼女がかつて聖川龍王として指していた将棋とは結びつかなかったのだろう。
もっとも、勝負の世界から降りた莉央を侮蔑する様子も、才能を惜しむ様子もなかった。
それよりも、赤ん坊の頃から知っている兄弟子の娘が、こうして元気な姿を見せてくれたことが嬉しいらしい。先ほどまでの軽口にも、久しぶりに再会した相手への親しみが滲んでいた。
「ご無沙汰してます。桜井先生」
莉央は改めて頭を下げた。
「九年ぶりやな。元気そうでなによりや」
九年ぶり。その言葉を聞いて、莉央は胸の内で少しだけ首を傾げた。
桜井と最後に会ったのは、奨励会に入ってからのことだった。その頃、彼と顔を合わせていたのは、厳密にはもう一人の自分――リョウの方だ。莉央自身の感覚では、それよりも前、父に連れられて桜井の家に遊びに行っていた頃から数えれば、十二年ほどの歳月が流れている。
当時の父は、まだ今ほど酒に溺れてはいなかった。広司に連れられて桜井家を訪ねることは、決して珍しくなかった。
桜井家には、まだ幼い三人の兄妹がいた。年長者だった莉央は、遊び相手になったり、面倒を見たりすることもあった。兄弟子同士の付き合いに連れられて訪れた家は、彼女にとっても馴染みのある場所だった。
それも、莉央が奨励会に入る前の話だ。
「何とか生き延びて、将棋から足洗って元気に暮らしてます」
莉央は、いつもの軽い調子でそう答えた。
「それがええ。うちのチビが三人おったやろ? そこに一人加わって、うちには子供が四人おるけど、誰も将棋やっとらんねん。まぁ、多少は指せるから、アマチュアの中ではマシな方やろうけどな。プロ目指して将棋指しとる奴は一人もおらん。長男なんか、医学部で大学生しちょるわ。ワシもまだまだ稼がなあかんしな。まぁ、本人がやりたい道に進むのが一番や」
桜井は、どこか満足そうに笑った。タイトルをいくつも獲得し、長年にわたって将棋界の第一線で戦ってきた男だが、子供たちにまで自分と同じ道を歩ませようとは思っていないらしい。
莉央は、そんな桜井の顔を眺めた。父の広司とは違う。将棋の世界で生きることと、子供が自分の人生を生きることを、きちんと分けて考えている。
「顔付きが元に戻ったな。奨励会におった頃は、だいぶ無理しとったんやろ?」
桜井の言葉に、莉央は一瞬だけ返答に迷った。
奨励会にいた頃の自分。桜井が覚えているのは、将棋にすべてを懸けていたリョウの姿だ。あの頃の彼女がどんな顔をしていたのか、莉央自身にも、もうはっきりとは分からない。
「ええ、まぁ。でも、事故の後遺症で三年くらい記憶が曖昧になってて」
リョウのことを正直に説明すれば、話がややこしくなる。莉央は、事故の後遺症による記憶障害ということにして話を濁した。
「そら大変やったな。せやけど、そういうことやったら、昨日指したオヤジ譲りのヘボ将棋も納得やわ」
桜井は豪快に笑った。
ヘボ将棋と言われたのに、不思議と腹は立たなかった。
もちろん、桜井の実績や棋力が、その言葉に説得力を持たせているのはあるだろう。並の棋士に言われたなら、反発していたかもしれない。それでも、理由はそれだけではなかった。
桜井には、相手を見下して傷つけようとするような嫌らしさがない。将棋の出来が悪ければ容赦なく酷評するが、それは盤上の勝負に対する評価であって、指した人間そのものを否定しているわけではないのだ。
少なくとも、今の莉央にはそう感じられた。
「まぁ、積もる話はひとまず置いといて、本題に移ろうやないか。莉央ちゃんも指したやろ、HijirikawaKoji。あれは誰がどう見ても、広司さんそのものやろ?」
桜井はベッドの上で身じろぎし、吊られた右腕に目をやった。車にはねられた身としては、どうしても話をそこへ戻したくなるらしい。
「全く、否定できません。ここまでAIが高度に人間を再現できるのかと、びっくりしました」
「AI? 莉央ちゃんは、アレを亡霊やとは思うてへんっちゅうことか?」
「無理心中に失敗して、娘を探し回る哀れな男の霊……。そういう話としては面白いですけど、常識的に考えたらAIでしょう」
莉央は淡々と答えた。
将棋の指し手だけを見れば、あれが父の将棋であることは疑いようがない。だが、それは父本人が戻ってきたことを意味しない。棋譜を学習させれば、特定の棋士に似た手を指すAIは作れる。まして、父の棋譜を知り尽くした人間が、その癖まで再現するように調整したのなら。
ただ、莉央には一つだけ、どうしても拭えない懸念があった。
もし、本当に幽霊だったとしたら。
無理心中に失敗し、娘たちに返り討ちに遭った聖川広司は、自分を殺したリョウと、もう一人の娘を呪い殺すために戻ってきたのだろうか。
馬鹿げた想像だ。幽霊などいるはずがない。そう考える一方で、完全には切り捨てられない自分がいることも、莉央は自覚していた。
「本当に怖いのは、幽霊じゃなくて人間ですよ」
