第十一話 狂気
電話をかけても、莉央は出なかった。
呼び出し音が虚しく繰り返される。蓮は舌打ちをこらえ、いったん通話を切った。もう一度かけ直す。やはり応答はない。
警察での事情聴取を終えたときには、すでに日が暮れていた。莉央が病院で手当てを受けていることは聞いていたし、命に別状はないとも確認していた。だからこそ、連絡がつかないのが気になった。
蓮はスマートフォンを操作し、莉央に持たせた電子タグの位置情報を確認した。
表示された位置は、病院から離れた場所へ移動し続けていた。
「……は?」
位置情報の更新を待ち、もう一度確認する。間違いではない。しかも、徒歩や車椅子で移動している速度ではなかった。車で走っているとしか思えない速さで、莉央の位置が西へと動いている。
まさか、攫われたのか。
考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
莉央は自分で車椅子を動かすことはできても、自由に歩けるわけではない。病院から一人でどこかへ出かけたとしても、こんな速度で移動するはずがなかった。
蓮は周囲を見回した。神田の街は、いつもと変わらず人通りが多い。誰も、ここから遠ざかっていく莉央のことなど気にしていない。
「くそっ……!」
すぐに追いかけたい。だが、今の蓮には移動手段がなかった。
そのとき、ふと思い出した。
桜井との別れ際、何かあったら連絡しろと言って、電話番号を書いた名刺を渡されていたのだ。あのときは、まさかこんな形で頼ることになるとは思ってもいなかった。
蓮は名刺を取り出し、書かれた番号に電話をかけた。
数回の呼び出し音のあと、聞き覚えのある声がした。
「もしもし?」
「桜井さん。結城です」
「結城? あー、霊媒師か。どうしたんや?」
「さらわれました。莉央が攫われました」
「なんやて? 君がついてて攫われたんか?」
桜井の声から、軽い調子が消えた。
「僕らも車にやられたんです。暴走車にぶつけられて。それで、僕が警察の対応をしている間に、莉央が病院で手当てを受けてたんですが……その間にさらわれました」
「待て待て。車にぶつけられたんか? 君ら、怪我は大丈夫なんか?」
「僕は大丈夫です。莉央も多分。でも、今は連絡がつきません」
「……どこに攫われたか、位置はわかるか?」
「電子タグの位置情報を見ています。今のところ、車くらいのスピードで西に向かってます」
「なんでわかるんや?」
「GPSです」
「お前、見かけによらず束縛彼氏だったんかいな? そんなん彼女に持たせたらアカンって言いたいところやけど……今回ばかりは、でかした!」
何かを勘違いされたらしい。
莉央の居場所をGPSで管理する束縛彼氏。そんな説明をされている気がしたが、今は弁明している場合ではなかった。
「今、莉央ちゃんはどこら辺におる?」
「今は荻窪あたりです。まだ動いてます」
「お前はどこにいるんや?」
「神田です」
「神田か……。何で追いかける気や?」
「足がなくて困ってます」
「バイクは運転できるか?」
「できます」
「せやったら、ワシのバイク貸してやる。まずは新宿までタクシーで行ってくれ」
桜井は間を置かず、次々と指示を出した。
「この電話番号でLINE登録して、連絡つくようにしといてくれ。そっちにワシの自宅の住所を送るから、そこに向かってや。息子にバイクを準備させとくわ」
「ありがとうございます!」
蓮はすぐにスマートフォンを操作しながら、深く頭を下げた。電話越しに頭を下げても意味はない。それでも、礼を言わずにはいられなかった。
