第一話 莉央と蓮
龍山大学の本部キャンパスは、都心の限られた敷地に高層校舎が立ち並ぶ、縦に伸びた大学だった。建物の間には植栽や小さな広場が設けられ、校舎の上層階をつなぐ通路の先には、学生たちの憩いの場となっている空中庭園が広がっている。
その空中庭園に隣接した学生ラウンジの窓際で、一人の女がノートパソコンに向かっていた。
高瀬莉央。龍山大学大学院理工学研究科情報工学専攻に在籍する大学院生である。
白に近いグレーのリブ編みスリーブレスのクロップトップに、ハイウエストの黒いワイドパンツ。飾り気の少ない服装ながら、すっきりとしたシルエットが彼女の華奢な体つきを引き立てていた。短い髪はアッシュがかった明るいブロンドで、耳の下あたりで軽く内巻きになっている。整った顔立ちは柔らかく、少し大きめの瞳には知的な印象があった。一方で、画面を見つめる眼差しには、他人の視線など気に留めないような気安さも感じられる。
彼女が乗っているのは、黒いカーボンフレームの車椅子だった。細身のフレームと大きな後輪を備えた、軽量で機能的なモデルである。一般的な車椅子に比べて無駄な装飾がなく、身体に合わせて調整された座面や背もたれも、彼女の動きを妨げないように作られていた。後輪のリムに指を掛ければ、わずかな力で滑らかに前へ進む。莉央はテーブルとの距離や向きを細かく調整して、使いやすい位置に収まっていた。
ノートパソコンの画面には、仕事用の資料とコードが表示されている。通信制高校時代にプログラミングに触れたことをきっかけに情報工学の道へ進んだ彼女は22歳。学年で言えば大学四年の年だが、早期卒業制度を利用して春から大学院に進学していた。今はオンラインで完結するアルバイトの仕事をこなしている。片手でマウスを操作し、もう片方の手でキーボードを叩く合間に、傍らのコーヒーを口に運ぶ。
窓の外では、空中庭園の木々が秋風に揺れている。しかし、莉央の目は一度もそちらへ向かなかった。
やがて、ラウンジの入口に一人の男が姿を現した。
結城蓮だった。
大学のロゴが胸元に入ったジャージ姿で、肩にはスポーツバッグを掛けている。練習を終えたばかりなのか、短い黒髪は少し乱れ、首筋にはまだ汗の気配が残っていた。
身長は百八十センチほど。肩幅が広く、長い手足に恵まれた体格で、ジャージ越しにも鍛えられた背中や首回りの厚みがうかがえる。筋肉を大きく見せるための身体ではなく、競技の中で磨かれた、引き締まった実戦的な体つきだった。
顔立ちは端正で、眉骨のはっきりした目元と、まっすぐ通った鼻筋が印象的だった。短く刈り込んだサイドからトップへ自然につながる髪型も相まって、精悍な雰囲気がある。ただ、その顔でひときわ目を引くのは、両耳の形だった。
耳介は厚く膨らみ、軟骨の輪郭が不規則に変形している。いわゆる餃子耳、レスリングや柔道などの組み技系競技でよく見られる耳の変形だった。繰り返しの摩擦や圧迫によって生じたもので、近くで見れば、耳本来の滑らかな曲線が失われているのが分かる。決して見せびらかすようなものではないが、彼が長年、組み合う競技に打ち込んできたことを雄弁に物語っていた。
蓮はラウンジを見回し、窓際の莉央を見つけると、迷うことなくそちらへ向かった。
莉央は相変わらずパソコンに向かっている。蓮が近づいても、わざわざ顔を上げることはなかった。
蓮は彼女の隣の椅子を引き、スポーツバッグを足元に置いた。
窓から差し込む午後の光が、莉央の明るい髪と黒い車椅子のフレーム、そして蓮のジャージに入った龍山大学レスリング部のロゴを照らしていた。
蓮はスポーツバッグを足元に置き、椅子に腰を下ろした。
