第十二話 悪霊退散
龍馬はモニターに向かって、親しげに語りかけた。
それから、テーブルの下に手を伸ばし、何やら引っ張り出した。
金属製の関節がいくつも連なった、細長いロボットアームだった。先端には小さな把持装置がついている。龍馬はそれを将棋盤の横に据え、アームの位置を微調整した。将棋盤の上を動く駒を認識し、指定された駒をつまんで動かすための装置らしい。
モニターの中の聖川広司は、盤面を見下ろしていた。
莉央は、その顔を見たくなかった。
父親の顔をしたAI。父親の声で話し、父親の将棋を指す機械。目の前にいるのは、死んだ人間の亡霊などではない。膨大な記録を学習させられたプログラムにすぎない。
そう分かっていても、胸の奥に嫌なものがこみ上げてくる。
「なあ、龍王」
龍馬が、こちらに向き直った。
「父さんに勝てたら、解放してやる。父さんは消して、この亡霊を成仏させる。そして、君には二度と近づかない。約束する」
そこで、龍馬はわずかに首を傾げた。
「その代わり、父さんが勝ったら、君を殺して父さんの下に送る。それでいい?」
莉央は男の顔を見つめた。
条件を提示しているつもりなのだろう。だが、そこに交渉の余地はない。勝てば解放、負ければ殺される。相手が一方的に決めた、ただの生死を賭けた勝負だった。
「分かった。やろう」
莉央は短く答えた。
断る理由はなかった。
正直、普通に考えれば勝ち目はない。万に一つも。
相手は、聖川広司の全盛期を再現した将棋AIだ。タイトル挑戦までたどり着いたトップ棋士の思考と棋風を再現している。
まともに考えれば、勝負にならない。
それでも、莉央には一つだけ勝機があった。
父には、格下の相手をすぐに仕留めず、いたぶる悪癖があった。
自分の優位を誇示し、相手が苦しむ様子を楽しむ。勝つことだけを考えるなら選ばない手を、わざわざ選ぶことがある。棋士としての広司を知る莉央だからこそ、そこに賭けるしかなかった。
盤上に並べられた駒を見つめる。
父の将棋は、知っている。
だが、父が生きていた頃と今とでは、将棋そのものが変わっている。
十年前にはまだ十分に研究されていなかった戦法も、AIによる研究が進んだ現代では、定跡の一部として体系化されている。かつては経験や感覚に頼っていた局面にも、具体的な手順と評価値が示されるようになった。
広司の全盛期を再現したAIが、現在の将棋をどこまで理解できるのか。
それが、莉央の唯一の賭けだった。
先手は莉央。後手は聖川広司AI。
対局が始まった。
莉央は居飛車を選び、金無双を組みながら急戦を仕掛ける構想を採った。
居飛車金無双急戦。
玉を深く囲うことに手数をかけず、金無双の堅さを確保しつつ、早い段階から攻めの形を作る。現代の研究によって洗練された指し方であり、広司が全盛期を過ごした時代には、今ほど一般的な戦法ではなかった。
対する広司AIは、急いで反撃しようとはしなかった。
中飛車からゆっくりと陣形を整え、玉をダイヤモンド美濃へと囲っていく。
莉央は、その手を見て眉を寄せた。
堅い囲いだ。守りの厚さを生かし、相手の攻めを受け止めながら反撃する。広司が得意としていた、力強い構想の一つだった。
だが、今の局面でそれを選ぶのは、少し悠長でもある。
莉央は手を緩めなかった。
歩を突き、銀を進め、角の利きを通す。広司AIが囲いを完成させるまでのわずかな手数を利用し、攻めの形を整えていく。
AIは、莉央の仕掛けを受けて立った。
駒がぶつかり、盤面が一気に動き始める。
莉央は攻め駒を前進させ、相手の陣形に圧力をかけた。広司AIは丁寧に受けるものの、守りに手を戻すたびに攻めの手数を失っていく。莉央はその隙を見逃さず、さらに攻めを重ねた。
