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パパ  作者: 磯野山頭火
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第六話 蓮の昔話

「藤原君。忙しいのに悪いな。おおきに」

 龍山大学附属病院の個室に、藤原蒼馬が顔を出した。

 龍山大学のキャンパスから一駅ほど離れた場所にある附属病院は、大学の医学部・医療系学部と連携する大規模な総合病院だった。地域の救急医療も担っており、大学関係者以外の患者も数多く受け入れている。病棟の廊下には、白衣姿の医師や看護師が行き交い、面会に訪れた家族や見舞客の姿もあった。

 桜井が入院しているのは、その病棟の個室だった。棋士としての知名度を考慮したのか、それとも単に空きがあったのかは分からないが、少なくとも周囲に気兼ねなく話せる環境ではある。

 ベッドに横たわっていた桜井孔明は、いつもの調子で蒼馬を迎えた。右側から車に突っ込まれたらしく、右腕と右脚にはギプスが巻かれ、どちらも吊られている。身動きの自由も利かない状態だった。

「全治二か月やから、しばらく欠場やな。広司さんの悪口を言いすぎて、祟られてもうたわ」

「大丈夫ですか?」

 蒼馬は見舞いの品を差し出した。袋の中身は羊羹だった。棋士同士の付き合いとして、いちおう手土産を用意してきたのだろう。少なくとも、本人はそういう顔をしていた。

「大丈夫ちゃうなあ。亡霊の祟りを信じるようになってもうたわ」

 桜井は冗談めかして言った。

「そんな馬鹿な。でも、これが聖川広司と関係しているなら、犯人は聖川さんの熱狂的なファンとかじゃないですか?」

「そりゃ怖すぎるやろ。広司さんの亡霊なんかより、何倍も怖いで」

「亡霊より怖いですか?」

「逆に、広司さんの亡霊なんか怖ないやろ。あんなヘタレでチキンでペテン師で、似非天才の三流棋士やで?」

 桜井は、まるで昔からの悪友をけなすような調子で言い放った。

 本人は全身のあちこちを痛め、しばらく対局にも出られない身だ。それでも口だけは、いつもどおり達者だった。

「『龍王は何処だ?』の龍王は、桜井先生のことでしたよね」

「ホンマにそう思うか?」

「少なくとも、SNSを見る限り、そう思っている人は多いみたいですよ」

「少なくとも、君はそう思うてへんっちゅうことやな。『龍王は何処だ?』っちゅうチャットが残っとる対局、見たか?」

「見てません」

「せやろな。入院して暇やったから、ワシは見たんや」

 桜井はベッド脇のテーブルに置かれたノートパソコンを開いた。右腕を吊られているため、操作は思うようにいかない。左手でマウスを動かしながら、ネット将棋のサイトにアクセスする。

「利き腕を折られると、何かと難儀やわ」

 ぼやきながらも、慣れた手つきで棋譜検索の画面を開いた。検索欄には、すでに「HijirikawaKoji」と入力されている。

 そのアカウントは、毎日コンスタントに三局ほど指していた。活動が途切れる様子はない。

 対局一覧の中に、二週間ほど前の日付の棋譜があった。相手は「@Tokinchan」。対局後のチャット欄には、あの一文が残されている。

 ――『龍王は何処だ?』

「チャットが書かれとるんは、この対局だけや」

 桜井が棋譜を開くと、画面に将棋の指し手を表す記号がずらりと並んだ。

 蒼馬は画面をのぞき込んだが、盤面を再現するために駒を並べる必要はなかった。

 棋士なら、棋譜を読むことで頭の中に対局を再現できる者は多い。音楽家が楽譜を読むだけで、頭の中に旋律を響かせるのと似ている。

 ただし、藤原蒼馬の場合は少し違った。

 彼は頭の中に将棋盤を思い描き、そこに一つずつ駒を並べているわけではない。棋譜に記された指し手を読み取るだけで、局面の変化や手の狙い、対局全体の流れを直接理解してしまうのだ。