「お疲れ様」
莉央は画面に目を向けたまま言った。
「仕事は終わった?」
蓮が聞く
「まだ」
「なら、先に飯食ってるわ」
それきり、蓮は黙った。
莉央はノートパソコンに向かったまま、キーボードを叩いている。画面には仕事用の資料とコードが並んでいた。
蓮は紙袋から建物の入り口のキッチンカーで買ったケバブラップを取り出した。アゼルバイジャン人のケバブ売りは月に何回かやってくる。日本に来る前はレスリングをしていたらしく、蓮とは顔馴染みだ。練習帰りで腹が減っていた。アゼルバイジャン人のケバブ売りが言うにはケバブは肉が多くアスリートには最適な補給食なんだと言う。食べながらタブレットを開き、途中まで読んでいた中国史の本の続きを表示する。
莉央に話しかけることはしなかった。
仕事中なのだから、話しかけても邪魔になるだけだ。急ぎの用事があるわけでもない。だったら、こちらはこちらで好きに過ごせばいい。
ラウンジのざわめきの中、二人は隣り合って別々のことをしていた。
蓮がケバブを食べ終える頃には、タブレットの画面は何度も先へ進んでいた。ときどき眉を寄せたり、気になった箇所を読み返したりしている。読書に集中していると、隣に莉央がいることさえ忘れているようだった。
莉央がノートパソコンを閉じた。
「お待たせ。やっと終わった」
「おう」
蓮はタブレットから顔を上げた。
「何読んでたの?」
「三国志の呂布伝」
呂布、字は奉先。後漢末の武将で、並外れた武勇と軍事的才能を持ち、「人中に呂布あり」と称えられた。しかし、その才覚を生かして天下に名を残すどころか、主君を幾度も裏切り、目先の利益や感情に流され続けた。個人の武勇では並ぶ者がなくとも、人望も政治的な判断力も乏しく、最後は曹操に捕らえられて処刑された。稀有な才能を持ちながら、それを制御できずに破滅した人物だった。
「呂布? 呂布だけで一冊分も書くことあるの?」
莉央も呂布は知っていた。
「まぁ、ガチの歴史書じゃなくてフィクションの小説だからな」
「貂蝉と恋愛したり?」
貂蝉というのは呂布の愛人で絶世の美女とされる人物だ。呂布と並んでゲームのキャラクターとして有名だった。
「三兄弟と一対三で戦ったり、な」
「え? あれもフィクションなの?」
「フィクションらしいぞ。関羽と張飛と劉備の三人と虎牢関で闘ったシーンも」
蓮はタブレットを閉じた。
「マジか。夢がないね」
莉央は傍らのコーヒーを飲み干し、今度は別の画面を開いた。将棋の対局サイトだった。
蓮はそれを横目で見た。
「将棋の方は最近はどうなの?」
「ぼちぼち」
「まあ、しっかり勝ってくれよ。負けて不機嫌になった莉央をなだめるのは楽じゃない」
「え? そんな事なくない?」
莉央が眉間に皺を寄せて言う。
「割とあるよ。莉央は将棋の事になると人が変わるからね」
「そうかなあ?」
「そうだよ」
「気をつける。そんなに人が変わるかなぁ?」
「時々ね。莉央が莉央に見えない時がある」
それ以上、蓮は何も言わなかった。莉央が何か話したくなれば話すだろうし、そうでなければ別にいい。
彼は空になったケバブの包み紙をまとめ、近くのゴミ箱に捨てた。
再び、呂布奉先の本をタブレットで開いた。
「ねぇ、ネットに漂う幽霊って信じる?」
莉央は三分切れ負けの早指し将棋を一局指し終えると、聞いた。
「あるわけないだろ」
蓮はあっさり答えた。
「まあ、そうだよね。蓮はこういうの信じないもんね」
莉央はさして残念そうでもなく頷いた。
