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パパ  作者: 磯野山頭火
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序章 龍王は何処だ?

 絶対にパパを許さない。

 あの病院のベッドの上で、きっと、私はパパを一生許す事はないんだと思って過ごしていた。

 親友を殺したパパを、身勝手に一人で死んだパパを、私を傷つけたパパを、多分永遠に許すことなんか出来ないんだと思っていた。

 子供の私にとって、パパの存在はあまりにも大き過ぎたから。

 けど、恨みを抱えて生きていくには一生はあまりにも長すぎる。

 恨みも憎しみも悲しみも全部、時間の流れと共に風化していく。

 大人になり、友達が増え、彼氏が出来て自分の人生を歩くようになり、いつしか思い出すこともなくなっていた私のパパ。

 私は貴方を許さないけど、その魂が現世を彷徨っているのなら、どうか安らかに成仏してください。


 古来より優れた才能を持ちながらそれに溺れて身を滅ぼす例は少なくない。

 隋の煬帝はその最たる一人であった。若き日の楊広は、南朝を平らげる総帥として軍を統べ、華やかな江南の文化を吸収しつつ、天下を再統一する礎を固めた。即位すれば巨大な運河を穿って南北を結び、洛陽を東都として整え、科挙の制を定めて門閥を超えた人材登用の道を開いた。自らも詩文に優れ、美しく響く言葉を紡いだ。才覚は疑いようもなかった。だがその才が生んだ過信は、やがて制御を失った。民の疲弊を顧みず大事業を重ね、高句麗への遠征を繰り返しては国力を削ぎ、豪華な龍舟に乗って運河を下るたび、飢え疲れた民衆の視線を背に受けた。反乱の火が各地で燃え上がる中、江都の行宮で彼は酒に溺れ、現実から目を逸らし続けた。そして最後、叛軍の手にかかり、首を絞められて果てた。才能が開いた道を、性格の傲慢さが塞いだ末路であった。

 江戸時代の平賀源内もまた、同様の道を辿った。讃岐に生まれたこの男は、本草学に精通し、西洋の知識を貪欲に取り込み、エレキテルを復元して静電気の不思議を人々の前に示した。鉱山の技術を導き、戯作を書き、風刺の筆で世を嘲り、洋画の技法まで試みた。一つの分野に留まらぬ万能の才は、同時代の識者たちを驚嘆させた。しかしその精神は常に落ち着きを欠いていた。興味の赴くままに手を広げては途中で放り出し、周囲との摩擦を繰り返した。晩年、酒に酔った夜、大切な図面を盗まれたと勘違いし、大工を斬りつけてしまう。誤解に気づいたときにはすでに手遅れで、彼は自ら奉行所に出頭し、牢に繋がれた。傷口から病を得て、獄中で息を引き取ったのは五十二歳の時であった。天才の名をほしいままにしながら、衝動という名の鎖に足を取られ、無残に沈んでいった。

 ルネサンスのイタリアに生きたジロラモ・カルダーノも例外ではなかった。医師であり、数学者であり、占星術師でもあったこの男は、代数方程式の解法を世に示し、確率の概念を先駆けて論じ、医学の実践でも名を馳せた。ダ・ヴィンチの友人の子として生まれ、複雑怪奇な人生を送りながらも、知の探究において比類なき光を放った。だがその頭脳を支配していたのは、賭博への異常な執着であった。カードや骰子に身を投じ、勝ちたいがために数学を磨き、しかしその欲望が逆に彼を蝕んでいった。財産を失い、名誉を傷つけ、家族との絆も壊れていく。晩年は息子の処刑や自身の投獄に苦しみ、予測した「命日」に自ら命を絶ったとも伝えられる。天才の計算は、自らの破滅までは正確に見通せなかった。

 三人に共通するのは、世を動かすほどの才覚を持ちながら、その才覚を制御する器が脆かったことである。運河を開き、電気を操り、方程式を解いても、自分自身の心の闇までは計算できなかった。輝かしい業績の影で、彼らは静かに、しかし確実に転がり落ちていったのである。


