第四話 龍王の正体
桜井孔明天棋、交通事故で入院。当面の対局を欠場へ――。
翌朝、大和新聞の電子版は、将棋界に衝撃を与えるニュースを報じた。
記事によれば、桜井孔明は前日、都内で乗用車にはねられ、病院に搬送された。命に別状はないものの、全身を強く打っており、当面は入院して治療に専念するという。復帰の時期は未定で、予定されていた公式戦についても欠場が決まった。
藤原蒼馬との天棋戦を制し、八冠独占を阻止したばかりの桜井の事故は、将棋界のみならず、世間にも大きな波紋を広げた。
そして、事故の報道とともに、SNSを中心に急速に広まった話題があった。
――聖川広司の呪い。
発端は、ネット将棋の謎のアカウントが残した「龍王は何処だ?」という一文だった。聖川広司の亡霊を名乗るかのように現れたそのアカウントは、正体不明のまま強豪たちを相手に異様な将棋を指し続けている。
その聖川広司について、桜井は前日、大和新聞の独占インタビューで痛烈な批判を繰り広げていた。
かつての兄弟子を「天才などではない」と切り捨て、酒に溺れ、家族を道連れにしようとした男だと罵倒したのである。
その直後に起きた交通事故。
偶然にしては出来すぎている。そう考える者が現れるのに、時間はかからなかった。
《聖川の呪い、マジであるんじゃないか》
《あれだけボロクソに言った直後に事故って……》
《「龍王は何処だ?」って、次は桜井を狙うって意味だったのか?》
《聖川広司を怒らせた祟りだろ。笑えなくなってきた》
もちろん、事故と謎のアカウントを結びつける根拠など何ひとつなかった。桜井が事故に遭った場所や状況についても、報道された情報だけでは不明な点が多い。
それでも、ひとたび「呪い」という物語が生まれると、人々は目の前の出来事をその筋書きに沿って解釈し始める。
聖川広司を侮辱した男が、直後に事故に遭った。
その単純な符合は、将棋界の因縁を好む者たちにとって、何よりも刺激的な話題だった。
大和新聞の独占インタビューは、皮肉にも、桜井の身に起きた事故によって再び注目を集めることになった。記事の切り抜きがSNSで拡散され、桜井の発言と事故の報道が繰り返し並べて紹介された。
こうして、桜井孔明が聖川広司の悪口を言ったために祟られた――という噂は、事実であるかのように一人歩きを始めた。
学生会館の一階ロビーは、朝の静けさに包まれていた。
壁際にはサークル用のロッカーが並び、その前の空きスペースに、アルミ製の丸テーブルと椅子がいくつか置かれている。講義が始まる時間帯ということもあり、ロビーを行き交う学生の姿はまばらだった。大学生の朝は遅い。特に一限の時間ともなれば、キャンパスが本格的に動き出すまでには、まだ少し間がある。
結城蓮も、この時間はここにいない。学生会館の地下にある道場で、レスリングの練習に励んでいる。
「桜井天棋。ひき逃げされたみたいですよ。日課のランニングをしてる時に」
早坂聖也は、ロビーに置かれたアルミ製の丸テーブルを囲む椅子の一つに腰掛けていた。
細長い手足に、ひょろりと伸びた大きな体。背筋を丸めて座っているせいで、ただでさえ長身の彼が、窮屈な椅子の中に無理やり自分を押し込んでいるように見えた。
「『龍王は何処だ?』は、桜井さんだったってこと?」
高瀬莉央は車椅子に座ったまま、早坂の顔を見た。
短いブロンドの髪を黒いベースボールキャップに収め、青のスタジャンの下には白いクロップトップ。黒のデニムショートパンツに白いスニーカーという、明るくカジュアルな装いだった。大きな瞳と、口元に浮かぶ控えめな笑みが印象的な、整った顔立ちをしている。
「まあ、状況証拠としてはそうですね」
「含みがありそうだね」
「ネットでは、聖川の娘さんの名前が出てきてるんですよ。聖川リョウ。『龍王』っていうのは、彼女のことなんじゃないか、って説が出てます」
莉央の表情は変わらなかった。
聖川龍王。