口にした言葉は、いつもどおりの冷静なものだった。
けれど、莉央が本当に恐れているのは、父の亡霊などではない。
父の将棋を再現するAIを作り、世間を騒がせ、そして目の前の桜井孔明を車ではねた人間。その正体こそが、今の莉央にとって最大の脅威だった。
「せやな。幽霊よりも、生きとる人間の方がよっぽど厄介や」
桜井はそう言ってから、ふと思い出したように眉を上げた。
「せやけど、車には気ぃつけや。特にフリバーの車にはな」
「……フリバー?」
聞き慣れない名前に、莉央は首を傾げた。
フリバーは、電気自動車を主力とする新興自動車メーカーだった。先進的なデザインと、運転支援システムをはじめとする高度な電子制御技術を売りにしており、創業者自身が広告塔となって技術革新を声高に語ることでも知られている。車内の大型ディスプレイや、ソフトウェアの更新によって機能を拡張していく設計思想も、従来の自動車メーカーとは一線を画していた。
その一方で、運転支援機能への過信や、システムの安全性をめぐる議論が絶えないメーカーでもある。先進性を称賛する声がある一方、運転者の責任と機械の判断の境界が曖昧になることを危惧する声もあった。
「ワシを跳ねた車や。アメリカのメーカーやからまだ日本にはそんなに出回って無いはずや」
「轢き逃げ犯は捕まったんですか?」
莉央が尋ねると、桜井は肩をすくめた。右腕も右脚も固定され、自由に動かせる範囲は限られている。それでも、口調だけはいつもどおり飄々としていた。
「捕まらん。捕まったら轢き逃げ犯やのうなるやろ。そいつが捕まってくれたら、聖川広司の亡霊の正体も分かるんやろうけどなぁ」
冗談めかした言い方だったが、桜井は本気でそう考えているらしい。
自分を車ではねた犯人は、聖川広司の霊や呪いによる仕業に見せかけ、姿を隠そうとしている。桜井の中では、そんな筋書きができあがっているようだった。
「事故は事故で、幽霊とは別の話だ考えることはできないですか?」
蓮が横から口を挟んだ。
聖川広司の将棋を再現するAIが現れ、ネット上で騒ぎを起こす。そこまでは、悪質な悪ふざけや、誰かの執念が生んだ騒動として説明できなくもない。
しかし、実際に人を車ではねるとなれば話は別だ。冗談や悪戯で済ませられる範囲を、はるかに超えている。
「そら、そうかもしれん。たまたまワシが車にはねられただけ、っちゅう話かもしれへん。そうやったらハッピーや。ワシも余計なこと考えんで済むしな」
桜井はあっさりとうなずいた。自分の推理に絶対の自信があるわけではないらしい。
だが、すぐに表情を引き締める。
「せやけど、広司さんには熱狂的なファンもおるやろ。もし、その中の誰かが、広司さんの無理心中を完成させようとしとったらどうする?」
莉央は黙って桜井を見つめた。
「Tokinchanが聖川龍王やと気づいとったら? 莉央ちゃんのことを探し出して、今度こそ広司さんの望みをかなえようとするかもしれへん」
桜井の言葉に、病室の空気がわずかに重くなった。
父の将棋を再現するAI。そのアカウントが投稿した、龍王を探す言葉。そして、桜井を車ではねた正体不明の人物。
それらがすべて同じ人間の仕業だという証拠はない。だが、無関係だと断言できる材料もなかった。
「幸い、Tokinchanが莉央ちゃんやと気づいとるんは、今んとこワシだけや。……いや、正確には、気づいたっちゅうより、カマかけたら反応があった、っちゅうだけやけどな」
桜井は自嘲気味に笑った。
「ワシかて、最初から確信があったわけやない。将棋を見て、ひょっとしたらと思うただけや。そしたら、ほんまに来よった」
莉央は昨夜のオンライン対局を思い返した。あの挑発的なメッセージが、単なる悪ふざけではなかったことは分かっている。桜井は、相手が誰なのかを確かめるために、わざと揺さぶりをかけたのだ。
「かなり高級なフリバーの車を所持出来て、あのAIを作れるくらいのプログラミング技術があって、しかも将棋に詳しい人物……」
蓮が指を折るように、条件を整理した。
フリバーの車に乗っていること自体は、犯人を絞り込む決定的な手掛かりにはならない。だが、AIの開発能力と将棋の知識まで併せ持つ人間となれば、話は変わってくる。
「そんなん、都内に何人もおらんやろ?」
桜井はそう言って、莉央と蓮の顔を交互に見た。
少なくとも、無数の人間の中から手当たり次第に探すような話ではない。そう考えたくなる程度には、条件が限られている。
しかし、莉央はすぐには答えなかった。
プログラミングができる人間も、将棋に詳しい人間も、それぞれなら珍しくない。問題は、その二つを結びつけることができる人間が、どれだけいるか。そして何より、聖川広司にそこまで執着する理由を持つ人間が、本当に存在するのか。
やはり、亡霊の仕業なのでは無いだろうか?