 9年前に無理心中を図って自死した棋士、聖川広司もその一人だったかもしれない。聖川は天才だった。弱冠16歳で三段リーグを突破してプロ棋士となり、19歳で初めてタイトル戦に挑戦。22歳にして順位戦B級1組への昇級を果たし、七段に昇段した。長い将棋界の歴史において、十代でプロ入りする者も、二十代前半でタイトル戦に挑む者も決して珍しくはない。しかし、聖川広司という男は、その若さに似つかわしくない華やかさと危うさを兼ね備えていた。

 整った顔立ちに、すらりと伸びた長身。盤の前では鋭い眼光で対局相手を射抜き、ひとたび笑えば人懐こい少年のような表情を見せる。棋士としては珍しく女性ファンが多く、テレビ番組への出演にも積極的だった。将棋を知らない若い女性たちにまで名前を知られ、対局の勝敗とは関係のないところでも注目を集める。そんな棋士は、当時の将棋界では異色の存在だった。もっとも、彼の名を世間に広めたのは、盤上での活躍だけではなかった。酒、ギャンブル、借金、そして女性関係。聖川は、棋士としての将来を嘱望される一方で、私生活の奔放さでも知られていた。テレビ番組で共演したアイドルに手を出し、週刊誌に写真付きで報じられたことさえある。本人はさして悪びれる様子もなく、次の番組にも平然と出演した。騒動を起こしては世間を賑わせ、しばらくすると何事もなかったかのように盤の前へ戻る。その繰り返しだった。

「俺は七冠取るから。年収だって億は軽いだろ」

 二十代の聖川は、酒の席でそんなことを平然と言ってのけた。大言壮語と笑う者もいたが、当時の彼には、それを信じさせるだけの実力があった。十代でプロ入りし、二十代前半でA級棋士への道を視界に捉えた男である。あと一歩、あと一段、あと一つ勝ち続ければ、将棋界の頂点に手が届く。少なくとも、本人はそう信じて疑わなかった。

 二十四歳のとき、聖川は交際していた女子アナウンサーを妊娠させ、結婚した。

 娘が生まれた。これで少しは落ち着くだろう。周囲には、そんな期待を抱く者もいた。しかし、子供が生まれたところで、人間の根っこまで変わるわけではなかった。聖川の生活は相変わらずだった。対局に勝てば豪遊し、負ければ酒を飲む。金がなくなれば借り、女遊びをやめることもなかった。家庭を持ったという自覚は、少なくとも彼の生活を改めさせるほどには強くなかったらしい。

 三十歳を迎える頃までに、聖川は何度かタイトル戦に挑戦した。しかし、あと一歩のところで頂点には届かなかった。才能が枯れたわけではない。盤上で見せるひらめきは、依然として超一流のそれだった。ただ、将棋というものは、天才が一度閃けば勝てるほど単純ではない。何年にもわたる研究、日々の節制、対局に向けて心身を整える地道な積み重ねが必要になる。聖川には、その当たり前のことを続けるのが難しかった。

 勝負に負けると酒を飲んで暴れた。翌朝になっても酒が抜けず、研究会をすっぽかす。金を使い果たし、借金を重ねる。ようやく対局に臨んでも、かつてのような集中力は長く続かなかった。好調なときには強豪を相手に鮮やかな勝利を収める一方、信じられないような見落としで敗れることも増えていった。将棋界は、彼の才能を惜しんだ。だが、才能を惜しむことと、本人の代わりに努力することは別だった。

 そして、聖川の妻もまた、彼の人生を立て直すことはできなかった。娘が小学校に上がったばかりの頃、妻は新しい男と家を出ていった。幼い娘を残してのことだった。聖川が何を言い、妻が何を思って家を出たのか、詳しい事情を知る者は少ない。ただ、妻にとって、あの生活が耐え難いものであったことだけは確かだった。夫の才能を信じ、いつかは変わると期待し、何度も失望する。その繰り返しに、とうとう耐えられなくなったのだろう。

