第九話 悪霊襲来
病院を出た二人は、大学へ戻る道を並んで進んでいた。キャンパスまでは一駅分の距離があるものの、道は平坦で、車椅子でも移動に支障はない。
蓮はいつもどおりの足取りだった。
「莉央、車道から離れろ」
そう言って、蓮は歩道の車道側に立った。車道と莉央の間に、自分の身体を滑り込ませるような位置取りだ。
「気にしすぎてない? 黒幕が人間だったとしたら、まだ私には気づいてないと思うけど?」
「いや、案外気づかれてるかもしれない。大体、Tokinchanって名前からして匂わせすぎてる」
「そうかな?」
「桜井さんにはバレてた」
「仮にアカウントがバレてたとしても、それが現実世界の私にたどり着くまでは、まだまだ距離があるよ」
「用心に越したことはない」
蓮は前を向いたまま答えた。いつもなら、莉央がこういう話をすれば、理屈を並べて心配しすぎだと笑うところだ。ところが今日は、妙に譲らない。
「らしくないね」
「嫌な予感がするんだよ。野生の勘」
「なにそれ」
莉央が小さく笑った。
ちょうど横断歩道に差しかかったところだった。歩行者用信号は青。二人はそのまま横断を始めた。
そのとき、蓮の視線が横合いへ跳ねた。
エンジン音。
いや、違う。近すぎる。
交差点へ進入してくる車が、赤信号を無視していた。減速する気配はない。ブレーキランプも点灯しないまま、車体が横断歩道へ突っ込んでくる。
「莉央!」
蓮が叫び、莉央の手をつかんだ。
反射的に引き寄せる。莉央の身体が車椅子から前方へ傾いた。蓮はそのまま彼女を引いて走り出す。普段なら車椅子を押している莉央が、今は蓮に引っ張られるまま、横断歩道の上を移動していた。
だが、車は止まらなかった。
運転席の向こうで、ハンドルが切られる。車体が進路を変え、逃げようとする二人を追うように向きを変えた。
「……っ!」
莉央の目が見開かれる。
偶然ではない。
そう理解するより先に、車が迫っていた。
間に合わない。
蓮は迷わなかった。莉央の身体を抱え上げる。彼女を車椅子から引き離すように持ち上げると、横断歩道脇の植え込みへ向かって身を投げ出した。
視界が反転する。
植え込みの枝葉が顔を打ち、土が跳ねた。蓮は莉央を抱え込んだまま、地面へ転がる。
直後、耳をつんざくような衝突音が響いた。
車椅子が弾き飛ばされた。
黒いカーボンフレームが車体に巻き込まれ、乾いた破砕音とともに砕け散る。車輪が宙を舞い、部品が路面へ散乱した。あれほど頑丈に見えた車椅子が、一瞬で原形を失っていた。
車はそのまま植え込みへ突っ込んだ。枝をへし折り、土をえぐり、勢いを殺しきれないまま突き抜ける。最後に鈍い衝撃音がして、車体が歩道脇の擁壁へ突き刺さるようにして止まった。
一瞬、音が消えた。
蓮は莉央を抱えたまま、荒い息を吐いた。腕の中の身体に力が入っていることを確かめてから、ゆっくりと上体を起こす。
「莉央、無事か?」
「多分……」
声は出た。意識もはっきりしている。
けれど、莉央はすぐには安心できなかった。
自分の身体は、麻痺した部分の感覚が弱い。場所によっては怪我をしていても、痛みで気づけない可能性があった。今のところ、動かせる範囲に異常はなさそうだが、無事だと断言するには早い。
「無理に動くなよ」
蓮はそう答えながら、莉央を抱えて立ち上がった。膝や腕についた土を払う余裕もない。彼の視線は、擁壁に突き刺さった車へと向いていた。
フロント部分は大きく潰れ、ボンネットからは白い煙が立ち上っている。エアバッグが展開したのか、運転席の内部は白い布で覆われていた。
蓮は莉央をかばうように立ち、慎重に車内を覗き込んだ。
運転席には老人がいた。
頭から血を流し、シートにぐったりともたれかかっている。意識はないようだった。
蓮は一瞬、老人の姿を見つめた。それから、莉央へ視線を戻す。
「おい。亡霊の仕業かもしれねぇぞ、マジで」
莉央が通報してから、ほどなくして警察と救急車が到着した。
救急隊員は、まず運転席で意識を失っている老人の救助に取りかかった。車体の前部は大きく潰れ、擁壁にめり込んでいる。変形した車体に阻まれ、救助作業は容易ではなかった。
その傍らには、莉央の車椅子だったものが散乱していた。カーボンフレームは引きちぎられ、車輪も原形をとどめていない。つい先ほどまで自分の身体を支えていたものが、見る影もなく壊れている。
蓮は、かろうじて原形をとどめていたハンドバッグを拾い上げて莉央に渡した。すぐに大学へ戻るつもりだったのが、不幸中の幸いだった。ノートパソコンの入ったバッグは研究室に置いてきている。
「スマホは?」
