第三話 プロ棋士、桜井孔明
将棋界の八大タイトルの一つ、天棋戦五番勝負は、桜井孔明の防衛で幕を閉じた。
名人と将王。二つのタイトルを藤原蒼馬に奪われ、残るタイトルは天棋ただ一つ。二十二歳の若き天才が八冠制覇へ向けて突き進む中、四十代半ばのベテラン棋士は、長年守り続けてきたタイトルを次々と失っていた。もはや時代の流れには逆らえないのか。そんな声が囁かれ始めた矢先の逆転勝利だった。
桜井孔明、四十三歳。
中学三年でプロ棋士となり、今年で棋士生活二十八年目を迎えた。十九歳で初めて龍王のタイトルを獲得して以来、実に二十四年間、タイトルホルダーとして将棋界の頂点を争い続けてきた。龍王と将王の二つについては、永世称号の資格も保持している。将棋界の歴史に名を残すことは、すでに約束されたような棋士だった。
それでも、彼は時代の主役にはなれなかった。
彼よりも上の世代で七冠を達成し、将棋界に一つの時代を築いた天野慶昌。その後に現れ、史上初の八冠制覇さえ期待される藤原蒼馬。二人の歴史的な天才に挟まれた桜井は、かつて自らを「時代を作るような大棋士の系譜には乗れなかった」と評したことがある。
だが、二十四年にわたって何らかのタイトルを保持し続けた棋士が、果たして時代の脇役にすぎなかったのだろうか。
天棋戦の主催者である大和新聞は、防衛を果たした桜井に特別インタビューを申し込んだ。長年、将棋界の第一線で戦い続けてきた男が、藤原蒼馬との戦いをどう振り返り、残されたタイトルに何を見ているのか。その言葉に注目が集まっていた。
取材に応じた桜井は、長身で鍛えられた身体を黒いスーツに身を包み、記者の前に座っていた。
剃り上げられた頭に、濃い眉と鋭く吊り上がった目。高く通った鼻筋と、固く結ばれた薄い唇。口元を縁取る短く整えられた髭と、細い顎鬚が顔をいっそう厳しく際立たせている。戦国武将の厳めしい顔立ちをそのまま現代に持ち込んだような風貌だった。
長い年月を勝負の世界で生き抜いてきた男の顔には、若き天才たちの華やかさとは異なる重みがあった。
「いやあ、危なかったわ。首の皮一枚で、なんとか生き残った。ほんま、生きた心地せえへんかったで」
入道のような険しい顔が、たちまち崩れた。桜井は破顔して、記者たちに笑いかけた。
「世間は藤原君フィーバーやろ? ここであっさり八冠取らせてもうたら、フィーバーも終わってまうやん。せやから、ワシが最後まで立ちはだかったらなあかんわけや。これで来年も藤原君フィーバーが続くやろ? 将棋界も盛り上がるやんか。なあ、酒井さん。ワシの棋譜、渋いやろ? これぞ大人の男の渋みっちゅうやつや」
桜井には、逆に記者へ話を振る余裕さえあった。
「いやあ、さすがでした。三局とも僅差の勝負で、桜井孔明ここにあり、という将棋でしたね」
話を振られた酒井が、笑顔で応じた。
「せやろ? 藤原君みたいな大天才や、天野さんみたいな大棋士を相手に、こういう将棋が指せる。せやからワシは強いねん」
桜井は得意げに胸を張った。
自虐的なことを言ったかと思えば、次の瞬間には自信満々に言い切る。落ち込むときも、調子に乗るときも、いちいち振れ幅が大きい男だった。
昔からSNSでの発信にも積極的だったが、その奔放な物言いがたびたび炎上の火種になった。あまりに騒ぎを起こすものだから、名人位を保持していた間は、SNSの利用を控えていたほどだ。将棋界の第一人者が不用意な発言で世間を騒がせるのは、さすがに将棋界の恥だろう――本人なりに、そんな自制心もあったらしい。
もっとも、そんな豪快な人柄とは対照的に、将棋は地味で、奇をてらったところがまるでなかった。
