10
二十歳になった夢人が出所した、その日のことだった。
刑務所の出入り口の近くで、一人の男が待っていた。アロハシャツを着た金田だった。彼の背後には、黒い車が一台、静かに停められていた。
夢人は金田の姿を見ると、その場で立ち止まり、深く頭を下げた。
「お久しぶりです」
しばらくそのままの姿勢を保ってから、夢人はゆっくりと顔を上げ、金田を見た。コバルト色の瞳が、日の光を受けて淡く輝いていた。
金田は表情を変えないまま、夢人に歩み寄ると、片手を差し出した。
「久しぶり」
夢人はその手を握った。
だが次の瞬間、金田は夢人の手を強引に引き、そのまま車の方へと連れていった。
「どういうつもりですか?」
夢人が戸惑いの声を上げた。
「君が二重人格ではないことは、わかってる」
金田は淡々と言った。
「……」
夢人は何も言わず、ただ金田の横顔を見つめていた。
「上層部からの指示だ、君をこのまま自由にする訳にはいかない」
金田は続けた。
「君にはしばらくの間、警視庁が管理するマンションに住んでもらうから、よろしく」
「……ふざけるな」
夢人の声に、初めて感情らしいものが滲んだ。
「……」
「せっかく自由になれたのに…」
夢人は金田を睨むように見た。
「また閉じ込める気ですか?」
「いや」
金田は首を横に振った。
「刑務所よりずっと自由だ。外出しても問題ない」
「追跡装置が体の中にあるから、どこに逃げても問題ないってこと?」
そう言って、夢人は苦笑を浮かべた。
「いや」
金田はそれを否定した。
「これから君を病院に連れていって、それはとってもらう」
夢人は驚いたように金田を見た。
「上層部に怒られるだろうけど、責任は僕がとるから大丈夫」
車のドアの前で、夢人はふと足を止めた。
「…金田さん」
「ん?」
「二重人格だって、だましたこと、あやまります」
夢人の声は、いつになく静かだった。
「牢屋のなかで、殴ったことも…、ごめんなさい」
金田はしばらく夢人の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「いいよ」
金田は言った。
「もうとっくに、僕は君を許してる」
♢
病院の処置室で、夢人は首元の小さな傷口に麻酔を打たれていた。医師の手によって、長年埋め込まれていた追跡装置が、慎重に取り出されていく。
金属特有の小さな音を立てて、それが皿の上に置かれた瞬間、夢人の体から、目に見えない何かがすっと抜け落ちたように見えた。
夢人はゆっくりと天井を見上げた。
それから、そのまま両手を軽く組み、まるで祈りを捧げるかのように、天を仰いだ。
「ああ、神様…」
その声は、微かに震えていた。
「自由をあたえてくださり、ありがとうございます」
処置をしていた医師は、その光景に戸惑いを隠せなかった。ついさっきまで冷静に処置を受けていた患者が、突然天を仰いで神に感謝し始めるという状況に、どう反応していいかわからない状態だった。
傍らで様子を見ていた金田は、その一部始終を眺めながら、思わず苦笑いを浮かべた。
処置が終わると、夢人は首元にガーゼを当てられたまま、金田とともに病院を後にした。車に乗り込み、窓の外を流れていく景色を、夢人は珍しく興味深そうに眺めていた。長らく失っていたものを、少しずつ取り戻していくような、そんな時間だった。
やがて車は、都心の一角にそびえる、ひときわセキュリティの高そうな高層マンションの前に到着した。エントランスには警備員が常駐し、ゲートには物々しいセキュリティゲートが設置されている。警視庁が直接管理しているというだけあって、一般のマンションとは明らかに違う緊張感が漂っていた。
夢人は車を降りると、見上げるようにその建物を眺めた。コバルト色の瞳に、高層階まで続くガラス張りの壁が映り込んでいた。
金田と夢人が建物の中に入り、エレベーターに乗り込む。
二人を乗せたエレベーターは音もなく上昇していき、やがて最上階で静かに止まった。扉が開くと、廊下の奥に、重厚な扉が一つだけあった。
「あそこが、僕の部屋ですか?」
夢人が尋ねると、金田は小さく頷いた。
金田がカードキーをかざすと、電子ロックの解除音とともに、玄関の扉が開いた。
