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夢人は夕飯を食べ終えると、自分の食器を持って立ち上がり、キッチンで丁寧に洗い始めた。水音だけが静かに部屋に響いていた。
その間に金田は浴室に向かい、お湯を張る準備を始めた。
しばらくすると、浴槽が満たされた音が聞こえてきた。
「お風呂、わいたよ」
金田がリビングに戻ってきて言った。
「先に入っておいで」
「着替えは?」
夢人が尋ねた。
「脱衣所に、全部用意してある」
そう言うと、金田は廊下の奥へと夢人を案内し、一つの扉の前で足を止める。
「君の部屋は、ここ」
金田が扉を開け、夢人は中に足を踏み入れた。
部屋の中には、シンプルなベッドと、木製のクローゼット、それに机と椅子が置かれていた。まだ新しい木の匂いがかすかに漂っている。夢人はゆっくりと部屋を見渡した後、クローゼットに近づき、その扉を開けた。
中には、夢人のために用意されたのであろう服が、丁寧に十着ほど並べられていた。サイズも、色合いも、まるで最初から夢人のために選ばれたかのように整っていた。
夢人はしばらくその服の並びを見つめていたが、やがて振り返り、金田に向かって小さく頭を下げた。
「素敵な服を、ありがとうございます」
その声には、これまでにない柔らかな響きがあった。
そのまま夢人は、脱衣所へと向かって歩いていった。
♢
シャワーの湯が、夢人の体を静かに伝っていった。湯船に体を沈めると、水面に映る自分の体を、ぼんやりと見下ろした。
数えきれないほどの傷跡が、そこかしこに刻まれていた。古いものも、まだ新しいものも。それぞれが、これまでの人生の断片を物語っているかのようだった。
夢人は小さく、ため息をついた。湯気の中に、その吐息はすぐに溶けて消えていった。
リビングでは、金田が一人、窓の外に広がる夜景を眺めていた。無数の光が、街を埋め尽くすように瞬いている。その光を見つめながら、金田の頭の中には、昨夜、警視庁で交わされたある会話が蘇っていた。
「話って、なんですか?」
金田がそう尋ねると、風間は表情一つ変えずに切り出した。
「矢吹夢人は、広瀬という編集者の男の過去を、言い当てたそうだ」
「……」
金田は無言だった。
「矢吹は、能力者なのか?」
風間の目には、探るような鋭さがあった。金田はそれに答えることができず、ただ黙り込んでいた。
「矢吹が能力者なら…」
風間は淡々と続けた。
「全ての記憶を消し、私の元へ連れてこい」
その言葉が、今も金田の耳の奥に、冷たく残っていた。
金田がその記憶に沈み込んでいると、背後で足音がした。
振り返ると、寝巻き姿の夢人が、脱衣所からリビングへと歩いてきていた。
濡れた白髪が、しっとりと額に貼りついている。
「お風呂、ちょうどいい湯加減でした」
と夢人。
「それは、よかった」
金田はそう言って、脱衣所の方へ向かおうとした、その時だった。
夢人が、金田の服の裾を、そっと引っ張った。
「なに?どうしたの?」
金田が振り返ると、夢人はまっすぐに金田の目を見つめていた。コバルト色の瞳の奥に、これまで見たことのない、切実な色が揺れていた。
金田はしばらく、何も言えなかった。
夢人はその沈黙を埋めるように、続けて言った。
「金田さんは、特定の記憶を消せるって言ってましたよね」
「……」
「もしそうなら…僕が職員たちに暴行された時の記憶を、消してください」
夢人の声は、努めて冷静を装っているようだったが、その奥にはかすかな震えが滲んでいた。
「あの記憶のせいで、悪夢ばかりみるんです」
金田は、夢人の顔をじっと見つめた。
そして、静かに、しかしはっきりと首を振った。
「悪いけど、それは出来ない」