桜井の得意とするのは、中盤でわずかなリードを奪い、それを終盤まで手堅く守り抜く将棋だった。相手に逆転の機会を与えず、最後には半手差ともいえる様な僅かな差で勝ち切る。派手な妙手で観客を沸かせるのではなく、気づけば相手が負けている。そんな渋い棋風だった。
聖川広司の華やかで破天荒な将棋とは、まさに対照的である。
「大和新聞さんも、ワシが勝って助かったやろ? 藤原君が八冠達成してもうたら、来年の天棋戦はどう宣伝すんねん。これで来年も大盛り上がりやな!」
がははという擬音が似合うほどに、桜井は豪快に笑った
「勝因は、どういったところにありましたか?」
記者が尋ねた。
「振り駒やな」
「振り駒、ですか?」
「五局のうち三局が先手番やったやろ? で、その三局を全部ワシが取った。藤原君くらいの相手になると、もうそういうレベルの勝負やねん。先手番を取られたら、まず勝てへん。逆に言えば、振り駒で負けとったら、今回はワシが負けとったやろな」
桜井は悪びれもせずに言った。
「せやから、対局前に御朱印集めしてきたんや。最後は神頼みやな」
本気なのか冗談なのか、判断のつきにくい桜井節だった。
「では、聖川広司の呪いという噂は、対局に何か影響しましたか?」
記者が尋ねた瞬間、それまで愛想よく笑っていた桜井の表情が消えた。
「天下の大和新聞が、何をしょうもない質問しとんねん。そないなことしとるから、YouTubeやSNSに話題を持っていかれるんや。悲しいわ、ほんま」
眉間に深い皺を刻み、太い眉を吊り上げる。先ほどまで冗談を飛ばしていた男とは、まるで別人のようだった。
「『龍王は何処だ?』っちゅう、あれやろ?」
「は、はい……」
先ほどまで親しげに応じていた酒井も、すっかり気圧されていた。
「ここにおるやないか。龍王は」
桜井は記者たちを見回し、吐き捨てるように言った。
聖川広司が最後に龍王戦に挑戦したとき、タイトルを保持していたのは桜井だった。聖川より三歳年下の桜井は、七番勝負を四勝二敗で制し、タイトル獲得を阻んだ。聖川は遂に無冠で非業の死を遂げた。
「しかも、龍王に関しては永世称号の資格まで持っとる。ワシ以外に誰がおんねん。聖川の言う龍王っちゅうのは」
桜井は鼻で笑った。
「……藤原君? ああ、今の龍王は藤原君やな。せやけど、聖川が死んだんは十年前やろ? 当時、藤原君は中一や。まだ奨励会二段か三段くらいやったんちゃうか。あの亡霊が、今の藤原君を狙うて出てきた? そもそも、なんで世間はあんな奴の亡霊なんかにビビっとるんや」
桜井の声に、苛立ちが滲んだ。
「夭折した天才? 笑わせんな。あんなん、天才ちゃうやろ。アイツが天才やったら、ワシかて天才や!」
「いや、桜井さんは間違いなく天才かと……」
記者がたじろぎながら口を挟んだ。
「せやな。ワシは天才や。そこは間違いない。せやけど、アイツは違うやろ?」
桜井は自分の評価については、一切の迷いもなく言い切った。
「華麗な棋譜? そら、格下相手に派手に勝った将棋ばっかり見とったら、そう思うんかもしれんな。せやけど、今回のワシみたいに、格上の相手をぎりぎりのところでねじ伏せた棋譜が、アイツに一局でもあるんか? ないやろ?」
口調は荒々しくなっていたが、その言葉には棋士としての自負があった。
「アイツはそういう男やねん。勝負から逃げ、己の才能と向き合うことから逃げ、家族からも逃げた。最後は酒に溺れて、娘まで道連れにしようとして、あわれな最期を迎えた男や」
痛烈な批判だった。
聖川の将棋を愛する者たちが聞けば、激しく反発するだろう。だが、桜井は構わなかった。
