第十話 家族ごっこ
磨き上げられたテーブルの上には、三人分の食事が並んでいた。彩り豊かな前菜に、丁寧に焼き上げられた肉料理、付け合わせの野菜、スープにパン。どれも手の込んだ洋食で、食器の配置まで几帳面に整えられている。まるで、これから客人を迎えて食事会を始めるかのようだった。
しかし、莉央には歓迎されているという印象はなかった。
テーブルの向こう側には、大型のモニターが置かれていた。画面は暗く、何が映し出されるのかは分からない。
モニターの電源が、唐突に入った。
暗かった画面に人影が浮かび、やがて一人の男の顔が鮮明になる。
莉央は息を呑んだ。
見覚えのある顔だった。
聖川広司。
九年前に死んだ、父親の顔だった。
年齢は四十歳に届くかどうかという頃だろう。頬の輪郭も、鼻筋も、薄く笑みを浮かべたときの目元も、記憶の中の父そのものだった。おそらく画像生成AIか、何かそれに類する技術で作り出した映像なのだろう。生前に撮影された動画をそのまま流しているわけではない。映像の中の父は、カメラの向こうにいる誰かに語りかけるように、こちらを見つめていた。
虫酸が走った。
『おかえり。龍王』
モニターの中の父が喋った。
声まで再現されていた。合成音声特有のわずかな不自然さはあるものの、注意して聞かなければ気づかないほど精巧だった。何度もテレビで耳にした、あの声。記憶の底にこびりついていた声。
莉央は、目の前の食事にも、向かいに立つ男にも、手をつける気になれなかった。
この男は、一体何がしたいのだろう。
父親の狂信者なのか。それとも、熱狂的なファンの一人なのか。父の将棋を再現するAIを作り、ネット上でその名を騙っていた何者かと、目の前の男はつながっているのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
『そうだ、紹介しよう。龍王のお兄ちゃんの龍馬だ』
モニターの中の聖川広司が、さも楽しそうに言った。
莉央は、思わず男の顔を見た。
龍馬。
将棋の駒に、龍馬という名の駒がある。正式には「竜馬」と書き、角行が成った姿だ。斜めに自在に動く角の動きに、縦横一マスずつの移動が加わる。盤上を遠くまで見通す龍王とは異なり、斜めの利きを軸に、独特の軌道で盤上を駆ける駒。強力な駒だ。
「お兄ちゃん?」
莉央は、思わず聞き返した。
「兄貴でも兄さんでも、リュウ兄でも好きに呼んでくれ」
男は笑顔を浮かべて言った。
その表情だけを見れば、気さくで親しみやすい兄を演じているようにも見える。だが、目の奥には、あの熱を帯びた狂気が潜んでいた。
2人の顔が似ている。聖川広司と兄の龍馬と紹介された男。どうやら本物の兄弟らしかった。
『頂きますをしよう。久しぶりの一家団欒だ』
モニターの中の父も、笑顔を作った。
莉央は、その映像を見つめた。
何をサンプリングして作った映像なのだろうか。テレビ番組にはよく出演していた父だ。ニュースや対局番組、バラエティー番組にまで顔を出していた時期がある。素材に困ることはなかったはずだ。
それでも、画面の中の父は、莉央の記憶に残っている姿そのものだった。
そのことが、たまらなく不快だった。
「い、いただきます」
莉央は、かろうじて声を出した。
「残さず食べなさい」
龍馬と名乗った男が促すと、まず自分の皿に手を伸ばした。パンをちぎり、ビーフシチューに浸して口に運ぶ。何事もない夕食のように、ゆっくりと咀嚼している。
莉央は男の様子をうかがった。
私は一体、何に付き合わされているのだろう。