 盤面を再現するという過程そのものが、彼にはほとんど必要なかった。

 その思考の仕方は、将棋ソフトが棋譜のデータを処理する様子にも似ていた。

「桜井先生の嫌いそうな将棋ですね」

 しばらく棋譜を追ってから、蒼馬が言った。

「相手の人も、先生は好きじゃなさそうだ。アマチュアにしては、かなり強い。元奨かな? 切れ味はあるけど、崩れると脆い。こういう将棋は、桜井先生は嫌いでしょう?」

「この棋譜は大衆受けしそうやけどな。アクション映画みたいなもんや。派手で分かりやすうて、見とるぶんにはおもろい」

 桜井は画面を指した。

「広司さんの将棋は、まさにそういう将棋やった。常識外れの構想で相手を振り回して、最後はとんでもない勝負手でひっくり返す。見てる側にはたまらんやろな」

「このTokinchanって人の将棋も、似たところがあるんですか?」

「せやな。こいつもチャンバラみたいな将棋を指す。もっとも、広司さんほどのもんかどうかは別の話やけどな」

 桜井は口の端を上げた。

「まあ、ワシの好みとは正反対や」

「Tokinchanさんの棋譜は、ほかにも公開されているんですか?」

「非公開のほうが多い。せやけど、公開されとる棋譜も何局かある。それを見ると、戦型をコロコロ変えとるんや。元奨というより、奨励会の初段とか二段あたりの子が、いろいろ試行錯誤しながら指しとるように見えるな」

 桜井は蒼馬に視線を向けた。

「見てみるか?」

「はい」

「まあ、よかったら見てやってくれ。天下の藤原先生のお目汚しをすることになるとは、こいつも思うとらんやろなあ」

 冗談を言いながら、桜井は検索欄の文字列を「Tokinchan」に打ち替えた。公開されている棋譜が一覧で表示される。

 蒼馬はノートパソコンを借りると、上から順に棋譜を開いていった。

 一局を読み終えるまで、十秒とかからない。

 次の棋譜へ。さらに次へ。

 桜井は黙って、その様子を眺めていた。

 正体不明のアマチュアの棋譜を、現役最強と目される棋士がこれほど真剣に読む。普通なら、まずあり得ない光景だった。

 三分も経たないうちに、蒼馬はパソコンから顔を上げた。

「大体、分かりました」

「もうかいな。相変わらず、えらい読むんが早いなあ」

 桜井は呆れたように笑った。

 蒼馬は、もう一度画面に目を落とした。

「聖川広司には、隠し子でもいたんですか?」

 唐突な質問だった。

 だが、その意味は明白だった。Tokinchanというアカウントの指し手に、聖川広司の将棋と通じるものを見いだしたのだ。

「おるかもしれんなあ。あの人は女たらしやったし、浮気もようしとったからな」

 桜井は軽い調子で答えたが、その目は笑っていなかった。

「隠し子じゃなくて、実子という説は?」

 蒼馬が尋ねた。

「リョウちゃんか? あの子は、こんなチャンバラみたいな将棋は指さんわ。本物の剣豪とチャンバラ役者を比べたら、チャンバラ役者が気の毒やろ」

 桜井は笑いながら首を振った。

「確かに、聖川リョウがどこかで生きとって、ネットで将棋を指せるくらいには回復しとる、っちゅうんは、物語としてはおもろいけどなあ」

 そこで一度言葉を切り、天井を見上げる。

「勝負の世界から離れて、趣味でちゃらちゃらした将棋を指す腑抜けた女子大生になって、親父の亡霊に『お前はそんなんでええんか』って咎められる。そんな話やろ?」

 桜井は自分で言っておきながら、可笑しそうに口元を緩めた。

「そうやったら、平和でええけどなあ」

「隠し子の線よりは、ありそうじゃないですか?」

「せやけど、それはワシらの願望やがな」

 桜井の声から、笑いが少しだけ薄れた。

「リョウちゃんが、どっかで普通に暮らしとる。あの子がもう将棋に縛られんと、自分の好きなように生きとる。……そう考えたいだけかもしれへん」

 蒼馬は返事をしなかった。

 桜井は再びノートパソコンの画面に目を向けた。そこには、聖川広司の名を騙るアカウントと、正体の分からない対局相手の棋譜が並んでいる。

「とはいえ、現実に亡霊なんかおるわけないからなあ。正味の話、ワシを跳ねたヤバい奴が黒幕なんやろ? 広司さんの熱狂的なファンとちゃうか?」

 桜井は冗談めかした口調に戻ったが、その言葉には現実的な疑念がにじんでいた。

「その線でしょうね。このTokinchanっていう、聖川の隠し子かもしれない人物は、何か知ってるんですかね?」

「まあ、と金なんて名乗っとるからなあ。名前だけ見たら、広司さんとつながりがあってもおかしないけどな」

 と金とは、将棋の歩が成った姿だ。歩は敵陣に入ると「と金」になり、金将と同じ動きができるようになる。

 聖川広司の娘、リョウの名前は「龍王」。飛車が成った駒の名に由来していた。もしTokinchanというアカウント名が、意図的にその名前を意識したものだとしたら――。