「ワシは真逆やろ? どんな強い相手でも、勝負からは逃げへん。酒は飲むけど、酒に飲まれることもない。家族も大事にしとる」
そこで一度言葉を切り、桜井は不敵に笑った。
「将棋かてそうや。ワシの将棋は玄人好みやねん。素人には地味で退屈かもしれん。せやけど、アイツの将棋は素人受けする。派手な手を指して、勝った負けたで騒がれる。それで天才や言われるんやから、ええ身分やな」
桜井は椅子の背にもたれた。
「せやから、こんな亡霊騒ぎで盛り上がるんやろ。将棋そのものやのうて、聖川広司っちゅう物語が好きなんや。世間はな」
将棋会館のインタビュー会場を出た桜井を待っていたのは、藤原蒼馬だった。
黒髪をきれいに分け、細い黒縁の眼鏡をかけた青年。そのレンズの奥では、生命力に満ちた瞳が輝いている。整った顔立ちには、二十二歳という年齢相応のあどけなさがわずかに残っていた。将棋界の頂点に立つ男でありながら、どこか若者らしい初々しさを感じさせる。
「おう、藤原君。待たせたな」
桜井は気さくに声をかけると、周囲を見回し、彼を手招きした。
「ちょっと話そか」
そう言って桜井は、藤原を伴って将棋会館の個室へと入っていった。
「広司さんの話やろ?」
先ほどのインタビューとは違い、桜井は聖川のことを「広司さん」と呼んだ。
二人は西庄九段の門下で、聖川は桜井より三つ年上の兄弟子だった。
「嫌いだったんですか? 聖川先生のこと」
「嫌い? そんなん、ひと言で片づけられる感情とちゃうわ。三つ上の兄弟子やぞ。兄弟みたいなもんや」
「でも、さっきのインタビューでは……」
「なんや、聞いとったんかいな。あれはまあ、リップサービスみたいなもんや」
桜井は苦笑した。
「もちろん、言うたことは本心やで。せやけど、あれだけボロクソに言うても、嫌いにはなりきれんのが兄弟弟子っちゅうもんや」
「そういうものですか?」
「藤原先生はまだ若いからなあ。もうちょいおっさんになって、自分より若い連中がタイトルに挑んでくるようになったら、分かるようになるわ」
冗談めかして桜井は言った。
その顔には、先ほどまでの険しさはなかった。入道を思わせる厳つい顔立ちにも、どこか人懐っこい優しさがにじんでいる。
藤原は、対局中の桜井とはまるで別人のようだと思った。
盤を挟んで向かい合っていたときの桜井は、まさに修羅のような顔をしていた。勝負の場では一歩も引かない男が、今は昔を懐かしむように笑っている。
「せやけど、広司さんがひどい男やったんは事実や。リョウちゃんを道連れにして、自殺したやろ?」
桜井の口調から、笑みが消えた。
リョウちゃん――聖川広司の娘、聖川龍王のことだ。
事故当時、彼女はまだ中学一年生。それでいて奨励会初段にまで上り詰めていた。将来、初の女性棋士が誕生するかもしれない。そう期待されていた逸材だった。
「『龍王』というのは、彼女のことですか?」
藤原は神妙な面持ちで尋ねた。
「分からん。あのアカウントの正体が何者なんか、ワシにも分からへん。ただ、本当に聖川広司の亡霊やとしたら、ワシのことを指しとるんやないやろな。もちろん、藤原先生のことでもないはずや」
「……はい」
「ほな、誰や。リョウちゃんのこととちゃうんか?」
桜井は腕を組み、考え込むように視線を落とした。
「それにしても、ひどい名前の付け方やで。ワシがあいつとの龍王戦で絶対に負けられへんかったんは、リョウちゃんがかわいそうやったからや。親父と同じタイトルを背負わされるなんて、嫌やろ?」
聖川広司の娘は、聖川龍王と書いて「リョウ」と読んだ。