蓮が尋ねながら、車椅子の残骸から比較的無事なクッションマットを引き剥がした。植え込みの縁にそれを敷き、莉央をそっと座らせる。
「ポケットにあったから無事。ジャケット着てて良かった」
桜井に会いに行くというので、今日はきちんとした服装をしていた。厚手のテーラードジャケットが、転倒した際の擦り傷を多少なりとも防いでくれたらしい。
一方、警察官たちは現場を規制し、目撃者への聞き取りを始めていた。信号の状態、車両の進入方向、衝突地点、タイヤ痕、車体の損傷。事故現場のあちこちに目印が置かれ、写真撮影と記録が進められていく。
莉央も念のため、救急車で病院へ搬送されることになった。麻痺のある身体では、痛みがないからといって怪我をしていないとは限らない。本人は大丈夫だと主張したものの、救急隊員は念入りに状態を確認し、病院で検査を受けるよう勧めた。
蓮も一緒に行こうとした。
明らかに、正体不明の何者かに狙われている。そう考えれば、莉央を一人にするわけにはいかなかった。今度こそ彼女を守れたとはいえ、あと一瞬判断が遅れていたらどうなっていたか。考えるだけでもぞっとする。
しかし、警察官に呼び止められた。
事故を目撃し、莉央を救助した当事者として、詳しい事情を聞く必要があるという。蓮は不満を隠さなかったが、ここで警察の指示を無視しても何もいいことはない。
「なんかあったら怖いから、これだけ渡しとく」
蓮は財布の中から、白い円形の電子タグを取り出した。
財布をなくしたときに、位置情報を頼りに探せるようにと、GPS機能を備えたタグを取り付けていたのだ。莉央の家に泊まるたび、財布をそこらへんに放り出してしまう蓮を見かねて、莉央がプレゼントしたものだった。
「ありがとう。お守りにする」
莉央は電子タグを受け取ると、ぎゅっと握りしめた。
辛口を叩く余裕もなかった。殺されかけたのだ。
相手が誰なのか、何が目的なのか、何も分からない。さっきまで隣にいた蓮と離れることに、莉央自身も心細さを感じていた。
「先に行ってて。連絡するから」
蓮はそう言って、救急車へ乗り込む莉央を見送った。
扉が閉まり、サイレンが鳴り響く。救急車が走り去っていくのを、蓮は道路の端に立ったまま見つめていた。
やがて赤色灯が遠ざかり、交差点の向こうへ消えていく。
蓮は一度だけ深く息を吐くと、警察官の方へ向き直った。
それから、質問に答え始めた。
事故が起きたとき、二人はどこを歩いていたのか。信号は何色だったのか。車が近づいてくるのに、いつ気づいたのか。運転席の様子は見えたのか。車が二人の方へ進路を変えたように見えたのは、間違いないのか。
蓮は記憶をたどり、できる限り正確に答えた。興奮が冷めるにつれて、あの瞬間の光景が頭の中で何度も繰り返される。
赤信号を無視して突っ込んできた車。ブレーキを踏む様子もなく、二人を追うように切られたハンドル。
偶然の事故だと考えるには、あまりにも不自然だった。
だが、蓮はその印象を事実のように語ることはしなかった。自分が見たことと、そう感じたことは別だ。警察が必要としているのは、憶測ではなく証言だった。
現場での聞き取りが終わると、蓮は警察署で詳しい事情を聞かれることになった。事故の状況を改めて説明し、調書の内容を確認する。警察官が現場の記録と照合しながら質問を重ねるため、思っていた以上に時間がかかった。
スマートフォンを確認するたび、莉央から連絡が来ていないか気になった。
できることなら、今すぐ病院へ駆けつけたかった。怪我がないかも気になるし、何より、あんな目に遭った莉央を一人にしておきたくなかった。
それでも、今は自分の役目を果たすしかない。
事故が起きてから、すでに三時間以上が経過していた。
ようやく事情聴取が終わり、蓮が警察署を出られたのは、事故発生から四時間近くが経った頃だった。
外はすっかり夕方の気配を帯びていた。
蓮は解放されるなり、莉央にLINE通話をかけた。
呼び出し音が続く。
しかし、電話はつながらなかった。
診察を終える頃には、すっかり日が傾いていた。
幸い、目立った外傷もなく、検査でも特に異常は見つからなかった。身体の一部に感覚障害がある以上、痛みを感じないからといって怪我がないとは限らない。念のための検査も含め、思ったより時間がかかってしまった。
問題は、車椅子だった。
事故で愛用のカーボンフレームは見る影もなく壊れてしまったため、病院から貸し出された車椅子を使っている。だが、医療用の車椅子は重く、普段のものと比べると格段に漕ぎにくい。少し移動しただけで、腕に余計な負担がかかるのが分かった。
家に戻れば予備の車椅子がある。できれば、早く取りに帰りたかった。
それよりも、蓮と合流したい。