 龍王の妹か弟にあたる存在が、と金を名乗っている。

 そんな連想も成り立つ。

 もちろん、名前が似ているというだけで血縁関係を疑うのは飛躍がある。だが、聖川広司の名を掲げるアカウントが、わざわざ「龍王は何処だ?」と書き残しているのだ。無関係と切り捨てるには、妙に引っかかる符合だった。

「呼び出すか?」

 桜井が言った。

「呼び出せるんですか?」

「ワシのアカウント名がKunio_Pacific_Oceanやってことは、みんな知っとるやろ? あとで一局指して、チャットで呼びつけたるわ」

 まるで、行きつけの店に知り合いを呼ぶかのような気軽さだった。

 もっとも、Tokinchanが本当に聖川広司の関係者なのか、今のところ確かなことは何もない。

 それでも桜井は、画面の向こうにいる正体不明の相手に、直接接触してみるつもりらしかった。


 早坂がラウンジを出ていくと、莉央はしばらくその背中を目で追っていた。

 窓の向こうでは、空中庭園を行き交う学生たちの姿が見える。ラウンジは先ほどよりも人が増え、あちこちから話し声が聞こえていた。人目を気にせず話すには、少し落ち着かない。

 莉央はノートパソコンを閉じ、テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。蓮も自分の荷物をまとめ、彼女が動き出すのを待った。

 二人はラウンジを出て、ガラス扉の向こうにある空中テラスへ向かった。

 午後の風が、建物の間を吹き抜けていく。テラスにはベンチで談笑する学生や、スマートフォンを片手に休憩する学生がいた。遠くには東京の街並みが広がり、大学の構内とは少し違う開放感があった。

 蓮は人の少ないベンチを見つけ、莉央の隣に腰を下ろした。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 先ほどまで莉央が話していたのは、リョウという人格と、父親が作り上げた将棋の怪物についてだった。しかし、まだ話していないことがある。

 リョウが死んだ、あの事故のことだ。

 莉央は膝の上で両手を重ね、テラスの向こうを眺めていた。父親との記憶を語ることに、ためらいがないわけではない。この感情が何なのか整理がつかない。憎んでいるのかも知れない。一生許す事がないのかもしれない。それでも、父親から教わった将棋も、一緒に過ごした日々も、自分の中から消えてなくなったわけではなかった。

 その矛盾を、どう説明すればいいのか。莉央自身にも、まだ答えは出ていなかった。

「俺はさ、割と良いところのボンボンなんだよ」

 沈黙を破るように、蓮が口を開いた。

「知ってる」

 莉央は即答した。

 長く付き合っていると、蓮の身につけているものが、いちいち良いものだったりすることに気づかされる。本人は特に気にしていないようだが、さりげなく履いていた革靴が十万円を超えていたりすることも珍しくなかった。

「でも、詳しくは話してなかったろ? お互い殆ど昔の話はしなかったもんな」

 言われてみれば、そうだった。莉央は蓮と三年も一緒にいるのに、蓮の家族構成や育った環境については知っていても、彼がどんな子供だったのか、何をして過ごしていたのか、細かい話を聞いた記憶はあまりない。

 蓮はベンチの背もたれに体を預け、気負いのない様子で続けた。

「まぁ、俺の方は暗い話は一切ないから安心して聞いてくれよ。周りに恵まれて育ったボンボンの話」

 先にそう断ってから、彼は自分の生い立ちを語り始めた。

「爺ちゃんは地元の名士で会社をやってた。従業員で三百人くらいのそこそこ大きな会社だ。継いだのは伯父さんで、次男だった親父は県議会議員をやっていた。ちなみにお袋は女医で、兄貴は地元の国立大の医学部に通ってる」

 莉央が想像していた以上に、筋金入りの裕福な家庭だった。

 地元の名士である祖父に、会社を継いだ伯父、県議会議員の父親、女医の母親。兄は国立大学の医学部。いかにもという顔ぶれだが、蓮の口ぶりには自慢するような響きがなかった。彼にとっては、わざわざ誇るほどでもない当たり前の家庭環境なのだろう。