分かっていたことだった。長い付き合いになるが、蓮は幽霊だの前世だの、そういった類いの話をまるで信じない。占いや心霊現象を面白半分に楽しむことはあっても、本気で何かを超常的なもののせいにすることはなかった。目の前で起きたことには、まず人間の行動や現実的な原因を考える。分からないことがあっても、分からないままにしておくだけで、そこに霊の存在を持ち出す必要はないという考え方だった。
莉央も、それをよく知っていた。だからこそ、最初から蓮が信じるとは思っていない。ただ、彼ならどう答えるのか、聞いてみたかっただけだ。
莉央はノートパソコンを蓮の方へ向けた。
「じゃあ、これ見て」
「何?」
「将棋の動画」
「幽霊の話じゃなかったの?」
「いいから」
画面には、フリルのついた衣装を着た美少女のアバターが映っていた。大きな瞳にピンク色の髪、頭には小さなリボン。口の動きに合わせて表情が変わり、甲高い声で軽快に喋っている。いかにも今どきの美少女VTuberだった。
もっとも、その中身が本当に美少女なのかは誰にも分からない。彼女は将棋情報を専門に扱う配信者で、動画ではプロ棋士の解説からネット将棋界の噂話まで幅広く取り上げていた。将棋の実力や棋界事情については、本人の知識だけでなく、配信に協力するアマチュア強豪の中年男性たちの存在も大きい。大会で名を知られた県代表クラスの選手や、ネット将棋で長年腕を磨いてきた古参の強豪が、裏方として棋譜の検討や情報提供をしているのだという。
画面の中の美少女は、そんな事情など微塵も感じさせない声で話し始めた。
『はい、今日はちょっと不思議な話です! 最近、ネット将棋界で妙なアカウントが話題になっているんですよ。名前は「@HijirikawaKoji」。突然現れてから、かなりの強豪を相手に勝ち続けているんです!』
蓮は画面を眺めた。
『序盤は定跡から外れた、何を考えているのか分からないような手を指すんですけど、中盤から終盤にかけては驚くほど正確になるんですよね。しかも、その独特な指し回しが、かつてのプロ棋士、聖川広司の棋譜に似ているというんです』
「聖川広司って知ってる?」
莉央が聞いた。
「いや。誰?」
蓮が答える。
「昔の棋士」
「ふうん」
蓮はそれ以上、尋ねなかった。莉央は構わず動画を続ける。
『もちろん、棋譜を学習させた将棋AIを使っている可能性はあります。でも、単純にソフトの最善手を並べているだけとも思えない。序盤の妙な癖や、攻め方の感覚まで似ているという声もあるんです』
画面が対局棋譜に切り替わった。盤面の上を矢印が走り、配信者がいくつかの手を解説していく。
『さらに、このアカウント、対局以外ではほとんど活動しません。誰とも交流しないし、感想戦もしない。ところが、ある日の対局終わりにたった一言だけ投稿したんです』
画面に文字が表示された。
――龍王は何処だ?
「……何これ」
蓮が言った。
「変でしょ?」
「まあ、変だけど」
「でしょ」
莉央は画面を見つめたまま、少し身を乗り出した。
「死んだ人間が、ネット将棋に戻ってくることってあると思う?」
「あるわけないだろ」
蓮はあっさり答えた。
「だよね」
莉央は笑った。しかし、視線は画面に残ったままだった。
「莉央は信じてるんだろ? 占いとかスピ系好きだもんな」
蓮がからかうように言った。
「好きと信じるは別でしょ」
「そうなの?」
「そうだよ。私も面白がってるだけで信じてはない」
「へえ。面白がってるだけ?」
面白がってるだけで自分に話を振るだろうか? 蓮が訝しげな表情で莉央を見る。
「今のところはね」
莉央は画面をスクロールし、動画のコメント欄を開いた。
「でも、これが本当にマジで幽霊だったら?」
「マジで幽霊だったとしたら、死んでも将棋を指すなんてプロの鑑だなぁって思うかな?