序盤の主導権は、明らかに莉央が握っていた。
『へえ』
モニターの中で、広司が笑った。
『少しは考えたじゃないか、龍王』
その声を聞いただけで、莉央の肩がこわばった。
『だが、そんな小細工で父さんに勝てると思っているのか?』
莉央は返事をしなかった。紛い物の言葉に惑わされてはいけない。
アイツは自分をパパと呼ぶ。
広司AIは、莉央の攻めを受け止めながら、盤面を少しずつ組み替えていく。無理に反撃することはせず、駒損を避け、陣形の傷を補修していく。その指し回しには、プロ棋士としての粘り強さがあった。
それでも、莉央の優位は続いた。
攻めが一段落した時点で、莉央は駒得を確保し、相手の囲いにも傷をつけていた。AIの評価値を見られたなら、先手有利と表示されていたかもしれない。
だが、莉央は評価値を見ていない。
盤面だけを見ていた。
この優位を、どこまで保てるか。
広司AIの指し手は、次第に厳しさを増していった。
受け一方だったはずの銀が前線へ進出し、遊んでいた飛車が攻めに参加する。莉央の攻め駒に狙いをつけ、逃げ道を塞ぎ、ひとつずつ自由を奪っていく。
大きな悪手はない。
だからこそ、恐ろしかった。
莉央が一手でも攻めを急げば、反撃を受ける。守りに回れば、せっかく築いた優位が消える。相手の攻めを止めようとすれば、別の場所が薄くなる。
広司AIは、莉央が作り上げた優位を、時間をかけて削り取っていった。
『どうした、龍王。もう終わりか?』
広司が笑った。
『父さんの将棋を覚えているんだろう? なら、どうすればいいか分かるはずだ』
莉央は駒を握ったまま、息を整えた。
知っている。
この男が、どういう将棋を指すのか。
相手の攻めを受け止め、わずかな隙を見つけて反撃する。相手が苦し紛れに指した手を咎め、気づいたときには逃げ道をなくしている。
まだ正気だった頃、全盛期の父の将棋は、派手な攻めだけではなかった。
追い詰められた局面でこそ、異様なまでの粘りを見せた。勝負を決めるまで、相手に一瞬の油断も許さない。
莉央は、その将棋を何度も見てきた。
そして、何度も指してきた。
『ほら、そこだ』
広司が画面の向こうから語りかけた。
『お前は昔からそうだ。目先の得に飛びついて、先のことを考えない』
莉央の指先が止まった。
父親の声だった。
だが、その言葉は、今の局面に向けられたものなのか。それとも、莉央の記憶から拾い上げた言葉を、AIがそれらしく口にしているだけなのか。
考えるな。
莉央は自分に言い聞かせた。
目の前にいるのは父ではない。父の棋譜と記録から作られたAIだ。どれほど声が似ていようと、どれほど指し手が似ていようと、同じ人間ではない。
莉央は盤面に意識を戻した。
攻めを続ければ、勝負を決められる可能性はある。しかし、無理に攻め込めば反撃が厳しい。守りを固めて長期戦に持ち込んでも、広司AIの読みの深さを考えれば、いずれ追い抜かれるだろう。
どちらを選んでも危険だった。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
莉央は一手を指した。
広司AIは、ほとんど間を置かずに応じた。
その手を見た瞬間、莉央は小さく息をのんだ。
攻めの拠点を狙いながら、同時に自玉の逃げ道を確保する。目立たない一手だが、放置すれば莉央の攻めは続かなくなる。
受けながら、攻めている。
莉央は数手先まで読み直した。
そして、気づいた。
自分が優位を築くために選んだ手順が、すでに広司AIの反撃を呼び込む形になっている。ここで守りに回れば、相手に主導権を渡す。攻めを続ければ、今度は自玉が危うくなる。
序盤から中盤の入り口にかけて築いたリードは、いつの間にか消えかけていた。
