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パパ  作者: 磯野山頭火
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第五話 龍王二人

 学生会館を出た三人は、空中庭園に面した学生ラウンジへと移動した。

 先ほど早坂と話していた時間帯に比べると、キャンパス内を行き交う学生の姿はずいぶん増えていた。ラウンジにも、講義の合間に休憩する学生や、ノートパソコンを広げて課題に取り組む学生たちが集まり始めている。

 莉央は、いつも使っている窓際のカウンター席には向かわなかった。テーブル席を選び、蓮の隣に車椅子を寄せる。向かい側には早坂が座った。

 三人が腰を落ち着けたところで、莉央は二人の顔を順番に見た。

「今から話すのは、死んだ私の親友、聖川リョウの話ね」

 その名前を口にしたとき、早坂の目がわずかに動いた。先ほどの対局で、彼はすでに莉央の正体に気づいている。だが、ここで何かを言うつもりはないらしかった。

「まず大前提として、解離性同一症って知ってる?」

「俺は知らんよ」

 蓮が即答した。

「面倒だからググって」

「はいはい」

 蓮は素直にスマートフォンを取り出した。こういうとき、彼は変に知ったかぶりをしない。知らないものは知らないと認め、必要なら調べる。それだけのことだった。

 画面を操作していた蓮が、検索結果の一つを開く。

「えーっと……」

 そして、スマートフォンを片手に、表示された文章を一本調子で読み上げ始めた。

「解離性障害は、本人にとって堪えられない状況を、離人症のようにそれは自分のことではないと感じたり、あるいは解離性健忘などのように、その時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくすることで心のダメージを回避しようとすることから引き起こされる障害であるが、解離性同一性障害は、その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものである……」

 最後まで読み終えると、蓮は画面から顔を上げた。

「だそうです」

「そういうことよ」

 莉央が言った。

「なるほど」

 早坂が一人で納得したように頷く。

「いや待て。何故、納得できる?」

 蓮は二人の顔を見比べた。

 先ほどまでの将棋のやり取りを知らない彼にとっては、話がどこへ向かっているのか、まだ十分には見えていないらしい。顔には、分かったような、分かっていないような表情が浮かんでいた。

 莉央はそんな蓮を見て、少しだけ息を吐いた。

「聖川広司は私の父親なの。……と言えば、分かる?」

 それは、あまりにも唐突な告白だった。

 蓮は一拍置いてから、わざとらしく棒読みで答えた。

「あー、なるほどね。理解したわ」

「絶対嘘。マジで分かってない」

 莉央は深刻そうな顔を緩めた。口元が綻び、いつもの調子が少し戻る。

「分かってる。マジで分かってる。俺、脳筋界隈では賢いから」

 蓮は冗談めかして胸を張った。

 莉央の話が、これから重たい方向へ進むことは察しているのだろう。だからこそ、あえて道化役を買って出ている。無理に励ますことも、深刻な顔をして同情することもない。いつもどおりの調子で、彼女が話しやすい空気を作ろうとしていた。

「つまり、莉央の親父さんは聖川っていう将棋のプロで、子供の頃から将棋を仕込まれた。で、厳しすぎる環境に耐えられなくなって、新しい人格が生まれて多重人格になったってことだろ?」

「まあ、ざっくり言えばね」

「なるほど。大筋は分かった」

 蓮は頷いた。今度は、先ほどよりも少し真面目な顔だった。

「それが、私の親友のリョウ」

 莉央は言った。

「当時の私の脳内には操縦桿があって、リョウがその操縦桿を握っている間、私は後ろから見ているだけだった」

 彼女はテーブルの上に視線を落とした。

「主人格の私が、別人格のリョウの記憶を共有できるっていうのは、解離性同一症のケースとしては珍しいらしいけど……私の感覚としては、四年生の時の小学生名人戦で藤原君に負けて、父親にボコボコに殴られた辺りからずっと、リョウに操縦桿を握らせて後ろから見ていたの」

 淡々とした口調だった。

 あまりにも淡々としているせいで、話の内容と声の調子がうまく噛み合っていないように聞こえた。

「ありがたいことに、記憶は共有されていたから、学校の勉強とかも彼女にやらせていた。私が操縦桿を握るのは、体育でドッジボールをやるときや、給食の時間くらい? あとは、ほとんどの時間をリョウに預けていた」

 莉央はそこで言葉を切った。

 蓮は何も言わなかった。早坂も、口を挟まずに彼女の話を聞いていた。

 ラウンジの向こうでは、学生たちが笑いながら談笑している。誰かが椅子を引く音がして、カウンターのほうからコーヒーの香りが漂ってきた。

 そんな日常の音に囲まれながら、莉央は、自分の中にいたもう一人の少女について語り続けようとしていた。

「こっちが私」

 莉央はスマートフォンを操作し、将棋連盟の古い記事を表示した。将棋大会の表彰式で撮影された写真だ。画面を二人に向ける。

 写っているのは、小学校四年生の頃の莉央だった。黒いストレートヘアをポニーテールにまとめ、カメラに向かって屈託のない笑顔を浮かべている。活発そうな、どこにでもいる小学生の少女に見えた。