「実家太いあるあるだけどさ、私立受験して中学に入ったんよ。ただ、ヤンチャし過ぎて馬鹿になって高校に上がれなくてさ」

「ヤンチャ?」

 莉央は思わず聞き返した。

 今の蓮を見ていると、少なくとも素行不良で進学に失敗するような中学生だったとは想像しにくい。確かに、考えるより先に行動するところはある。けれど、それと学校から進級を認められないこととは、なかなか結びつかなかった。

「色々やったよ。男子校だったからさ。女子居ないと歯止めが効かないんだよ。話せる話だけ話すよ」

 蓮は悪びれもせず、むしろ昔の失敗談を披露するのを楽しんでいた。

「あのコンビニとかに売ってる市販の打ち上げ花火知ってる? あんまり東京じゃ売ってないんだけどさ。あれ、横にすると水平に飛ぶんだけど、夜のグラウンドに忍び込んで撃ち合ったり」

「それ、普通に危なくない?」

「危ないよ。次の日みんな肌に赤い火傷痕がついてるもん」

 悪びれない返事に、莉央は呆れたように息を吐いた。

「進学校だからさ、勉強合宿に連れて行かれるんだよ。長野の山の中にある合宿所に監禁されてさ。スマホも取り上げられて勉強漬け」

 進学校の勉強合宿というものが、どれほど厳しいのか莉央にはよく分からない。

「一週間だぜ! 楽しみもないからさ、夜のうちに仲間と麓まで下山してコンビニでコーラを買い込んで戻って来たらクラスの英雄になってたよ」

「英雄って」

「男子中学生なんて馬鹿だからさ。小さな事やくだらない事で盛り上がれるんだよ」

 蓮は当然のことのように言った。

 勉強合宿を抜け出して夜の山道を下り、コンビニで買い物をして戻ってくる。大人になればくだらない事だが、子供にとっては大冒険だ。

「あとは、ネット通販で仕入れて来た海外のエナジードリンクをクーラーボックスに詰めてロッカーで密売したり」

「密売」

 あまりのくだらなさに莉央が笑う。

「いや、まあ、売ってただけだよ。需要があったから」

 蓮は少しだけ言葉を選んだものの、反省の色はない。育ちが良いということと、品行方正であるということは、どうやら別の話らしい。むしろ、恵まれた環境で育ったからこそ、多少の失敗を恐れずに済んだのかもしれない。

「ニュージーランドに短期留学に行った時に韓国から来た留学生と南十字星の下で、っと、これは話せない奴だからパスするわ」

「なにそれ?」

 莉央が身を乗り出しかけると、蓮はすかさず手を振った。

「あかん話だから忘れてくれ。まぁ、法律は犯してないから安心して」

「まさか、昔の女の話?」

「鋭いな」

 即答だった。

「何で話せないの? 私が嫉妬すると思ってる?」

「いや。それはないだろうけど、猿みてぇなガキの恋愛話なんて、あんまり面白い話じゃないな」

 莉央は彼の顔をじっと見たが、蓮はそれ以上説明する気がないらしい。

「話せる奴で言えば、学園祭で焼き鳥売ったんだけど、アレがすごい売れるんだよ。二日で二千本は売れて、利益は十万以上。それを学校に返すのが嫌で、途中から値下げして売ってた事にして、純利益を四万で計上してクラスで一人二千円の焼肉食べ放題に行ったり、ね」

「それ、横領じゃないの?」

「エリート育成を教育目標に掲げる学校らしいだろ?」

 暗に偉い大人もみんなやっていると言わんばかりのブラックジョークだった。

「めちゃくちゃブラックジョークじゃん」

「だろ?」

 蓮は笑っていた。莉央は頭痛をこらえるように額を押さえる。焼き鳥を二日で二千本売る商才は大したものだと思う。だが、その利益を学校に納めるのが嫌だからと帳簿をごまかし、クラス全員で焼肉を食べに行くという発想は、普通なら褒められたものではない。

 それでも、蓮の話には、どこか憎めないところがあった。自分だけが得をするためではなく、仲間と一緒に面白いことをしたかったのだろう

「担任にはバレてたけど、まぁ何とか誤魔化してくれて、ね。先生には良くしてもらってたんだけど、勉強しなさ過ぎて高校に上がれなくなっちまって、それで、地元の頭の悪い工業高校に入ったって訳」

 そこまで聞いて、莉央はようやく、蓮が自分の過去を「周りに恵まれて育った」と表現した理由が分かってきた。

 彼は問題を起こしても、見放されなかった。担任は最後まで面倒を見ようとしてくれたし、周囲には一緒に馬鹿をやる仲間がいた。結果として進学には失敗したものの、その失敗が人生を壊すようなことにはならなかったのだ。