警察の事情聴取に付き合わされているはずだが、そろそろ連絡があってもいい頃だ。スマートフォンを確認しても、新しいメッセージは届いていなかった。
まだ警察署にいるのだろうか。
莉央は病院の玄関を出て、タクシー乗り場へ向かった。貸し出された車椅子をゆっくりと進め、乗り場の脇で空車が来るのを待つ。
そのとき、不意に男から声を掛けられた。
「高瀬莉央さんですね?」
知らない男だった。
整った顔立ちをしている。身なりにも乱れはなく、初対面の相手に向ける表情としては、むしろ穏やかといってよかった。
けれど、その顔の奥には、何かが潜んでいた。
深く澄んだ黒い瞳は、光を吸い込むようだった。微笑むと、その目尻がわずかに鋭く歪む。美しさの内側で、何かが静かに蠢いている。
視線を合わせた瞬間、優しさを装った表情の奥から、熱を帯びた狂気が覗いた。
――似ている。
莉央の脳裏に、九年前に死んだ父の顔が浮かんだ。
もちろん、顔立ちが似ているわけではない。父も、こんなふうに穏やかな笑みを浮かべることがあった。その笑顔の奥に、周囲の人間には理解できない何かを隠したまま。
目の前の男から感じるものは、それに似ていた。
「……どちら様ですか?」
警戒を悟られないよう、莉央は努めて平静に尋ねた。
「手荒なことはしたくない。黙ってついて来てください」
男はそれだけ言うと、莉央の車椅子のハンドルをつかんだ。
「ちょっと、何を――」
抗議する間もなく、車椅子が動き出す。
助けを求めようにも、周囲には人がいる。だが、男の態度には、騒ぎを起こすことを恐れている様子がなかった。むしろ、莉央が抵抗しないことを確信しているようにさえ見える。
逃げられるだろうか。
そう考えた瞬間、莉央は自分の足が思うように動かないことを思い出した。車椅子を奪われれば、走って逃げることもできない。
男は車椅子を押したまま、停めてあった車へと向かった。
抵抗する機会を探りながら、莉央は男の後を追うしかなかった。
車の助手席に乗せられ、連れてこられたのはマンションの一室だった。
移動中、車窓から見える景色は少しずつ変わっていった。乗っていた時間は長く感じられたが、都内を出るほど遠くまで来たわけではなさそうだった。都心から少し離れた、郊外のタワーマンション。周囲には似たような建物もあり、見覚えのない場所だった。
途中、蓮から着信があった。
スマートフォンの画面に表示された名前を見て、莉央は思わず手を伸ばしかけた。
「出るな」
男の声が、すぐ隣から飛んできた。
莉央の指が止まる。
男はスマートフォンを取り上げようとはしなかった。それだけでも、まだましなのかもしれない。だが、電話に出ることも、蓮に助けを求めるメッセージを送ることも許されなかった。
着信が切れるまで、莉央は画面を見つめるしかなかった。
蓮は心配しているだろうか。
警察署を出たあと、連絡がつかない自分を不審に思っているかもしれない。けれど、今どこにいるのかも、これから何をされるのかも分からない。助けを求める手段は、目の前の男によって塞がれていた。
マンションのエレベーターは、二十三階で止まった。
男の後を追って廊下を進みながら、莉央は部屋番号を確かめた。
二三〇五。
その数字を頭の中で繰り返す。
蓮に知らせたい。
それさえ伝えられれば、何かが変わるかもしれない。だが、男の目がある以上、露骨な動きはできなかった。
玄関の前で、男が鍵を取り出した。
鍵穴に差し込もうとする。その一瞬、男の視線が手元に落ちた。
今しかない。
莉央はスマートフォンを操作し、蓮とのトーク画面を開いた。余計な文章を打つ時間はない。部屋番号だけを入力し、送信ボタンを押す。
2305
送信済みの表示を確認する間もなく、男が振り返った。
「何をしている?」
「別に。時間を確認しただけです」
莉央はスマートフォンを握りしめたまま、できるだけ自然に答えた。
男はしばらく彼女を見つめていたが、やがて玄関の鍵を開けた。
「入りなさい」
拒否する余地はなかった。
部屋の中は静かだった。玄関から続く廊下を抜け、奥のリビングへと進む。窓の外には、夕暮れに染まる街並みが広がっていた。高層階らしい眺めだったが、今の莉央には、それを楽しむ余裕などなかった。
男は莉央の車椅子を押し、リビングの奥へと進んだ。
広々とした部屋には、大きな窓があり、夕暮れの街並みを一望できた。内装は落ち着いた色調で統一され、余計なものはほとんど置かれていない。よく手入れされた家具や、整然と並んだ調度品からは、住人の几帳面な性格がうかがえた。
男は、部屋の中央に置かれたテーブルの前で莉央の乗る車椅子を止めた。