 確かに莉央の子供の頃と言われれば納得出来る写真だ。

「で、こっちがリョウ」

 次に表示されたのは、奨励会の入会者を紹介する古いブログ記事だった。

 そこに写っていた少女も、先ほどの莉央と同じ顔をしていた。

 年齢も半年ほどしか違わない。顔立ちだけでなく、目や鼻の形も、口元も、ほとんど同じだ。それなのに、二枚の写真から受ける印象はまるで違っていた。

 莉央の目には、好奇心と活気があふれている。対してリョウの目には、そうした輝きが感じられなかった。表情そのものは穏やかだが、どこか醒めていて、年齢に似合わない落ち着きがある。

 髪を下ろしているせいだけではない。まるで、同じ顔をした双子の姉妹を並べて撮影したかのようだった。

 莉央は将棋サイトのニュース記事もいくつか開き、そこに掲載されていた写真を順番に見せた。奨励会での対局やイベントで撮影されたものらしい。

 どの写真に写っているのも、リョウだった。

「この頃の記憶って、どんな感じなんですか?」

 早坂が尋ねた。

 写真の少女には見覚えがあった。

 忘れるはずもない。自分の人生を決めた一局。その対局相手だった少女だ。

「リョウの人生を、後ろから見てるって感じ。映画でも見てたかのような」

 莉央はあっさりと答えた。

「学校に通ってるのも、将棋を指してるのも、基本的にはリョウがやってたことだから。記憶はあるんだけど、自分が経験したっていう実感が薄いのよね」

 早坂はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。

 写真の中の少女と、目の前にいる女性。顔立ちは同じなのに、髪型も雰囲気も、何もかもが違っている。

 それでも、言われてみれば確かに面影はあった。

「僕のことは、覚えてますか?」

 気がつけば、そう尋ねていた。

 莉央は少し考えるように目を上に向けた。

「早坂君のこと?」

「実は、奨励会の入会試験で対局してるんです」

「ああ、そうなんだ」

 莉央は納得したようにうなずいた。

「そしたら、申し訳ないけど、指したのは私じゃなくてリョウよ。もし私が指してれば、覚えてたと思うけど」

 悪気のない口調だった。

 早坂は「そうですか」とだけ答えた。

 莉央の記憶には、あの日の対局相手としての早坂聖也は残っていない。彼女にとっては、自分ではなくリョウが指した、数ある対局の一つにすぎないのだ。

 けれど、早坂にとっては違った。

 あの一局は、忘れようにも忘れられない対局だった。

 奨励会に入ることを目指し、将棋に自分の将来を懸けていた。だが、目の前の少女に敗れた。自分がどれだけ努力しても、届かない場所がある。その現実を突きつけられた日だった。

 その後、早坂は奨励会に進む道を諦めた。

 もちろん、人生がその一局だけで決まったわけではない。今では将棋から距離を置き、別の道を歩いている。それでも、あのとき盤を挟んだ少女の顔だけは、記憶の中に鮮明に残っていた。

 だからこそ、別人のように変わった莉央の中に、かつての少女の面影を見つけられたのかもしれない。

 自分の人生を変えた相手は、その対局を自分の記憶としてさえ持っていなかった。

 その事実を、早坂はどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。

「でも、もしあのとき対局してたのが私だったら、いい勝負してたかもしれない。リョウと私は別人だから」

 莉央はそう続けた。

 スマートフォンを操作し、今度は当時の将棋ファンが書いたブログを探し出す。古い記事を見つけると、二人に画面を向けた。

 そこには、聖川リョウの将棋を評する言葉が並んでいた。

 機械のように正確で、最後まで打ち筋が変わらない。子供ながらに完成された、将棋モンスター。

 表現こそ違えど、どの記事にも共通しているのは、リョウの将棋が同年代の子供とは明らかに異質だったという評価だった。

「リョウは、聖川広司が生み出した怪物なのよ」

 莉央は画面から目を離し、二人を見た。

「娘の身体に自分の才能を宿して、自分の弱さだった精神的な部分を切り離して、私の人格に残した。そうやって、完全無欠の超人を作り上げた。だから中学一年で奨励会の初段にまで上り詰められた。私のままだったら無理だったと思う。私、結構チキンだから。父親に似て」

「確かに」

 早坂が、つぶやくように言った。

 莉央はじろりと早坂を見たが、反論はしなかった。

「聖川リョウは、聖川広司とはまったく別人みたいな将棋を指してましたからね。まるで桜井天棋みたいな、細い勝負手をつなぎ切るような将棋。普通の人間には真似できない」

 早坂は、記憶の中にあるリョウの将棋を思い返すように、少し視線を落とした。

「一方で、莉央さんの将棋は聖川広司に似てる」

「ちょっと傷つくけど、その通りね」

 莉央は肩をすくめた。

 父親の名前を出されること自体に、今さら驚きはない。自分でも認めていることだ。

 ただ、あの男と似ていると言われて、気分がいいはずもなかった。

「で、あの男にリョウは殺された」

 その声から、先ほどまでの軽さが消えた。

「無理心中のときも、身体を動かしていたのはリョウの人格だった。あの事故で、リョウの人格は死んだの」

 テーブルを挟んだ三人の間に、短い沈黙が落ちた。

 ラウンジでは、相変わらず学生たちが談笑している。誰かの笑い声が聞こえ、カウンターでは注文されたコーヒーが用意されていた。何も変わらない日常の中で、莉央だけが、とうに終わったはずの過去を語っていた。