「あとは警察やな」
桜井が低い声で続けた。
「今の話をそのまま伝えても、すぐには動いてもらえんやろ?」
「……そうですね」
蓮は唇を噛んだ。すでに一度、警察の対応を経験している。事件性があると判断されるまでに時間がかかる可能性は十分にあった。その間にも、莉央はどこかへ連れていかれている。
「ワシが知り合いのキャリア組に連絡しとくわ」
「キャリア組って……警察の?」
「せや。ワシを轢き逃げした犯人を見つけたぞ、ってな」
桜井は、まるで明日の天気でも話すような調子で言った。
以前、自分を襲った車と今回の事件がつながっていると考えているのだろう。少なくとも、桜井はこの件を単なる誘拐として片づけるつもりはないらしい。
「結城。焦るのはわかるけど、無茶だけはすんなよ。相手が何者かも、何を考えとるかもわからんのやからな」
「……はい」
「莉央ちゃんを連れ戻す。それを一番に考えよ。ええな?」
「わかりました」
通話が終わると、蓮はすぐにタクシーを呼んだ。
スマートフォンの画面には、莉央の位置情報が表示されている。点は今も西へと動き続けていた。
蓮は画面を睨みつけた。
「待ってろよ、莉央」
絶対に助ける。
食事が終わると、龍馬は食器を片づけ、しばらくしてから将棋盤と駒を持って戻ってきた。
食卓の上に盤を置き、駒袋から駒を取り出す。手慣れた様子で駒を並べていくが、その手つきに特別な熟練を感じるわけではなかった。
「お兄ちゃんと一局指そう」
龍馬は穏やかな笑顔を浮かべた。
「……将棋を?」
「そう。せっかく家族が揃ったんだからさ」
莉央は黙って盤を見つめた。
「俺たちは家族なんだ。そんなに怯えないでよ」
さっきまで殺すと口にしていた男が、何事もなかったかのように笑っている。莉央には、その切り替わりが何よりも不気味だった。
「でも、本気で指してよ」
龍馬は駒を並べ終えると、莉央の目を見た。
「もし俺に負けるようなことがあれば、殺す」
声色は変わらなかった。
莉央は返事をせず、盤の前に座り直した。
断るという選択肢はない。そもそも、ここで龍馬の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。勝つこと自体は問題にならない。問題は、勝ったあとに何が起こるかだ。
先手は莉央、後手は龍馬。
対局が始まると、龍馬は迷いなく飛車を振った。中飛車。しかも、じっくりと陣形を整えるより先に仕掛けを狙う、急戦志向の指し方だった。
父親の棋譜を真似ているのだろう。
莉央には、そう見えた。
聖川広司の将棋は、華やかで、奔放で、時に常識を外れた手を指す。序盤から相手を揺さぶり、複雑な局面へ引きずり込んでいく。龍馬の中飛車にも、その雰囲気だけはあった。
ただし、形を真似ることと、その将棋を指せることは別だ。
莉央は居飛車を選び、矢倉の形を目指した。基本に忠実に駒組みを進め、龍馬が仕掛けてくるのを待つ。無理に相手の土俵へ乗る必要はなかった。
龍馬は早めに歩を突き捨て、角道を開いて攻め込んできた。
莉央は慌てずに受ける。相手の攻め駒の連携を断ち、反撃の足場を作る。龍馬の手は決して悪手ばかりではなかったが、攻めを続けるための読みが浅い。ひとつの狙いが潰されると、次の手が続かなくなる。
数十手も進まないうちに、形勢は莉央に傾いていた。
「やっぱり、強いなあ」
龍馬は盤を見つめたまま、感心したように言った。
「龍王は。父さんと一緒に暮らせて、よかったよな」
莉央の指が止まった。
よかった?