ここまで連れてこられた以上、殺される可能性も十分にある。けれど、今すぐ命を奪うつもりなら、わざわざ食事を用意する必要もない。少なくとも、男は何かを始める前に、莉央と過ごす時間を設けている。
その時間がどれほど残されているのかは分からない。
蓮に送ったメッセージが届いていれば、きっと助けに来てくれる。部屋番号だけで状況を察してくれるかは分からないが、何かがおかしいと気づいてくれるはずだ。
それまで、時間を稼げばいい。
今は、この男に従うしかなかった。
莉央も男に倣い、パンをちぎってシチューにつけた。
口に運ぶ。丁寧に煮込まれた肉は柔らかく、ソースにも十分に手間がかかっているのだろう。普通に食べれば、きっと美味しい料理だった。
しかし、緊張で喉が締めつけられ、うまく飲み込めなかった。
莉央は手元のコップを取り、水を飲んだ。ようやくパンを胃に流し込む。
「美味しいか?」
男が尋ねた。
莉央は一瞬だけ返答に迷い、それから微笑んでみせた。
「美味しいです。お兄ちゃん」
家族ごっこに乗ってみることにした。
相手が何者なのかも、何を考えているのかも、まるで分からない。ならば、こちらから無闇に刺激する必要はない。男が望むとおりに振る舞いながら、少しでも情報を引き出すべきだ。
男は満足そうに笑った。
『沢山、食べなさい。龍王、龍馬』
モニターの中の父が、二人に語りかけた。
莉央は、目の前の男と画面の中の父を交互に見た。
「良かったね、父さん。久しぶりに龍王が帰ってきてくれて」
龍馬は、モニターの中の父親に向かって、穏やかな声で語りかけた。
『そうだな。龍王。九年ぶりか』
聖川広司の顔をしたAIが応じる。
莉央は、画面をじっと見つめた。
一体、このAIは何をサンプリングして、声や表情だけでなく、性格まで作り上げたのだろうか。
見た目も声も、莉央にとっては父親そのものだった。だが、言葉の端々には、どこか無機質なものが感じられる。人間らしい感情の動きがあるように見えても、その反応はあらかじめ用意されたものにすぎないのかもしれない。
もっとも、目の前の男が何を望んでいるのか分からない以上、迂闊なことは言えなかった。龍馬の作り上げた世界観を否定すれば、何をされるか分からない。
試しに、モニターの父親を「パパ」と呼んでみたらどうなるだろう。逆鱗に触れるだろうか。それとも、龍馬に倣って「父さん」と呼ぶべきなのか。
そんなことを考えていると、ふと、一つ試してみたいことが浮かんだ。
「先週、ネット将棋で対局したの、覚えてる?」
莉央は、モニターに向かって尋ねた。
『もちろんだ。父さんは悲しかったぞ。あれだけ手塩にかけて育てた娘が、別人のように弱くなっていたからな』
聖川広司の皮を被ったAIが、さも残念そうに答えた。
おっと。偽物は随分とお優しいもんだ。
莉央は心の中で毒づいた。
本物の聖川広司なら、不甲斐ない将棋を指した娘に対して、発狂したように怒り出していたはずだ。ビンタの一発くらい飛んできてもおかしくない。少なくとも、こんなふうに悲しげな声で語りかけてくることはなかっただろう。
その違いが、このAIの正体を物語っているように思えた。
やはり、これは龍馬が理想を投影して作り上げた聖川広司なのだ。
娘を思いやり、失われた記憶を嘆き、優しく声をかける父親。龍馬にとって、父親とはそういう存在であってほしかったのだろう。
それにしても、目の前の二人はよく似ていた。
龍馬の顔立ちは、どことなく父親を思わせる。血縁関係があると言われれば、疑う余地もないほどだった。