龍王と書いてリョウと読ませる。父親の聖川広司が、将棋のタイトルと駒の名前から取って名づけたという、いかにも彼らしい名前だった。
その奇抜な名前と、少女の将棋の才能が世間の注目を集めたのは、十年前のことだ。まだ中学一年生でありながら、将棋のプロ棋士養成機関である奨励会で初段に昇段。父親譲りの才能を持つ天才少女として、将来は女性初の棋士になるのではないかと期待されていた。
当時の彼女は、長い黒髪をまっすぐに伸ばした、清楚で可愛らしい少女だった。テレビや雑誌で紹介されるたびに、その容姿も話題になった。純粋に将棋の才能を称賛する者がいる一方で、ネット上には年端もいかない少女に向けられた、邪な視線も少なくなかった。
やがて彼女は、父親とともに交通事故に遭い、世間から姿を消した。
聖川広司の娘、聖川リョウ。
莉央が蓮に「親友だった」と語った少女の名前だった。その関係は未だ早坂には話していない。
「聖川リョウを探してる? 死者が死者を探してるってこと?」
莉央は小首を傾げた。父親の亡霊が、死んだはずの娘を探している。ネット上で囁かれている説をそのまま受け取るなら、そういうことになる。
「聖川広司は死んだけど、聖川リョウは死んでないっぽいんですよ。警察の発表でも、父親は即死で、娘は重体ってなってる」
「重体って、その後亡くなるケースも多いでしょ?」
「そうですね。昨夜の桜井天棋は重症って報じられてましたから、それよりも大分重たいわけです。ただ、娘に関しては、死亡という発表や報道は出てないんですよ」
早坂は、あくまで公表されている情報を整理するような口調で話した。
父親は即死。娘は重体。
それだけなら、娘もその後に亡くなった可能性は十分にある。だが、少なくとも公に確認できる情報の中に、彼女の死亡を伝えるものはない。9年という時間が経過してもなお、死亡が確認されていないという事実は、ネット上の憶測にとって格好の材料だった。
「聖川リョウは死んだよ」
莉央が言った。
それまで浮かべていた控えめな笑みは消えていた。伏せた睫毛の下で、大きな瞳が静かに早坂を見つめている。声には妙な重みがあった。まるで、誰にも覆すことのできない事実を告げているかのようだった。
「なんで言い切れるんですか?」
早坂は不思議そうに尋ねた。
疑っているというより、純粋に理由が分からないという顔だった。公開されている情報だけを追っているなら、リョウが生きている可能性は否定できない。むしろ、死亡が確認されていない以上、断定するほうがおかしい。
莉央は、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ顔を伏せた。
「死んだのよ」
同じ言葉を、もう一度繰り返した。
説明するつもりはないらしかった。
早坂はそれ以上、問いを重ねなかった。ただ、細長い指を組み合わせ、目の前の莉央をじっと見つめていた。
やがて、何かを思いついたように顔を上げた。
「一局、指しませんか?」
唐突な申し出だった。
「将棋?」
「はい。せっかくですから」
早坂は椅子から立ち上がると、ロビーの隅に並んだサークル用ロッカーへ向かった。オカルト研究部の備品が、まだいくらか残っている。
鍵を開け、奥のほうをごそごそと探る。やがて彼が取り出したのは、古びた桐箱だった。
「それ、何?」
「将棋の駒です」
「見れば分かるわよ」
「ですよね」
早坂は特に気にした様子もなく、桐箱をテーブルの上に置いた。
蓋は黒ずみ、角は擦り切れている。長い年月を経た品らしい、くたびれた外見だった。早坂が蓋を開けると、中には飴色に変色した将棋の駒が整然と収められていた。
「江戸時代の棋士、伊藤宗看に関係があるといわれている駒です」
「伊藤宗看って、あの伊藤宗看?」
「ええ。ただ、本当に本人が使っていたのかは分かりません。箱書きに名前があるだけなので」
早坂は駒を一つつまみ上げた。
