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その夜、金田は自室のデスクで、夢人の記憶を辿ったときに見えた光景を、何度も反芻していた。
あれは、教会のような場所だった。ステンドグラスから差し込む光の中、夢人が、二人の男に取り囲まれていた。何が行われていたのか、その詳細までは掴みきれなかったが、夢人が激しい性的暴行を受けていたことだけは、はっきりと見て取れた。そして、その直後__夢人の顔つきが、まったく別の顔へと変わる瞬間があった。次の記憶では、全身血まみれで倒れ伏す二人の男の姿と、その傍らに、これまで見たどんな夢人とも違う表情で立ち尽くす、もう一人の「夢人」がいた。
金田は、その記憶の断片を、資料に書き起こしながら、一つの可能性に行き着いていた。
__矢吹夢人には、解離性の人格が存在するのではないか。
もしそうであれば、彼が起こした事件の一部は、本人の意志とは切り離された状態で行われたものだということになる。それは、量刑を左右しうる、重要な事実だった。
金田はその日から、正式に裁判のやり直しを求めて動き始めた。弁護士や精神鑑定医と連携を取り、記憶の中で見た情景を、慎重に、しかし粘り強く裏付けていった。
並行して、取調室での面談も重ねられた。
ある日の面談中、夢人はふと、これまでとは違う話し方を見せた。声のトーンがわずかに低くなり、視線の動かし方が変わり、「僕」と言っていた一人称が、一瞬「俺」に変わった。それはほんの数秒のことだったが、明らかに異質な人格の兆候だった。
金田は、その様子を密かに録画していた。
「__さっき、俺って言ってたこと、覚えてる?」
面談の後、金田がそう尋ねると、夢人は不思議そうに首を傾げた。
「何のことですか」
その反応もまた、記憶の断絶という、もう一つの証拠だった。
金田はその映像を、精神鑑定医の分析結果とともに、裁判の場に証拠として提出した。
法廷には、これまで表に出ることのなかった、夢人の過去の傷と、その傷が生んだもう一つの人格の存在が、静かに、しかし確かな重みを持って、示されていった。
傍聴席の隅で、金田はその様子を見守りながら、ただ静かに、判決の行方を待っていた。
裁判官が量刑に関わる所見を読み上げている最中、夢人の様子に、微かな変化が現れた。俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。その目の色が、傍聴席からもわかるほど、これまでの静かなコバルトとは違う、鋭い光を帯びていた。
「――夢人君?」
夢人の隣に座っていた弁護人が、異変に気づいて声をかけたときには、もう遅かった。
白髪の青年は突如として立ち上がり、拘束されていた手錠の鎖を振り払うようにしながら、裁判官席へと駆け出した。
「俺は無罪だ!減刑じゃ納得できない!」
その声は、これまで金田が聞いてきたどんな夢人の声とも違っていた。低く、荒々しく、抑えきれない怒りに満ちていた。
法廷内に悲鳴と怒声が入り混じる中、居合わせた警備員たちが、すんでのところで夢人の体を取り押さえた。もがき、暴れる夢人の目は、なおも裁判官を睨みつけたまま、焦点の合わない鋭さを放ち続けていた。
「離せ!!」
やがて、その声も次第に力を失い、夢人の体から抵抗の力が抜けていった。数十秒後、彼は糸が切れたようにその場に崩れ落ち、荒い呼吸だけを繰り返していた。目に映るコバルトの色は、いつのまにか、元の静けさを取り戻していた。
「ん…?」
夢人は、朦朧とした様子で、自分を取り押さえる警備員たちの手と、騒然とした法廷の様子を、交互に見回した。その表情には、明らかな困惑と、直前までの記憶の欠落が滲んでいた。
法廷内は、しばらく騒然としたままだったが、この一連の出来事は、皮肉にも、金田たちがそれまで積み上げてきた主張を、何よりも雄弁に裏付ける結果となった。
精神鑑定医は、この場での挙動を「解離性同一性障害における、もう一つの人格の顕在化」だと所見に加えた。裁判官自身がその目で目撃した「制御不能な別人格の出現」は、これまでのどんな証言よりも、強い説得力を持っていた。
数週間後に言い渡された判決は、当初想定されていたものより、大幅に軽減された刑期だった。
閉廷を告げる木槌の音が、法廷内に静かに響いた。金田は、ゆっくりと息を吐き出した。長い戦いに、ようやく一つの区切りがついた瞬間だった。
♢
判決から数日後、金田は久しぶりに夢人の独房を訪れた。
「金田さん」
夢人は、鉄格子の向こうから、これまでにない柔らかな表情を浮かべていた。
「ありがとうございました」
その声とともに、夢人は金田に歩み寄り、鉄格子の扉を開けた男に抱きついた。
金田はその小さな体を受け止め、ゆっくりと頭を撫でた。
「よく、頑張ったね」
しばらくの間、二人は語り合い、金田は夢人の自由を約束した。
窓のない部屋の中に、静かな安堵だけが満ちていた。
「それじゃ、またね」
金田がそう言って身を離すと、夢人は小さく頷いた。
「はい、また」
金田は鉄格子の扉を閉め、鍵をかけた。その金属音が響いた、ちょうどそのとき__夢人の腕にできた、まだ新しい切り傷が、金田の目に留まった。
「夢人くん、その腕の傷は?」
「ああ、これは、裁判官に殴りかかろうとしたときについたものです」
夢人は、何でもないことのように答えた。
「……」
金田は、その場に凍りついたように動きを止めた。
「裁判官に殴りかかろうとしたこと」
金田の声が、かすかに震えた。
「君が覚えてるはずない」
あの人格の切り替わりは、記憶の断絶を伴うはずだった。事実、直後の夢人は、何が起きたのかまったく把握していない様子だった。それが、この状況を裏付ける、最も重要な証拠の一つだったはずだ。
夢人は、しばらく無言のまま、金田の顔を見つめていた。
それから、肩を小さく震わせながら、笑い始めた。
「今までありがとう」
夢人は、笑いを堪えきれない様子で言った。
「あんたのおかげで、助かった」
「……」
金田は、言葉を失っていた。
「施設の奴らに汚されたことは、嘘じゃない」
夢人は、笑みを浮かべたまま続けた。
「俺がやったことは、正当防衛…だろ?金田さん」
その口調も、視線の動かし方も、先ほどまでの夢人とは、明らかに違っていた。それがもう一つの人格なのか、それとも――最初から、青年は二重人格ではなかったのか、金田にはもう、判別がつかなかった。
金田は、白髪の青年を前に、何も言えなかった。
ただ、彼に静かに背を向け、独房を後にする。
重い足音が、地下の廊下に響き渡る。
その背中を追いかけるように、夢人の笑い声が、いつまでも地下室の中に、乾いた反響を残し続けていた。