本当に兄なのかもしれない。
遊び人だった父のことだ。腹違いの子供が何人かいても不思議ではない。母親以外の女性との間に子供がいたとしても、莉央が知らなかっただけという可能性は十分にあった。
「事故で頭を打った後遺症で、奨励会時代の記憶が丸ごとなくなっちゃったから」
莉央は、言い訳めいた口調で説明した。
父親なら、こんな言い訳を許さなかっただろう。
自分の失敗は棚に上げ、他人の言い訳には容赦しない。それが聖川広司という男だった。娘が弱音を吐けば、怒鳴りつけ、時には手を上げた。
莉央は、画面の向こうから怒声が飛んでくるのを覚悟していた。
『そうだったのか。それは可哀想に。少しずつ取り戻していけばいいからな』
返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。
莉央は、思わず口をつぐんだ。
可哀想に。
少しずつ取り戻していけばいい。
本物の父親なら、決して口にしなかったであろう言葉だった。
目の前のモニターに映っているのは、亡霊でも何でもない。ただの人工物だ。生前の映像や音声を学習させ、もっともらしい受け答えをするように作られたプログラムにすぎない。
それなのに。
「多分、無理よ」
気づけば、莉央はそう口にしていた。
「事故の後遺症は、脊髄が駄目になって足が動かなくなっただけじゃない。頭の方も随分ダメージがあったから、もう元通りにはなれないわ」
莉央は自分でも驚く様な弱音を吐いた。
本物の父親なら、決して許さなかった弱音を。
あの男の前で、こんなことを言えばどうなっただろう。怒鳴り声が響き、腹を蹴られ、床に引きずり倒されていたかもしれない。
莉央は、反射的に身構えた。
だが、モニターの中の父親は怒らなかった。
『そうか。事故でそんなことになっていたなんて。すまなかったな。許してくれ』
莉央は、息を止めた。
父親が謝った。
そんなことがあるはずがない。これはAIだ。莉央の話を受けて、学習したデータや設定に沿った言葉を返しているだけだ。父親本人の意思など、どこにも存在しない。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥から何かが込み上げてきた。
ずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
謝ってほしかったのだ。
自分を傷つけたことも、追い詰めたことも、最後には命まで奪おうとしたことも。父親が自分のしたことを認め、謝罪してくれることを、心のどこかで望んでいたのだろうか。
莉央は、自分の感情をうまく整理できなかった。
父を許せるはずがない。許してはいけないとさえ思う。父親が自分にしたことは、謝罪の一言で帳消しにできるようなものではない。
それでも、父を百パーセント恨んでいると言い切るのも、どこか違う気がした。
楽しかった記憶もある。優しかった頃の父も知っている。幼い自分に将棋を教えてくれた手つきも、褒めてくれたときの声も、確かに覚えている。
だからこそ、憎しみだけでは割り切れなかった。
もしかすると、自分は父親を許したかったのかもしれない。
そんな思いが浮かんだこと自体に、莉央は戸惑った。
「なあ、龍王。父さんを許してやってくれ」
龍馬が、静かに口を開いた。
莉央は顔を上げた。
「そうすれば、父さんもお前を許してくれる。あのとき、お前がハンドルを左に切って、父さんだけを死なせたことも」
全身から血の気が引いた。
どうして、それを知っている?