『どうした? 顔色が悪いぞ』
広司が楽しそうに言った。
広司AIの指し手は、容赦がなかった。
莉央が逃げれば追い、受ければ圧力を強める。無理に決めにいくこともなく、莉央の選択肢を一つずつ削っていく。
盤面は、終盤戦へと差しかかっていた。
双方の玉は危険な位置にあり、どちらも一手の間違いが致命傷になりかねない。莉央にはまだ攻めの手段が残っている。広司AIにも決め手があるとは限らない。
形勢は、ほぼ互角。
莉央は盤面を見つめ、頭の中で変化を読み続けた。
ここで攻めれば、相手の玉に迫れる。だが、攻めが途切れた瞬間に反撃を受ける。守れば一時的には安全だが、相手に先手を取られ、じわじわと追い込まれる。
どちらの道にも、明確な勝ち筋は見えなかった。
『どうした、龍王。もう読めないか?』
広司が笑った。
『父さんには分かるぞ。お前が何を考えているのか。どこで迷っているのか。昔から、お前の将棋はそうだった』
莉央は目を伏せた。
違う。
そう言い返したかった。
だが、声を出せば、目の前の男に何かを握られる気がした。
莉央は一度、ゆっくりと息を吸った。
将棋だけを見ろ。
相手が誰であろうと、どれほど自分を知っていようと、盤上で起きていることは変わらない。
そう考えて、もう一度、局面を読み直した。
しかし、どれだけ考えても、勝ちを確信できる手は見つからなかった。
広司AIの玉も、莉央の玉も、まだ詰んではいない。
だが、このまま手を進めれば、少しずつ形勢を損ねていくのは自分の方だ。
互角に見える盤面の奥で、莉央は確実に追い詰められていた。
『さあ、龍王』
広司の声が、静かな部屋に響いた。
『次はどうする?』
(大丈夫。まだ形勢は互角)
莉央の頭の中に、懐かしい声が響いた。
リョウの声だった。
幻聴なのか、それとも追い詰められた意識が生み出した記憶なのか。そんなことは分からない。ただ、その声を聞いた瞬間、張り詰めていた心が、ほんの少しだけ緩んだ。
不思議と、助けてほしいとは思わなかった。
かつての莉央にとって、リョウはヒーローだった。どんな相手にも臆せず立ち向かい、将棋盤の上では誰よりも強かった。莉央が恐ろしくて目を背けた現実を、代わりに引き受けてくれる存在だった。
けれど、今のリョウは、あの頃よりもずっと小さな女の子に見えた。
自分の中にいる、幼い女の子。
そんな子が、心配になって帰ってきてしまったらしい。
(リョウ。こんなところで負けるわけにはいかないわ)
(莉央)
リョウの声が、優しく響いた。
(私はいつもあなたと一緒だった。私はあなた。あなたは私)
莉央は、盤上に目を戻した。
(さあ、次はどうする?)
残された時間は少ない。
広司AIの攻めは、莉央の玉へと迫っていた。受けを間違えれば一気に寄せられる。かといって、ただ守るだけでは勝機が遠のく。
莉央は盤面を見つめた。
これまでの対局で積み重ねてきた経験。父から教わった将棋の基礎。リョウが指してきた数々の勝負。そして、自分自身が身につけてきた読み。
それらが、頭の中でひとつにつながっていく。
(せーので指さそうよ)
幼い頃の記憶がよみがえった。
将棋盤を挟んで、二人で同じ局面を考えたことがあった。どちらが先に正解を見つけるか。声を合わせて指を伸ばし、同じ駒を指せたら笑い合った。
あの頃、負けることが怖かった。自分が負けて発狂するパパが怖かったのだ。
恐怖の中で共に過ごし、共に励まし合った親友との記憶だ。
(せーの)
莉央の手が、駒をつまんだ。
その指先に、もう一つの小さな手が重なる。
もちろん、実際にそこに誰かがいるわけではない。
それでも莉央には、リョウが隣で一緒に考えてくれているように感じられた。