夢人の表情が、わずかに強張った。
「その記憶を消してしまったら」
金田は続けた。
「君は、被害者たちに何もされてないのに、彼らの命を奪ったことになる」
「……」
「今の君が、全く別の人間になる危険性だってある。だから無理だ…」
夢人は、その言葉を遮るように言った。
「なら、あの人達と出会ったあとの記憶を、全部消せばいい」
その口調には、わずかな苛立ちが混じっていた。
金田はその目をまっすぐに見返した。
「……君は、自分の罪を、なかったことにするのか?」
夢人は、答えなかった。ただ、視線を落とし、唇を固く結んだ。
「……」
その沈黙こそが、答えだった。
金田は小さく息を吐いた。
「もしそうなら、なおさら、記憶を消すことなんてできない」
リビングには、夜景の光だけが、静かに二人を照らし続けていた。
「わかりました」
夢人はそれだけ言うと、静かに自室へと入り、扉を閉めた。その音は、思いのほか小さかった。
リビングに一人残された金田は、深くため息をつき、浴室へと向かった。
シャワーの湯を浴びる金田の体には、背中から胸元にかけて、龍を象った入れ墨が大きく彫られていた。鱗の一枚一枚まで丁寧に描き込まれたそれは、長い年月をかけて仕上げられたものであることが窺えた。腹部には、刃物によるものと思われる古い傷跡が、白く引きつれて残っていた。
シャワーを終え、寝巻き姿になった金田は、脱衣所から出てきた。そのままキッチンへと向かい、コップに水を注ぐと、一気に飲み干した。
その時、部屋の扉が開き、夢人が姿を現した。
まっすぐに金田のもとへと歩み寄ってくる。
「僕は自分の罪をなくしたい訳じゃない。ただ過去のトラウマを消してほしいだけなんです」
金田はコップを置き、夢人の方を見た。
「できないものは、できない」
その一言に、夢人の中で何かが弾けたようだった。
「神様!この金髪××野郎に天罰をお与えください!」
そう言って、リビングのソファへと体を横たえた。
「……」
金田は呆れたように、その様子を見下ろした。
「ベッドで寝なよ」
だが夢人は、ソファの上ですでに丸くなり、目を閉じかけていた。その寝顔は、先ほどまでの荒々しさが嘘のように、ひどく無防備で、幼く見えた。
金田は小さくため息をつくと、それ以上何も言わず、ただ呆れたようにその寝顔を見つめ続けていた。
しばらくして、ソファで眠っていた夢人が、小さく呻き始めた。額には汗が滲み、眉間には苦しげな皺が寄っている。悪夢にうなされているようだった。
金田はその様子に気づくと、そっとタオルを持ってきて、汗ばんだ夢人の額を優しく拭った。
うなされ続ける夢人を前に、金田はどうすればこの子が安心できるのか、しばらく考えを巡らせた。そして、ふとあることを思いつき、スマホを取り出すと、ある聖歌を静かに流し始めた。
穏やかな旋律が、リビングに静かに満ちていく。
すると、寝ぼけたままの夢人が、うっすらと目を開けた。焦点の定まらないコバルト色の瞳が、ぼんやりと金田の姿を捉える。そのまま、まるで引き寄せられるように、夢人は金田の体に寄りかかった。
「……神父様」
その一言に、金田の中で何かが引っかかった。
金田は何も言わず、ただ静かに、探るように様子を窺うことにした。
金田は、神父を演じるつもりで、夢人の頭をゆっくりと撫でる。
すると夢人は、まるで何かを口に運ぶような、奇妙な仕草を見せ始めた。両手を小さく動かし、何かを噛み、飲み込むような動作を、繰り返している。
「?」
金田はその動作を、じっと見つめた。
夢人は何を、食べているのだろうか。
リビングには、聖歌の旋律だけが静かに流れ続け、金田の中に浮かんだ疑問だけが、長い沈黙となって、その場に横たわっていた。