そんなわけがない。
父親と暮らすことがどれほど苦しいものだったか。何を教え込まれ、何を奪われ、どれだけの恐怖を味わったか。目の前の男に、少しでも想像できるのだろうか。
思わず悪態をつきたくなった。
けれど、龍馬の横顔を見て、莉央は言葉を飲み込んだ。
もしかしたら自分とは別の地獄を生きてきたのかもしれない。
だからといって、同情する気にはなれなかった。それに、今ここで相手を刺激する必要はない。
莉央は黙って駒を進めた。
「僕の母さんはね、僕を身ごもっても、父さんと結婚してもらえなかったんだ」
龍馬は、まるで昔話でもするように語り始めた。
「君が生まれる四年前の話さ」
莉央は盤から目を離さなかった。
「僕の本当の名前は聖司。聖川って苗字さえ名乗れなかったから、母さんがつけてくれたんだ。父さんの子である事を示す名前を」
龍馬は歩を一枚動かした。莉央はその手を見てから、すぐに応じる。
「母さんは女手一つで僕を育ててくれた。でも、ちゃんとした先生について将棋を習わせるほどの金銭的な余裕はなかった。地元の道場で、少し指す程度だったよ」
そこで龍馬は、懐かしむように目を細めた。
「龍王みたいに、父さんから将棋を教えてもらいたかったな」
莉央の胸の奥で、何かがざらりと動いた。
父親から将棋を教わる。
それは、たしかに幸せな記憶でもあった。
三歳の頃、父は丁寧に将棋を教えてくれた。罠を仕掛け、莉央がそれを見破れば褒めてくれた。自分の指した手を認めてもらえることが、何より嬉しかった時期もある。
だが、いつからか、それは別のものに変わった。
勝つことを求められ、負ければ責められ、弱さを見せれば罰せられる。将棋はいつしか、父親の愛情を確かめるための試験になっていた。
龍馬は、そのことを知らない。
「僕は誰よりも勉強ができたから、都立麹町高校に進学して、そのまま東大へ進んだ」
龍馬は淡々と続けた。
「母さんはね、父さんが大好きだったんだ。だから、ずっと父さんの話をしていたよ。お前は父さんの子なんだから、天才なんだって」
龍馬の声には、懐かしさと誇らしさが混じっていた。
「大学院ではアメリカに留学して、AIの勉強と研究をした。母さんが死んだのは、僕がアメリカに渡ってすぐのことだった」
莉央は龍馬の駒を見た。
攻めは続いているものの、もう勝負にはならない。龍馬の狙いは一つずつ潰され、盤上には莉央が優勢を確かなものにする手順だけが残っていた。
「看取れなかったんだ。だけど、遺書には父さんのことが書いてあった。父さんへの想いがね」
龍馬は、少しだけ声を落とした。
「一緒に暮らしたかった。来世では一緒になりたい。あの女が憎い。あの女の子供が憎いって」
莉央は、顔を上げなかった。
あの女。
母親のことだろう。そして、あの女の子供とは自分のことだ。
父親を奪った娘。母親の恋を壊した存在。龍馬の母親にとって、自分はそんな人間だったのかもしれない。
もちろん、莉央に責任があったわけではない。生まれる前の出来事を、子供が背負う必要などない。
それでも、目の前の男が何を抱えてきたのか、その輪郭だけは見え始めていた。
「それで、父さんのAIを作ることにしたんだ」
龍馬は、再び明るい調子に戻った。
「将棋AIはずいぶん進歩しているからね。父さんの棋譜をかき集めて、学習させたんだ」
莉央は黙って聞いていた。
「でも、それだけじゃ足りなかった。父さんの実家に行って、奨励会時代からの研究ノートを全部借りてきた。それも読み込ませたんだ」
龍馬は盤上の駒を動かしながら、まるで研究成果を発表する研究者のように語った。
「それから、サンフランシスコ工科大学の研究者という立場を使って、父さんが出演したテレビ番組の映像を集めた。テレビ局や制作会社に頼んで、提供してもらったんだ。将棋雑誌のバックナンバーに載っているインタビュー記事も、詰将棋雑誌に投稿していた作品も、全部読み込ませた」
棋譜だけではない。
研究ノート、映像、インタビュー、詰将棋。将棋を指すときの思考だけでなく、言葉遣いや振る舞いまで再現するための材料を、徹底的に集めたのだろう。