事故の詳細は、ほとんど知らない。自分が死んだことになっていたのは知っている。だからこそ、リハビリに専念していた時期も、マスコミに追い回されずに済んだ。
事故について、世間がどんな報道をしたのかは知らなかった。記事も見ていないし、ニュースも避けていた。自分の死がどう扱われたかなど、確かめる気にもなれなかった。
警察の捜査記録を調べたのだろうか。事故現場に残されたタイヤ痕などから、ハンドルを切ったことが分かったのか。それとも、当時の報道に、そこまで詳しい情報が出ていたのだろうか。
考えがまとまらない。
蓮との会話を盗聴されていた可能性も頭をよぎった。もしそうなら、リョウのことも知られているのだろうか。
だが、龍馬は今のところ、その話には触れていない。
どこまで知っているのか。何を知っていて、何を知らないのか。
莉央は、目の前の男を改めて見た。
龍馬は、相変わらず穏やかな表情を浮かべていた。
『龍王。父さんは悲しかった。父さんだけを死なせるなんて。父さんを一人にしないでくれ』
モニターの中の聖川広司が、寂しそうに訴えた。
莉央は、唇を動かせなかった。
そのとき、龍馬が父親の映像に向かって、優しく言った。
「一人じゃないよ、父さん。僕がいる」
まるで、幼い子供が寂しがる父親を慰めるような口調だった。
莉央は二人を見つめた。
画面の中の父親と、その父親を慈しむように語りかける男。
そこにあるのは、莉央の知らない家族の姿だった。
そして、その家族の物語の中では、自分こそが父親を裏切った娘として扱われているのだった。
「積もる話もあるが、まずは食べよう。ご飯が冷めるぞ」
龍馬はそう言って、再びナイフとフォークを手に取った。まるで、本当に久しぶりに妹と食卓を囲んでいるだけのような、気負いのない仕草だった。
少なくとも、食事が終わるまでは殺されずに済みそうだ。
そんな考えが頭をよぎる。もちろん、食後に何が待っているのかは分からない。だが、今すぐ命を奪うつもりなら、こんな手の込んだ食事を用意する必要はないだろう。
時間を稼ぐつもりなどなくても、手は自然と遅くなった。
緊張のせいで食欲などほとんどない。目の前の料理を口に運ぶたび、向かいに座る龍馬の様子が気になった。モニターの中の父親も、相変わらずこちらを見ている。
『美味しいか? 龍王』
「はい、美味しいです」
莉央は笑顔を作って答えた。
嘘ではなかった。料理そのものは、文句のつけようがないほど美味しい。肉は柔らかく煮込まれ、ソースにも深い味わいがある。盛り付けも美しく、店で出されてもおかしくない出来だった。
蓮と一緒に囲む食卓だったら、きっと大喜びで「美味しい!」と声を上げていただろう。彼なら、料理の感想を言い合いながら、あっという間に平らげてしまうに違いない。
そんな何気ない日常が、ひどく遠いものに思えた。
「何を食べるかより、誰と食べるかだね。父さん」
龍馬は、モニターの父親に向かって言った。
その口元には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。食事の味を楽しんでいるというより、この状況そのものに満足しているように見える。
『そうだ、龍王。金髪はやめなさい。黒髪の方が似合っているぞ』
莉央は、思わず手を止めた。
……なんだ、それは。
今、言うことなのか。
父親の姿をしたAIは、何の違和感もなく、当たり前のように髪の色に口を出してきた。まるで、娘の身なりを気にかける父親のように。
だが、莉央にとっては、笑って聞き流せる話ではなかった。
「待ってよ、父さん。龍王だってもう大人だ。髪型くらいは自由にさせてあげなよ」
龍馬が、父親をたしなめるように言った。
その口調は、どこまでも穏やかだった。妹の自由を尊重する、物分かりのいい兄。父親の古い価値観をやんわりと否定しながら、妹の味方になってやる兄。
そういう役回りを演じたいのだろうか。
莉央は、龍馬の顔を見つめた。
何なんだ、これは。
家族ごっこ?
自分を誘拐し、逃げられない状況に置いた男が、父親の幻影を相手に理想の家族を演じている。しかも、その家族の一員として、自分まで当然のように組み込まれている。
父親の言葉に傷ついたり、兄の気遣いに感謝したりすることを、彼らは期待しているのだろうか。
それとも、莉央がどう反応しようと関係ないのか。
龍馬の考えていることが、まるで分からなかった。
我慢の限界が、少しずつ近づいていた。
この茶番に付き合い続けること自体が、苦痛だった。画面の中で微笑む父親も、満足そうに自分を見つめる龍馬も、何もかもが気持ち悪い。
それでも、今は耐えるしかない。
時間を稼ぐのだ。
感情を表に出さず、冷静に振る舞う。自分自身までおかしくなってしまいそうな感覚を、必死に押し殺しながら。
莉央は、ゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう。お兄ちゃん」
そう言って、再びパンに手を伸ばした。