 妻が去ったあと、聖川はさらに酒に溺れた。対局に負けては飲み、飲んでは負けた。順位戦では降級を繰り返し、かつて七段まで一足跳びで駆け上がった男は、少しずつ棋士としての居場所を失っていった。時折、往年の才能を思わせる一局を指すこともあったが、それはもはや復活の兆しというより、失われたものの残響に近かった。かつて七冠を取ると豪語した男は、いつしか自分の将来について何も語らなくなった。

 娘が中学校に入学したばかりの春、聖川広司は死んだ。娘を乗せて運転していた車で、大型トラックに正面から衝突したのである。事故だったのか、あるいは、初めから帰るつもりのない運転だったのか。警察の調べがどこまで及んだのか、世間がどれほど騒いだのか、将棋界が彼の死をどう悼んだのか。それらは、やがて時間の中に埋もれていった。ただ一つ確かなのは、聖川広司が四十にもならない若さで、将棋盤の外にまで広がっていた自分の可能性を、何一つ使い切ることなく死んだということだった。七冠も、億の年収も、彼が口にした未来も、とうとう現実にはならなかった。

 聖川が事故を起こした車の助手席に座っていたのは、彼の才能を受け継いだ娘だった。娘が将棋を覚えたのは、三歳の頃だった。酔った聖川が、帰宅してから幼い娘を膝に乗せ、将棋盤を広げたのが始まりだった。最初は、駒を並べて遊ぶ程度のつもりだったのだろう。ところが、娘は父親の説明を驚くほど素直に吸収した。駒の動かし方を覚え、勝敗の仕組みを理解し、やがて自分から次の一手を考えるようになった。聖川は面白がった。

「へえ。お前、頭いいな」

 娘が駒を動かすたび、聖川は大げさに驚いてみせた。もちろん、勝負になれば話は別だった。相手は十代でプロ入りし、二十代前半でタイトル戦に挑んだ男である。どんなハンデを付けても三歳の娘に負けるはずもない。それでも、娘の前で一方的に勝ち続けるような真似はしなかった。

 わざと一手待ち、簡単な罠を仕掛け、娘が自分で正解にたどり着くのを待った。うまい手を指せば褒め、失敗すれば、どこが悪かったのかを丁寧に教えた。

「そうだ。よく気がついたな」

 娘が嬉しそうに笑うと、聖川も笑った。

 酒に溺れ、借金を重ね、女性関係の騒動で週刊誌を賑わせる男だった。棋士としても、次第に自分を律することができなくなっていた。それでも、娘に将棋を教える時間だけは違った。娘が眠ったあと、一人で将棋盤に向かうこともあった。娘が間違えた局面を並べ直し、どう説明すれば理解できるだろうかと考えた。自分の研究すら満足に続けられなくなっていた男が、娘のためなら手間を惜しまなかった。

 娘には、間違いなく才能があった。相手の手を見て、その先に何が起こるのかを考える。教えられた手順を丸暗記するのではなく、なぜその手がよいのかを自分なりに理解しようとする。負ければ悔しがり、同じ失敗を繰り返さないように工夫した。あの聖川であっても、そんな娘の成長を誰よりも喜んだ。

 小学四年生で出場した小学生名人戦では、並み居る強豪を破って決勝に進み、準優勝を果たした。奨励会に入会してからも、昇級・昇段を順調に重ねていった。娘の活躍を聞くたび、聖川は誇らしげに笑った。自分の対局がどれほど不調でも、娘の将棋だけは気にかけていた。中学校への入学を目前に控えた春、娘は初段に昇段した。女性がプロ棋士になることは、きわめて困難だった。それでも、将棋界の関係者たちは彼女に大きな期待を寄せていた。このまま順調に成長すれば、女性初のプロ棋士も夢ではない。そんな評価を受けるほどの逸材だった。