将棋の最強の駒にちなんだ名前を、娘につけたのだという。広司にしてみれば、将棋指しとして最高の願いを込めたつもりだったのかもしれない。だが、娘の名前が父親の野心そのものになってしまうのだから、なんとも身勝手な話だった。
「リョウのお墓を探してる、ってことですか?」
藤原が尋ねた。
彼は「リョウちゃん」ではなく、親しげに「リョウ」と呼んだ。
同い年で、奨励会時代には互いに切磋琢磨した仲だった。孤高の天才である藤原にとって彼女は近い実力を持った数少ない同い年の仲間だった。
「墓? ああ……。藤原先生、リョウちゃんの葬式には行ったか?」
「いえ。行っていません」
「せやろな。ワシも行ってへん」
桜井は短く答えた。
「リョウちゃんは生きとるで」
あまりにもあっさりとした断言だった。
藤原は思わず桜井の顔を見た。
「生きている……?」
「せや。どっかの病院で、全身に管をつながれたまま眠っとるんや。可哀想な話やけどな」
「どうして、それが分かるんですか?」
「記者や。さっきの酒井ちゃんっちゅう記者に調べさせたんや」
桜井はそう言って、懐から一枚の写真を取り出した。
「事故のあと、しばらくしてからな。聖川の逃げた女房に、取材させたんや。そしたら、その女房がこれを寄越してきた。娘は植物状態や、っちゅうてな」
桜井は写真を藤原に差し出した。
そこに写っていたのは、聖川リョウだった。
顔も両手足もミイラのように包帯で覆われ、身体のあちこちから医療用の管やコードが伸びている。わずかに覗く顔の一部からは、かつて将棋界の期待を一身に集めた少女の面影を見つけることさえ難しかった。
「……これは」
藤原は写真を見つめたまま、言葉を失った。
「もし、あの亡霊が本物やったら、話は簡単や。自分と一緒に死んだはずの娘が、まだ生きとる。せやから、娘を探し出して、今度こそ息の根を止めて、一緒にあの世へ行こうとしてるんとちゃうか?」
桜井は冗談めかすこともなく、淡々と言った。
「本物の亡霊なんて、あり得ますか?」
藤原が尋ねた。その声に恐怖はなかった。亡霊の存在など、端から信じていないのだろう。
「あいつは広司さんやったで」
桜井は即座に答えた。
「あいつ、というのは?」
「今、世間で聖川の亡霊や言われとるアカウントがあるやろ。聖川広司を名乗って、ネット将棋を指しとるやつや。あれと一局、指したんや」
桜井は藤原の目を見た。
「間違いなく、広司さんやった」
「聖川広司の棋譜を学習させたAIでしょう?」
「AIか。やったら、恐ろしい話やで」
桜井は吐き捨てるように言った。
「あの将棋は、ワシの大嫌いな広司さんの将棋そのものやった。君の将棋に蜂蜜をぶっかけて、骨抜きにしたような、クソみたいな情けない将棋や」
藤原は黙って聞いていた。
「子供の頃から何百局も指してきたワシやから分かるんや。そっくり、なんてレベルやない。あれは広司さんの将棋やった」
「……いや、だとしてもAIでしょう」
「せやったら、『龍王は何処だ?』っちゅう、あの投稿もAIが呟いたんか?」
桜井は眉をひそめた。
「もし、あのAIがリョウちゃんの居場所を探しとるんやったら、どうする? 病院にハッキングして、生命維持装置でも止める気かもしれへんで。もう、そんくらいのことをやらかしてもおかしない気がするわ」
「さすがに、将棋AIにそこまでは無理だと思いますよ」
「将棋AIには、な」
桜井は間髪を入れずに返した。
「せやけど、誰がその将棋AIを作ったんや?」
写真を持つ藤原の手が、わずかに止まった。
「このクソ胸糞悪い、広司さんの将棋を指すAIを、いったい誰が作ったんや」