「それで、こいつには妙な噂があるんですよ」
「妙な噂?」
「持ち主が、次々と不幸に遭うんです」
早坂の声は、いつもと変わらなかった。
「最初の持ち主は、家が火事になった。次の持ち主は商売に失敗して破産。その次は、家族が立て続けに亡くなった。駒を譲り受けた人間が、事故に遭ったり、病気になったり、急に行方不明になったり……。そういう話が、何人分も残っているそうです」
「ずいぶん物騒だね」
「でしょう? しかも、持ち主が不幸に遭うたびに、駒が別の人間の手に渡っている。偶然にしては出来すぎている、というのが怪談としての売りらしいです」
「その話、どこまで本当なの?」
「さあ。古い品ですからね。記録が残っている部分もあれば、後世の創作らしい部分もあるみたいです。そもそも、宗看本人の持ち物だったという証拠もありません」
早坂は淡々と説明しながら、駒をテーブルの上に並べ始めた。
「でも、オカルト研究部に置いておくには、ちょうどいいでしょう?」
「まあ、そうね」
莉央は気のない返事をしながら、盤上の駒に目を落とした。
そして、一つ手に取った。
指先でそっと木地を確かめ、駒の側面から裏面へと視線を移す。
いい駒だ。莉央は思わず、もう一度駒を見た。
使い込まれているのに、木肌には深みがある。彫りは端正で、文字の線に迷いがない。漆の仕上がりも丁寧だった。少なくとも、適当な職人が古めかしく作っただけの品ではない。保存状態や後世の手入れについては分からないが、駒そのものには、相当な手間と技術が注ぎ込まれている。
もちろん、それだけで江戸時代のものだと断定できるわけではない。まして、伊藤宗看の愛用品かどうかなど、莉央にも判断できなかった。
それでも、将棋の駒として見れば、明らかに一級品だった。
「これ、すごくいい駒」
思わず口にすると、早坂が顔を上げた。
「分かるんですか?」
「これくらいは」
莉央は駒を手の中で返した。
「本当に江戸時代のものかは分からないけど、少なくとも、かなり腕のいい職人が作ったものだと思う。文字の彫りもきれいだし、仕上げも丁寧。大事に扱われてきたんじゃないかしら」
「なるほど」
早坂は感心したように頷いた。
「じゃあ、やっぱり本物なんですかね」
「何をもって本物とするかによるけど。宗看が使った駒だという意味なら、私は何とも言えない。でも、駒としての出来は本物だと思う」
そう言って、莉央は駒を箱に戻した。
持ち主が次々と不幸に遭ったという話には、何の根拠も感じられない。古い品には逸話がつきものだし、何人もの持ち主を渡り歩けば、不幸な出来事の一つや二つが結びつけられることもあるだろう。
けれど、駒の出来だけは誤魔化せない。
「あ、ちょっと待ってくださいね」
早坂はロッカーから、もう一つ何かを取り出した。
広げたのは、木目が印刷された厚紙だった。折り目のついたそれをアルミの丸テーブルに敷くと、将棋盤らしきものができあがる。升目まできちんと印刷されているが、どう見ても本物の盤には程遠い。
莉央はそれを見下ろし、しばらく黙った。
「駒は江戸時代の一級品なのに、盤は木目を印刷した厚紙なの?」
「盤はないんです。呪いの駒しかないんですよ」
「ないからって、これ?」
「ちゃんと九マスずつありますよ」
「そういう問題じゃないでしょう」
莉央は呆れたように笑った。
「呪いの駒を大事に保管しているわりに、扱いが雑ね。せめてそれなりの将棋盤くらい用意したら?」
「オカルト研究部の予算では、なかなか」
「その駒を売れば、立派な盤どころか、家が建つんじゃない?」
「勝手に売るわけにはいかないでしょう」
「そりゃそうね」
莉央は肩をすくめ、あらためて駒を見た。
盤はともかく、駒の出来は本当にいい。これほどの品が、木目を印刷した厚紙の上に並べられることになるとは、作った職人も思わなかっただろう。
「まあ、いいわ。駒が本物なら、将棋は指せるもの」
「そういうことです」