「なるほど。そしたら、莉央さんの将棋が強いのはどう説明するんですか?」

 早坂は、やがて口を開いた。

 話の重さに気圧された様子はない。少なくとも、質問することをためらってはいなかった。

「多分、脳みそは同じ脳みそを使ってるから、スペックの部分ではそんなに差がないのよ」

 莉央は自分のこめかみを指先で軽く叩いた。

「問題は精神的な部分。リョウは機械みたいに正確に指し続けられる。普通の人間だったら疑心暗鬼になって、前に進めなくなるような場面でも、彼女は崩れない。自分の読みを信じて、最後まで指し切れる」

 そこで莉央は、一度言葉を切った。

「そういうモンスターを、聖川広司は作り出したのよ」

 莉央はノートパソコンを開くと、ネット将棋のサイトにアクセスした。

 ログインしてマイページを表示する。画面に出てきたのは、@Tokinchanというアカウントだった。莉央が普段使っているアカウントらしい。

 彼女は対局履歴をたどり、ある一局の棋譜を開いた。

 対局相手の名前は、@HijirikawaKoji。

「不愉快な名前のアカウントを見つけて、一局指してみたのよ。それが、その棋譜」

 莉央は対局履歴を表示したまま、棋譜のファイルをダウンロードした。拡張子は「.kifu」。それを別の将棋ソフトで読み込み、盤面を表示する。

 棋譜を再生すると、画面上の駒が一手ずつ動き始めた。

 対局は公開対局だった。通常の対局とは違い、棋譜がサイト上に保存され、第三者も閲覧できる。二人が指した手は、対局が終わったあとも記録として残っていた。

「これ、例のアカウントとの対局ですか」

 早坂が画面をのぞき込む。

「そう。最初は、どんな将棋を指すのか確かめたかっただけなんだけどね」

 序盤から、両者の指し手は対照的だった。

 @HijirikawaKojiは、奇抜な戦型を選んでいた。定跡から外れることを恐れず、通常なら慎重になるような局面でも、ためらいなく攻めの構えを取っている。

 一方の莉央は、得意の居飛車を選択していた。奇をてらうことなく、駒組みを進め、相手の出方を見ながら陣形を整えていく。

「莉央さんの戦型は、割と落ち着いてますね」

 早坂がつぶやいた。

「聖川の亡霊って噂は聞いてたからね。序盤はしっかり指して、相手の作戦ミスを誘う。その差を維持したまま勝ち切ろうと思ったのよ」

 莉央は盤面を進めた。

 中盤までは、彼女の狙いどおりに進んでいた。相手の奇抜な構想に付き合いすぎず、無理のある手が出れば咎める。派手さはないが、堅実な指し回しだった。

 しかし、終盤に入ると様子が変わる。

 @HijirikawaKojiの指し手は、そこから急に鋭さを増した。劣勢を意識しているはずの局面でも、受けに回らず、勝負を決めにいくような手を連発する。

 莉央はその攻めを受け止めようとしたが、わずかな綻びを見逃さなかった相手に、次第に追い詰められていった。

「評価値的には、終盤で逆転されちまった」

 蓮が画面を見ながら言った。

 棋譜を再生している将棋ソフトには、AIによる形勢判断機能がついていた。盤面の横には評価値が表示され、どちらが優勢なのかが数値で分かる。将棋に詳しくない蓮にも、途中まで莉央が有利だったこと、そして終盤で形勢がひっくり返ったことは理解できた。

「聖川は、それだけが強みの棋士だったから」

 莉央は画面から目を離さずに言った。

「序盤で多少無理をしても、中終盤でとんでもない勝負手を見つけて、そこから勝ちに持っていく。あの男の将棋は、そういう将棋だった」

 最後の一手まで再生し終えると、莉央は棋譜の画面を閉じた。

「で、対局後のチャットを見てほしいの」

 ネット将棋のサイトに戻り、今度は対局記録に付属するチャット欄を表示する。

 公開対局では、対局後のやり取りも第三者が閲覧できるようになっていた。

 そこに残されていたメッセージは、たった一行だった。

 ――『龍王は何処だ?』

 早坂は画面を見つめた。蓮も、さっきまでの軽い表情を引っ込めていた。

「指せば分かる。アイツは間違いなく、聖川広司だった」

 莉央は静かに言った。

「もちろん、本人が指してるって意味じゃないわよ。そんなことはあり得ない。でも、あの将棋は間違いなく聖川広司の将棋だった」

 彼女は画面に表示された一行を指で示した。

「そのうえで、このチャット。まるで聖川の亡霊が、私の中から失われた自分の最高傑作を、リョウを探してるみたいでしょ?」

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