二人の指が選んだ一手は、攻めでも守りでも、単純には分類できない手だった。
相手の攻め駒に狙いをつけながら、自玉の逃げ道を確保する。広司AIが次に選ぶであろう手を限定し、その先にわずかな反撃の余地を残す。
派手な妙手ではない。
しかし、広司AIが優勢を築くために頼っていた攻めの連携を、ほんの少しだけ狂わせる手だった。
莉央が駒を置く。
広司AIは、すぐには応じなかった。
モニターの中の広司は、盤面を見つめていた。
やがて、次の手が指示される。
ロボットアームが動き、駒をつまみ、盤上へと運んだ。
莉央はその手を見て、わずかに目を見開いた。
想定していた変化の一つだった。
そして、その変化ならば。
莉央は迷わず応じた。
数手が進む。
広司AIは、再び莉央の玉へと圧力をかけた。だが、先ほどまでのように一方的に追い詰めることはできない。攻めの要となっていた駒が働きにくくなり、莉央の玉にも逃げ道が生まれていた。
その代わり、広司AIの玉もまた、安全とは言い難い位置に置かれていた。
莉央は、攻めに転じた。
残された銀を前線へ送り込み、相手の玉の逃げ道を塞ぐ。歩を打って利きを通し、飛車の横利きを生かす。ひとつひとつの手は地味だが、相手に受けを強いるには十分だった。
「……なるほど」
広司が、初めて笑みを消した。
「そこを狙っていたのか」
莉央は答えない。
盤上だけを見ていた。
まだ勝ちが決まったわけではない。広司AIには、厳しい反撃が残されている。ここで手順を誤れば、せっかく取り戻した形勢が再び傾く。
莉央は読みを進めた。
相手が受ければどうなるか。攻め合いに出ればどうなるか。玉を逃がした場合、どこまで追えるか。
いくつもの変化が頭の中を駆け巡る。
そして、莉央は一手を指した。
広司AIは反撃した。
その手は鋭かった。莉央の玉に詰めろをかけながら、相手の玉を守るための駒を温存する。単純に受ければ、次の攻めが続かなくなる。
莉央は、盤面を見つめた。
ここで間違えれば終わりだ。
(莉央。大丈夫)
リョウの声が聞こえた。
(ちゃんと見えてるよ)
莉央は、小さく息を吐いた。
そうだ。
見えている。
父の将棋は、確かに強い。だが、父の将棋だけが将棋ではない。
父が生きていた時代から、将棋は変わった。研究は進み、定跡は洗練され、かつては知られていなかった手筋が、今では当たり前のように指されている。
そして、莉央自身も変わった。
父に教えられた将棋だけではない。リョウが指してきた将棋だけでもない。二人が見てきたもの、学んできたもの、そのすべてを自分の中に積み重ねてきた。
莉央は、相手の攻めをかわす一手を指した。
広司AIの詰めろが消える。
同時に、莉央の攻めが一手早くなる。
広司AIは受けに回った。
それまで、莉央を追い詰めていた側が、今度は自分の玉を守らなければならなくなったのだ。
莉央は、その一瞬を逃さなかった。
飛車を切り、守りの駒を剥がす。銀を打ち、玉の逃げ道を限定する。広司AIは最善を尽くして受けるが、受ければ受けるほど、盤上の自由が失われていく。
莉央の玉も、まだ安全ではない。
互いに一手の間違いが許されない終盤だった。
だが、莉央には見えていた。
相手の玉を寄せ切るための、細い道筋が。
広司AIが最後の反撃に出た。
莉央の玉へと迫る駒。受けを誤れば、次の一手で勝負が決まる。
莉央は数秒、盤面を見つめた。
それから、静かに駒を動かした。
相手の攻めを受け止めると同時に、次の寄せを成立させる一手だった。
広司AIは応じた。
莉央はさらに一手を指す。
玉の逃げ道が、一つ消えた。
もう一手。
残された逃げ道が、塞がれた。