早坂は気にした様子もなく、駒を並べ始めた。
「何枚落とせばいい?」
莉央が盤面を眺めながら尋ねた。
「ハンデですか? 初対局なんだから平手でやりましょう」
「私、多分相当強いけど大丈夫?」
「僕も割と強い方ですよ」
「ネット将棋やるなら、レーティングはどれくらい?」
莉央が聞くと、早坂は少し考えてから答えた。
「ネット将棋はやらないんですけど、段位はアマ四段くらいです」
「そしたら、平手で大丈夫かな?」
莉央はあっさりとうなずいた。
早坂は、彼女の言い方に少し引っかかるものを感じた。自信があるというより、単純に実力差を見積もっているような口ぶりだった。
もっとも、アマ四段といえば、一般の将棋好きの中では随分と強い部類に入る。早坂は大会でも上位に入る実力だし、そもそも幼少期に奨励会を目指していた自分が、今さら大学生相手に大きく遅れを取るとも思っていなかった。
「じゃあ、お願いします」
早坂が頭を下げる。
「お願いします」
莉央も軽く応じた。
早坂が先手を持ち、対局が始まった。
序盤、早坂は居飛車で自然に駒組みを進めた。相手の出方を見ながら、無理のない形を作っていく。対する莉央は、角道を開け、飛車を振る準備を整えた。
やがて、莉央の飛車が五筋へと移動する。
「ゴキゲン中飛車か……」
早坂が小さくつぶやいた。
奇をてらった戦法ではない。プロの公式戦でも指されてきた、れっきとした戦法だ。だが、対策を知らなければ、中央からの攻めに対応するのは簡単ではない。
早坂は慎重に駒組みを進めた。中央を警戒し、玉の囲いを整える。悪くない進行だったはずだ。
ところが、莉央の指し手は早かった。
考え込む様子もなく、必要な駒を必要な場所へ運んでいく。無造作に見えるほど自然なのに、早坂が次の一手を指そうとすると、いつの間にか選択肢が狭まっていた。
中央の歩を交換し、飛車と銀を連携させる。早坂が受けに回れば別の弱点を突き、反撃の機会をうかがえば、その前に攻めの形を整えてしまう。
気づけば、早坂は自分の指したい手ではなく、莉央の狙いを防ぐための手ばかり考えていた。
中盤に入るころには、盤面の様相が変わっていた。
「あれ?」
早坂は盤面を見つめ直した。
駒損をしたわけではない。玉がすぐに詰むような危険な局面でもなかった。それなのに、指せる手が見つからない。
攻めようとすれば受けが間に合わず、守ろうとすれば陣形が崩れる。自分の駒は盤上にそろっているのに、どれも思うように働いていなかった。
莉央は、そんな早坂の苦悩を気にする様子もなく、次の一手を指した。
中央からの攻めが、今度は玉の囲いへと向かう。
早坂は数手先まで読んだ。受けの候補を比較し、最も傷の浅そうな手を選ぶ。だが、その手を指した瞬間、莉央は迷いなく応じた。
さらに数手。
早坂は、ようやく自分が何を見落としていたのかに気づいた。
いや、見落としたというより、最初から見えていなかったのだ。
莉央は単に攻めているのではない。早坂が反撃に転じるための余地を、少しずつ奪っていた。駒の損得だけを見ていれば気づきにくい、盤面全体の主導権。その差が、いつの間にか取り返しのつかないほど広がっていた。
早坂は駒を持つ手を止めた。
向かいに座る莉央は、頬杖をつくこともなく、ただ静かに盤面を見つめている。
「ちょっと待ってください」
「どうぞ」
早坂は盤面を最初から読み直した。
何か、見落としがあるはずだった。自分はここまで一方的に押し込まれるほど弱くはない。少なくとも、自分ではそう思っていた。
しかし、読み直すほどに、形勢の悪さがはっきりしていく。
莉央の攻めは無理をしていない。無理攻めを受け止めれば反撃できる、という局面ですらなかった。こちらが普通に指しているつもりでも、相手はその先を見越して、最も嫌な形を押しつけてくる。
早坂は、ようやく顔を上げた。