「君の棋譜も集めたよ。奨励会の棋譜は手に入らないことが多いけど、女流棋戦には出ていただろう? 中々勝ち上がるものだから、結構な数が集まった」
龍馬はそこで、初めて莉央の顔を見た。
「それを、父さんの娘の棋譜として覚えさせたんだ」
莉央は一瞬、指先に力を込めた。
自分の棋譜が、父親のAIに学習させられていた。
龍馬にとっては、父と娘の将棋を一つにつなぐための作業だったのだろう。だが、莉央には、自分の人生の断片まで勝手に父親の物語へ組み込まれたように感じられた。
「母さんが愛した天才、聖川広司を風化させないために、AIを作ったんだ」
龍馬は、誇らしげに言った。
「天才の将棋を指せる将棋AIをね」
莉央は、盤上に視線を戻した。
龍馬の玉は、すでに逃げ場を失いつつある。あと数手で決着がつくだろう。
「そしたら、不思議なことが起きたんだよ」
龍馬の声が、わずかに弾んだ。
「Tokinchanってアカウントと対局したとき、AIが勝手に喋り出したんだ。『龍王は何処だ?』ってね」
莉央の手が止まった。
「意味が分からなかったよ。確かに、父さんの人格を再現するAIと将棋AIは紐づけて管理していた。でも、チャットは自動で書き込まない設定にしてあったんだ」
龍馬は肩をすくめた。
「父さんの性格でチャットをオンにしたら、すぐにアカウントを凍結されかねないからね」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
「それなのに、話すはずのないAIが勝手に喋り出した。すぐに分かったよ。龍王が生きているんだって」
龍馬は、盤上の莉央の駒を眺めた。
「父さんは一人が嫌なんだ。愛する娘と一緒にいたいんだよ」
莉央の目つきが険しくなった。
愛する娘?
何も知らないくせに。
父親が自分に何をしたのかも、どんな人間だったのかも知らない男が、知ったような口を利く。そのことに、虫唾が走った。
父親が求めていたのは、娘の幸せではない。
自分の望む娘であること。自分の思い描いた天才であり続けること。それができなくなった娘を、父親はどう扱ったのか。
龍馬は、その現実を知らないまま、父親のために作ったAIの言葉を信じている。
「桜井は父さんを馬鹿にしたから、痛い目を見せたんだ」
何でもないことのように、龍馬は言った。
「僕が開発したAIに、ネットにつながった自動運転機能付きの外車をハッキングさせて、ぶつけさせた」
莉央の背筋が冷たくなった。
桜井を襲ったのも、この男だった。
そして、自分たちが巻き込まれた事故も。
「桜井のおかげで、君に気づけたんだよ。桜井と対局して、チャットもしただろう? あれ、全部公開されていたからね」
龍馬は、少しばかり兄らしい顔を作った。
「兄として忠告しておくけど、ネットには気をつけなよ」
莉央は返事をしなかった。
忠告。兄として。
どの口が言うのだろう。
龍馬は、莉央の沈黙を気にすることなく続けた。
「で、さっきの事故。君はでかいのがついていたから、殺せなかったけどね」
蓮のことだ。
莉央は膝の上で手を握りしめた。
あのとき、蓮がいなければどうなっていたのか。考えたくもなかった。
「でも、あっちは本命じゃない。狙いはこっちだよ。ここまでは僕の読みどおり」
龍馬は、盤上の自分の玉を見た。
その玉は、もう逃げ切れない。
莉央は、残された手順を頭の中で確認した。龍馬の攻めは途切れ、守りも崩れている。勝敗は明らかだった。
莉央が駒を進める。
龍馬はしばらく盤を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ああ、やっぱり君は強いなあ」
負けを認めるような口調だった。
「将棋じゃ、叶わないか」
その言葉にも、悔しさはほとんど感じられなかった。
龍馬は笑っていた。
まるで、将棋の勝ち負けなど最初からどうでもよかったかのように。
「父さん。やっぱり龍王は強い。仇を取ってくれよ」