広司AIは、最後まで抵抗を続けた。駒を捨て、玉を逃がし、わずかな反撃の可能性を探る。しかし、莉央はそのすべてを読み切っていた。
「成仏しろよクソジジイ」
最後の駒が盤上に置かれた。
広司AIの玉は、逃げ場を失っていた。
莉央は、盤面を確認した。
詰みだった。
しばらく、誰も動かなかった。
ロボットアームは停止し、モニターの中の広司も、盤面を見つめたまま黙っていた。
莉央は、ゆっくりと息を吐いた。
「リョウ、ありがとう」
胸の奥で、そう告げた。
返事はなかった。
けれど、もう一人で戦っている気はしなかった。
「そんな。父さんが負けただと?」
龍馬は、信じられないという顔でモニターを見つめていた。
そのときだった。
モニターの画面に、砂嵐のようなノイズが走った。
聖川広司の顔が乱れ、輪郭が歪む。映像が復元されたかと思うと、今度は黒目が白く濁り始めた。
モニターの中に映る顔の白目と黒目の境界が曖昧になり、やがて両目が、内側から染み出すような赤に染まっていく。
赤い涙が、頬を伝った。
「こんな挙動、プログラムされてないぞ。初めて見るバグだ」
龍馬は驚いた様子でモニターに顔を近づけた。
次の瞬間、ロボットアームが唸りを上げた。
それまで将棋の駒を慎重に扱っていた機械が、唐突に軸を中心として高速回転する。金属の腕が風を切り、龍馬の後頭部をしたたかに打ち据えた。
「がっ――」
短い呻き声を残し、龍馬の身体が崩れ落ちる。
莉央は息を呑んだ。
モニターのノイズは、さらに激しさを増していた。
広司の顔が赤く染まる。まるで本人をその場で撮影しているかのように精細だった映像が、急速に劣化していった。肌の質感が失われ、顔を構成するポリゴンの輪郭が剥き出しになる。やがて、そのポリゴン自体が捻じれ、引き千切られるように崩壊していった。
目も、鼻も、口も、原形を失っていく。
最後には、顔そのものが消えた。
画面が暗転する。
静寂が訪れた。
「……成仏、したのか?」
莉央は、暗いモニターを見つめたまま呟いた。
そのとき、床に倒れていた龍馬が、唐突に身を起こした。
「っ……!」
莉央は反射的に身構えた。
龍馬の目は、どこを見ているのか分からなかった。焦点が合っていない。顔からは表情が消え、先ほどまでの動揺も、怒りも、驚きも、すべてが抜け落ちていた。
まるで、身体だけを残して中身が入れ替わってしまったかのようだった。
「強くなったな、龍王。パパの負けだ」
龍馬の口から声が漏れた。
莉央は凍りついた。
声が似ていた。
血の繋がりがあるからだろうか。声質だけではない。言葉の選び方、抑揚、語尾の落とし方。そのどれもが、莉央の記憶に焼きついている男のものだった。
聖川広司。
父親の声だった。
だが、そんなはずはない。
AIは停止した。龍馬はロボットアームに殴られ、頭を打ったばかりだ。意識が混濁し、支離滅裂なことを口にしているだけかもしれない。
それでも、目の前の光景から目を離せなかった。
「パパはお前を愛してたんだよ。心から。娘を思う親の気持ちが分かるか? 厳しくしたこともあった。でも、それは君たちのためだったんだ」
君たち。
その言葉に、莉央の眉がわずかに動いた。
ただの言い間違いだろうか。錯乱した龍馬が、誰かと混同しているだけなのかもしれない。
それとも。
「気づいてないと思ったか? パパはお見通しだ。龍王。君には甘さがあった。パパと同じ甘さだ。勝負の世界では生き残れない。だから君から甘さを消したんだ。だけど、リョウ」
莉央は目を見開いた。
何を言っているのか、理解できなかった。
いや、言葉の意味は分かる。分かるのに、それが自分に向けられた言葉だということを、頭が受け入れようとしなかった。
目の前にいるのは龍馬のはずだ。