 蓮はそれを、運が良かったと考えているのだろう。

「部活、陸上やってたんだよ。昔から背が高いからハードル跳んでた。それで、担任は陸上部の顧問でもあったから色々な学校に声掛けてくれて陸上推薦で拾ってくれって根回ししてくれてさ。でも、俺のために頭下げて回る担任に申し訳ないからさ。断って高校受験。内申点なんてオール2だったからなかなかキツかったぜ」

 陸上部の顧問でもあった担任は、進学先まで探してくれたらしい。

 蓮は軽い調子で話していたが、推薦で拾ってもらう道を断り、自分で受験することを選んだのは、彼なりのけじめだった。

「良い先生と良い仲間に囲まれながら自業自得で別の学校に行ったって訳」

 蓮はあっさりと結論づけた。

「環境がガラリと変わるだろ? ヤンチャといえば万引きや喧嘩って世界。俺なんかボンボンだからさ、今話した話なんて可愛いもんだぜ。これは自分の身を守らなきゃって思ってレスリング部に飛び込んだ」

 私立の名門男子校から、地元の中学の中でも更にヤンチャな生徒が集まる工業高校へ。同じ高校生でも、集まる人間も空気も違ったのだろう。 

「高校入学と同時にコロナ禍が来ただろ? にも関わらず、一年に三百六十日くらい練習してたんだよ。監督がクソ尖ってて、レスリングマットは日々殺菌するから心配ないって。田舎の工業高校にはコンプラなんてないのさ」

 その言葉には、さっきまでの軽口とは少し違う響きがあった。

 蓮の鍛えられた肉体はただ生まれつき恵まれているだけではない。毎日、練習を重ねて作り上げたものなのだ。

「高校生活の思い出はそれだけだなぁ。電気科だったから資格を幾つか取らされたけどね。だから、やろうと思えば家庭用のコンセントを増設したり出来るよ」

 と蓮が言う。

「でもまぁ、勉強は殆どせずにレスリング漬けだったから面白い話は何もないんだよなぁ。レスリングにはさ、国体とインターハイと全グレって全国大会が三つあって、全グレってのだけは各県で枠が二枠あるんだよ。だから、国体とインターハイはダメでも全グレに出れて、そこで本当に運良く表彰台まで勝ち上がれてウチからスカウトされたって訳。勉強だったら龍山には入れてないね」

 蓮は運が良かったと言うが、全国大会で表彰台まで勝ち上がるのは、運だけでできることではない。しかし、結果を誇るよりも先に、勉強をしていたら大学には入れなかったと笑った。

 自分の努力を大げさに語らないところは、彼らしいと思う。けれど、莉央には、彼が自分の人生を必要以上に深刻に考えていないことそのものが、少し羨ましくもあった。

「恋愛は? ニュージーランドの韓国人だけ?」

 ふいに尋ねると、蓮は一瞬だけ口を閉じた。

「聞かない方が良い事もあるよ」

 それまで淀みなく続いていた昔話が、そこで初めて歯切れの悪いものになった。

 莉央は彼の横顔を見た。さっきの留学の話といい、蓮の過去には、本人が笑い話にできることと、そう簡単には口にできないことがあるらしい。

「いいよ。聞きたい」

 莉央がそう言うと、蓮は困ったように笑い、少しだけ視線をそらした。

「さっきのニュージーランドの韓国人の話とか、まぁぼちぼち。男子校から工業高校だからずっと男社会だったしね。だから、ぼちぼち」

 結局、詳しいことは話さなかった。

 莉央は追及しなかった。もしかしたら彼なりに気を遣っているのかもしれない。元カノの話なんて聞かされても気持ちの良いものではない。

 ただ、彼が自分のことを「周りに恵まれて育ったボンボン」と呼ぶ理由は、少し分かった気がした。

 失敗しても、助けてくれる大人がいた。馬鹿なことを一緒にやる仲間がいた。環境が変われば、自分の居場所を探して飛び込める部活があった。そして、努力した分だけ結果につながる競技に出会った。

 蓮の人生には、少なくとも彼自身が振り返る限り、失ったものを取り戻せないような悲劇はなかった。

 だからといって、何も考えずに生きてきたわけではないのだろう。彼なりに悩み、失敗し、選んできた道がある。ただ、その道を振り返るとき、蓮は過去を恨むよりも、面白かったことを思い出す人間なのだ。

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