盤面には、もはや形勢を覆す手など残されていなかった。アマ四段の自分が、ここまで一方的に押し込まれるとは思っていなかった。いや、それ以上に驚いたのは、莉央の指し手だった。
早坂は子供のころ、奨励会の入会試験に落ちた事がある。受験生同士の対局試験で一つ年下の少女と対局して完膚なきまでに叩きのめされた。
聖川龍王という名前の人形みたいな見た目の女の子だった。
服装や髪型、化粧など随分と様子が違うが、早坂の記憶の中の少女と同じ目をしていた。目の前の莉央はきっとあの時の少女だ。
もっとも、あのときの女の子は、もっと慎重で、教科書どおりの手を積み重ねるような棋風だった。
目の前の莉央は違う。大胆で、鋭く、悪く言えば外連味がある。
それでも、盤面の読み方には、あの少女と変わらない何かがあった。
「棋風が昔とは全く違うので驚きましたが、やはり聖川リョウは貴方でしたか」
「だから、聖川リョウは死んだんだって。貴方の目の前にいるのは高瀬莉央」
莉央は涼しい顔で答えた。
早坂は、彼女の目を見つめた。目の前に座る莉央が何者なのか、もう疑ってはいなかった。
「これに関しては少し説明が難しいから、蓮が来たらきちんと話すわ。蓮の練習が終わるまで、もう一局やらない?」
莉央はそう言って、盤上の駒を手早く片づけ始めた。まるで、つい先ほどまで相手を一方的に追い詰めていたことなど、どうでもいいかのようだった。
「……いいんですか?」
「何が?」
「いや、僕は別に構いませんけど」
「じゃあ決まりね」
莉央は駒を並べ直した。
二局目は、早石田流三間飛車だった。
先ほどのゴキゲン中飛車とは打って変わって、序盤から積極的に動く。早坂が陣形を整えようとする間に、莉央は飛車と角、そして銀を連携させ、あっという間に攻勢を仕掛けた。早坂が受けに回ると、その受けの隙間を縫うように攻めをつなぐ。気がつけば、またしても早坂の陣形は崩されていた。
三局目は居飛車穴熊。
今度は自分の玉を堅牢な囲いに収め、じっくりとした戦いになるのかと思いきや、莉央は早坂の攻めを冷静に受け止めながら、少しずつ優位を広げていった。早坂が勝負を急いで仕掛けると、その攻めを逆用して反撃に転じる。最後には、堅いはずの早坂の玉が、逃げ場を失っていた。
四局目はカニカニ銀。
「また変わるんですか……」
「何が?」
「戦法ですよ。毎回、全然違うじゃないですか」
「そう?」
莉央は悪びれもせず、駒を進めた。
早坂は、今度こそ何か手がかりをつかもうと、盤面に集中した。だが、戦法が変わるたびに、莉央の将棋は別人のような顔を見せる。攻めの鋭さも、受けの感覚も、局面の選び方も違う。それなのに、どの将棋にも共通しているものがあった。
相手の狙いを読み、選択肢を狭め、気づいたときには逃げ道をなくしている。
早坂は、かつて奨励会入会試験で対局した少女を思い出していた。聖川龍王という仰々しい名前の少女だった。
あのころの聖川リョウは、もっと機械に近い将棋を指していた。定跡を踏まえ、基本に忠実で、無駄のない指し手を積み重ねる。だからこそ、早坂は自分の将棋をぶつけて完膚なきまでに敗れたことを、今でも覚えている。
だが、目の前の莉央は、あの少女の将棋とは全く別人の様だった。
もちろん、棋風が変わること自体は珍しくない。研究を重ねれば、得意戦法も指し手の傾向も変わる。それでも、これほど極端に戦法を変えながら、どれも高い水準で指しこなすのは容易ではなかった。
五局目が始まるころには、早坂も自分が勝てるとは思わなくなっていた。
それでも、投了するたびに「もう一局」と言われれば、断る理由もなかった。
莉央は勝っても得意げにならず、負けた相手を慰めることもない。ただ次の戦法を選び、駒を並べ、対局を始める。
早坂は、気づけば盤上の勝ち負けよりも、彼女の指し手そのものに目を奪われていた。
やがて、学生会館の地下から戻ってきた蓮がロビーに姿を現したとき、テーブルの上では、また新しい一局が始まろうとしていた。