けれど、その口から語られるのは、龍馬が知っているはずのない何かを知っている者の言葉だった。
「許してくれ。パパはお前を愛してるんだよ」
龍馬が両腕を広げ、莉央の身体を抱きしめた。
莉央は身を硬くした。
逃げなければ。
そう思ったのに、身体が動かなかった。いや、動かそうとしても、龍馬の腕が強く回され、身じろぎすることすらままならない。
その抱擁は、あまりにも唐突で、あまりにも一方的だった。
「リョウ。君がいなければ、パパは龍王と一緒に死ねたのに」
背筋が凍った。
耳元で囁かれた言葉が、頭の中で何度も反響する。
莉央は必死に龍馬の身体を振りほどこうとした。
「やめて……!」
だが、腕は緩まなかった。
龍馬は莉央の身体を抱え上げた。
蓮と比べれば、ずいぶんと細い腕だった。それなのに、莉央の身体は驚くほど軽々と持ち上げられた。
憑依されたからなのか。それとも、恐怖で判断力を失った莉央が、相手の力を正確に見積もれなくなっているだけなのか。
考える余裕などなかった。
「今度こそ一緒だよ」
龍馬は莉央を横抱きにしたまま、歩き出した。
「嫌っ、離して!」
莉央は暴れた。胸元を叩き、顔を殴りつける。それでも龍馬は、痛みなど感じていないかのように歩みを止めなかった。
室内からベランダへ。
ガラス戸を抜け、夜気の漂う屋外へ出る。
眼下には、遠くまで広がる街の明かりがあった。ここは二十三階だ。手すりの向こうには、何もない。
龍馬が一歩、前へ進もうとした。
そのときだった。
ベランダの向こうに、人影があった。
長身の男が、怒りに燃える目でこちらを睨みつけていた。
鍛え抜かれた身体は、無駄な力みを感じさせない。広い肩と引き締まった胴体。太い首から伸びる腕には、長年の鍛錬で培われた力が宿っている。
その姿には、獲物を前にした猛獣のような迫力があった。
踏み出した足は床を確かに捉え、重心は低く、身体の軸には揺るぎがない。
今にも飛びかかろうとするその姿からは、ただ一つの意思だけが伝わってきた。
莉央を取り戻す。
莉央にとって誰よりも大切な男だった。
「悪霊退散!」
男は叫ぶと同時に、龍馬へ横から飛びかかった。
渾身の拳が、龍馬の顔面を捉えた。
鈍い音が響く。
龍馬の身体が、莉央を抱えたまま大きく吹き飛んだ。
腕が緩む。
宙に投げ出された莉央の身体を、男が素早く抱き止めた。
落下の恐怖に目を閉じていた莉央は、強く支えられた感触に、恐る恐る目を開いた。
目の前にあったのは、よく知っている顔だった。
男は莉央を抱えたまま、ベランダの壁際まで移動した。彼女の背中が壁に当たらないよう慎重に身体を下ろし、自分もその隣に座り込む。
「……蓮」
名前を呼ぶのが精いっぱいだった。
どうやってここまで来たのか。まさか、23階までベランダ越しに登ってきたのだろうか?
無茶しないで。
ありがとう。
悪霊が、本当にいたのだろうか。
言いたいことは山ほどあった。けれど、何から口にすればいいのか分からなかった。
今にも泣き出しそうな顔で見つめる莉央に、蓮はほっとしたように笑いかけた。
息が荒く、肩で息をしている。
「おい、このマンション、オートロックだったぞ」
蓮はそう言って、自分がよじ登ってきたマンションの外壁を指さした。
莉央は一瞬、ぽかんとした。他に言うことはいくらでもあっただろうに。
それから、堪えきれずに笑い出した。
蓮もつられて笑った。
涙が頬を伝っていた。いつの間にか、莉央は泣いていた。
話さなければならないことは、沢山ある。話したい事も、沢山ある。
父親のこと。龍馬のこと。あのAIに何が起きたのか。
けれど、今すぐすべてを説明する必要はなかった。
時間なら、きっと、まだたくさんある。