「プロの鑑?」
莉央が聞き返す。
「俺は死んで化けて出たとしたら、もうレスリングなんてやらんぜ。まぁ、俺のレスリングは学生スポーツだからプロじゃないけどな」
「なら、蓮が幽霊になったら何をするの?」
「まず、莉央に会いにいくだろ? その後は地元に戻って家族に会って、仲間と会って、満足したら成仏するかな?」
蓮の言葉を聞いて莉央は嬉しそうに笑った。
「へぇ、会いにきてくれるんだ」
「勿論。そしたら交通費が一人分で済むから飛行機乗って海外旅行でもするか?」
「良いね。韓国行きたい」
「行くならソウルだな。釜山は嫌だよ前にレスリングの合宿で行ったから」
「ソウル良いじゃん。ウヨンウ弁護士の聖地巡礼したい」
少し前に莉央がハマっていた韓国ドラマだ。
「良いけど、側から見たら女の一人韓国旅行で宙に向かって喋ってるヤバい奴になるな」
蓮がその様子を想像して笑った。蓮は昔からこうだった。占いも心霊現象も、話の種としてなら付き合うが、本気で信じる気はまるでない。神社に行けば普通にお参りはするし、怪談を聞けば面白がりもする。それでも、何か不思議なことが起きたからといって、すぐに超常現象のせいにすることはなかった。
「で、その聖川なんとかって言う棋士の幽霊がどうしたんだ? ファンだったのか?」
蓮が脱線した話を元に戻す。
「ファン? 私が?」
驚いた様に莉央が聞き返した。
「その口振りだと嫌いな棋士だったんだ。莉央が尊敬してる棋士と仲が悪かったとか?」
蓮が莉央の声のトーンや表情から負の感情を読み取った。
「うーん。まぁそんな感じかなぁ」
何故か何処か答えにくそうに言った。
「で、その聖川って人は何年前に死んだんだっけ?」
「9年前」
「そしたら、死んでから9年も経って化けて出るのは不自然だし、幽霊じゃなくてAIじゃないの? このYouTubeが言う通り」
蓮が冷静に返した。
「まあ、流石に私も幽霊じゃないとは思うんだけどね」
「じゃあ何なんだよ」
「それを今から調べるの」
「ふうん。頑張って」
蓮は興味があるのかないのか分からない声で言い、タブレットに目を戻した。
「でも、もし本当に幽霊だったら?」
莉央が妙に深刻そうな顔をしているのが蓮には気に掛かった。
「本当の幽霊?」
「本当の幽霊」
「それがもし、莉央になんか悪さをするなら塩撒いて除霊してやるよ」
蓮が冗談めかして言った。
「私に悪さしたら?」
莉央が聞き返す。
「そう。莉央と無関係なら俺とも無関係だからネットで好きに将棋貰っても良いだろ?」
「へぇ。私に悪さするなら塩撒いてくれるんだ」
「何処に塩撒けば良いのか分からないけどな。ルーター? LANケーブル?」
「何それ」
莉央は笑った。蓮も少しだけ口元を緩めたが、すぐにタブレットへ視線を戻した。
彼にとっては、いつもの冗談の延長にすぎない。
莉央は画面に表示されたアカウント名をもう一度見つめた。
@HijirikawaKoji
笑いは、いつの間にか消えていた。
「よし、学食行くぞ」
深刻そうな顔をする莉央に気付いて、蓮は話を変える様に声を掛けた。
「さっき、ケバブ食べてたじゃん」
「あんなんオヤツだろ?」
二人が付き合い始めて、三年になる。
出会いは大学一年の春、一般教養の「栄養学」の授業だった。たまたま近くの席に座ったのが最初である。
蓮はレスリングの推薦で入学した、いわゆるスポーツ推薦組だった。身体を動かすことには自信があったが、勉強は別だった。とりわけ高校時代に化学をまともにやっていなかったせいで、栄養素の代謝やら化学式やらが出てくると途端に怪しくなる。出席はしていたものの、試験が近づく頃には単位を落としかねないところまで追い詰められていた。
それを見かねた莉央が、ちょっとした助け舟を出した。講義のノートを見せ、分からないところを説明してやったのである。蓮は礼を言い、莉央は別にいいよと答えた。それだけのことだった。
もともと、二人とも相手に強い第一印象を抱いたわけではない。蓮は莉央を、頭の回転が速くて妙に物怖じしない女だと思った。莉央は蓮を、身体ばかり大きいわりに、分からないことを分からないと素直に言える男だと思った。
その後も講義で顔を合わせ、昼食を一緒に食べることが増え、気づけば休日にも会うようになっていた。どちらかが積極的に口説いたわけでもなければ、告白の日に世界が変わったわけでもない。友達として一緒にいるのが楽で、異性だからといって妙に意識することもなかった。付き合い始めたのも、そんな関係の延長だった。
いわゆるラブラブなカップルだった時期は、たぶん最初からなかった。
もちろん、互いに恋人としての好意はある。けれど、四六時中一緒にいたいわけでも、相手の行動をいちいち把握していたいわけでもない。会いたければ会うし、別々に過ごしたければそうする。連絡がしばらく途絶えても気にしないし、久しぶりに会っても昨日の続きのように話せる。
恋人というより、気の合う友達に恋人という肩書きがついたような関係だった。
そして三年が経った今も、二人はそれを特に不思議だとは思っていなかった。