夢人は少し緊張した面持ちで、部屋の中へと足を踏み入れた。
リビングに広がっていたのは、想像していたよりもはるかに広々とした空間だった。大きな窓からは、街の景色が一望できる。夢人の目が、珍しく子供のように輝いた。
「わぁ…」
思わず声が漏れた。部屋の隅から隅まで、興味深そうに視線を巡らせていく。
だが、しばらく見回しているうちに、夢人はふと違和感に気づいた。ソファの上に無造作に置かれた上着、キッチンに並んだ二人分のマグカップ、玄関にあったもう一組の靴。明らかに、誰かがすでにこの部屋で生活している形跡があった。
夢人の表情から、先ほどまでの高揚感がすっと引いていった。
「……まさか」
夢人はゆっくりと金田の方を振り返った。
「一人暮らしではなく、誰かと一緒に住む感じですか?」
「そうだよ」
金田はあっさりと認めた。
「……誰と?」
夢人が尋ねると、金田は特にためらう様子もなく、自分自身を指差した。
その仕草を見て、夢人はしばらく言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
「いやだあああああ!!」
夢人は両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。普段の淡々とした様子からは想像もつかない、素直な感情の爆発だった。
「僕だって、一人の方がいいに決まってる」
金田は肩をすくめながら言った。
「だけど、警視総監が決めたことだから、従うしかない」
夢人はそのまま、力尽きたように床にうつ伏せで倒れ込んだ。
頬を床につけたまま、くぐもった声で呟いた。
「……僕は、いつまでここに?」
「わからない」
金田は正直に答えた。
「だけど、まあ、君が問題を起こさず大人しくして、なおかつ善い行いをすれば、早く出られるんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、夢人はぴたりと動きを止めた。
しばらく床に伏せたまま考え込んでいたが、やがて勢いよく起き上がった。
「なら、そうします!」
夢人はきっぱりとそう言うと、すっくと立ち上がり、腕まくりをするようにして部屋の片付けを始めた。ソファの上の上着を丁寧に畳み、散らかっていた雑誌を整頓し、テーブルの上を拭き始める。その手際の良さと切り替えの早さに、金田はただ呆然と、その背中を見つめることしかできなかった。
♢
時刻は午後四時を回っていた。夢人がリビングの片付けに没頭している間、金田はキッチンに立ち、手早く夕飯の支度を始めていた。焼き魚の香ばしい匂いと、出汁の優しい香りが、次第に部屋全体に広がっていく。
「夕飯できたよ」
金田の声に、夢人は片付けの手を止め、テーブルへと向かった。白米、味噌汁、焼き鮭、それに煮物の小鉢が並べられているのを見て、少しだけ目を見開く。
二人は向かい合って座り、静かに食事を始めた。窓の外には、夕暮れ前の柔らかな光が差し込んでいた。
「夢人くんは、これから何かやりたいことある?」
金田が箸を止めて、優しく尋ねた。
夢人はしばらく考えるように箸を止め、やがて静かに口を開いた。
「……人の心を救える、刑務官になりたいです」
その言葉には、これまでの淡々とした調子とは違う、確かな熱が込められていた。
金田は少し驚いたように夢人を見つめたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、必要な資格や試験、経歴上の制約などを、一つひとつ噛み砕くように丁寧に説明していった。夢人はその言葉に、味噌汁を飲む手を止め、真剣な眼差しで耳を傾けていた。
説明を終えると、金田は箸を置き、まっすぐに夢人を見た。その声は、いつになく穏やかだった。
「その夢が叶うように、僕が君をサポートするよ」
その言葉に、夢人の表情がぱっと明るくなった。コバルト色の瞳に、これまで見たことのないような、素直な喜びの色が浮かんでいた。
「本当ですか?」
「うん、ほんと」
金田は微笑みながら、優しく頷いた。
夢人も小さく、けれど確かに微笑んだ。焼き鮭に箸を伸ばしながら、窓の外では、夕暮れの光が少しずつ、部屋の中を茜色に染め始めていた。