 聖川広司が死んだ。新聞に無理心中と書かれた事故で命を落とした。そして、彼が誰よりも愛し、その才能を信じた少女もまた、将棋界から失われた。七冠も、億の年収も、父娘が夢見た未来も、とうとう現実にはならなかった。将棋界は、一人の破天荒な天才棋士と、その血を受け継いだ、もう一人の圧倒的な天才を失ったのである。


 死んだはずの聖川広司が、亡霊となってネット将棋の世界に現れたのは、わずか二か月前のことだった。将棋対局サイトに、@HijirikawaKojiというアカウントが突如として出現した。特別な宣伝もなければ、自己紹介もない。ただ、ひたすら対局を繰り返し、相手を打ち負かしていった。

 最初は、誰かの悪質なイタズラだと思われた。故人の名前を勝手に使い、将棋ファンの気を引こうとしているのだろう。あるいは、熱心なファンが故人を偲んで作ったアカウントなのかもしれない。ネット上には、そうした憶測が飛び交った。

 しかし、対局数が増えるにつれて、誰もが無視できない奇妙な事実が浮かび上がってきた。

 その棋譜が、あまりにも聖川広司そのものだったのである。

 聖川は、居飛車党でも振り飛車党でもなかった。相手がどんな戦法を採用しようと、自分がどんな戦型を指すかは、その日の気分次第。定跡に忠実な将棋を指したかと思えば、次の対局では奇抜な作戦を繰り出す。序盤の構想は独創的というより、悪く言えば研究不足で、時にはプロ棋士がわざわざ採用するとは思えない、アマチュア好みの戦法さえ平然と使った。

 だが、聖川の将棋は序盤だけでは終わらなかった。中盤から終盤にかけての読みの正確さは、並の棋士とは一線を画していた。序盤に多少の不利を背負おうと、あるいは無理に見える攻めを仕掛けようと、局面が複雑になるほど、その指し回しは鋭さを増していく。相手のわずかな綻びを見逃さず、気がつけば逃げ道を塞ぎ、最後には鮮やかに仕留める。定跡の知識や事前研究だけでは説明できない、盤上の瞬間的な判断力。それこそが、聖川広司という棋士の持ち味だった。

 たとえば、カニカニ銀。

 玉をろくに囲わないまま、序盤から攻め駒をかき集め、銀を繰り出して一気に攻勢に出る。現代のプロ棋士が好んで採用するような、洗練された戦法とは言い難い。だが、聖川は気まぐれにこの戦法を採用し、終盤の正確無比な差し回しで相手を粉砕することがあった。戦法そのものの優秀さよりも、それを指す人間の力が勝敗を決めてしまう。そんな将棋だった。

 ネット将棋に現れた謎のアカウントは、まさにその将棋を指していた。序盤の奔放さ。奇妙な戦型選択。定跡から外れることを恐れない構想。そして、終盤に入った途端、別人のように精密になる読み。かつて聖川が残した棋譜を知る者ほど、その一致に戦慄した。

 もちろん、将棋AIを利用したイタズラだという見方が大勢を占めていた。過去の棋譜を学習させ、聖川らしい手を再現することくらい、技術的には不可能ではない。本人の指し手を模倣するプログラムを作った、あるいはAIの指し手を故人の棋譜に似せて選んでいる。そう考える方が、死者がネット将棋に蘇ったと考えるより、はるかに合理的だった。それでも、対局を重ねるごとに、冗談半分だったはずの噂は奇妙な熱を帯びていった。あれは本当にAIなのか。それとも、十年前に死んだ棋士が、どこかから盤上に戻ってきたのではないか。ネット将棋の世界では、いつしか囁かれるようになっていた。

 聖川広司の亡霊が、帰ってきたのだと。

「龍王は何処だ?」

 それが唯一亡霊が発した言葉だった。チャットでも、亡霊は何も語らなかった。対局後の感想戦には応じず、どのアカウントともフレンドにならない。話しかけられても返事はなく、ただ将棋を指し続ける。十年前に死んだはずの男は、まるで盤上にしか居場所がないかのようだった。そんな彼が、ある日、たった一言だけ呟き、それきり、亡霊は再び沈黙した。

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