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拳銃を構えていた警察官たちは、人質にされた広瀬の姿を見て、一様に銃口を下げた。だが、その場に流れる緊張は、いささかも緩んではいなかった。
木立の間から、一人の男がゆっくりと歩み出てきた。白髪の交じった髪を短く刈り込み、いかにも実直そうな顔立ちをした初老の男だった。警視監の階級章が、朝の薄明かりの中で鈍く光っていた。
「馬鹿な真似はよせ」
風間と名乗るその男は、ゆっくりと二人に近づいてきた。声は低く、脅しでも懇願でもない、ただ事実を告げるような響きを持っていた。
夢人は、包丁を握ったまま、静かに風間を見据えた。その視線が、風間の頭上へと移る。
そこにも、あの赤い歪んだ文字が浮かんでいた。「不倫」「書類偽造」「情報隠蔽」――そして、他の誰の頭上にも見たことのない、一際重い文字がひとつ。「人体実験」。
「あなたの名前は?」
夢人が静かに尋ねた。
「風間だ」
短い返答だった。だがその声には、これから起こることを、既にどこか予感しているような、奇妙な落ち着きがあった。
「風間さん」
夢人は、包丁を握る手をだらりと下ろしながら言った。
「あなたの罪を、浄化します。さあ、こちらへ…」
夢人は、空いた片手を風間に向かって差し伸べた。その隙をつくように、両脇から数人の警察官が飛び出し、広瀬の体を取り押さえた。
夢人が包丁を片手に広瀬から離れる。
広瀬はすでに地面に組み伏せられ、身動きが取れない状態になっていた。
「やめろ!夢人は人を殺してなんかいない…!」
広瀬の声が虚しくこだまする。
風間は、夢人を見つめたまま、ゆっくりと距離を詰めていく。
夢人はじりじりと後ずさる。
その時、握られていた包丁の刃先が、わずかに下を向いた。
その一瞬を、風間は見逃さなかった。
素早く伸びた手が、夢人の手首を捻り上げ、包丁を叩き落とす。同時に、もう一方の手に隠し持っていた注射器が、迷いのない動きで夢人の首筋に打ち込まれた。
「うっ……」
夢人の体から、みるみる力が抜けていった。コバルトの瞳が、最後にちらりと風間の顔を見る。
風間の目はただ静かに夢人の姿をとらえていた。
夢人の瞼はゆっくりと閉じ、その体は崩れ落ちるように風間の腕の中へと沈んでいった。
「確保!」
風間は崩れ落ちた夢人の体を、まるで壊れ物を扱うように抱きかかえた。周囲の警察官たちが慌ただしく動き出す中、彼は無言のまま踵を返し、待機していたパトカーへと歩いていった。後部座席に夢人を横たえると、風間自身もその隣に乗り込み、ドアを閉めた。
エンジン音が響き、パトカーは朝靄の立ち込める山道を、静かに去っていった。
「夢人は神の子だ……それなのに…」
地面に押さえつけられたまま、広瀬がつぶやく。
やがて、彼の両手首に冷たい手錠がかけられた。かちり、という金属音が、いやに大きく朝の空気の中に響いた。周囲の喧騒が、少しずつ遠のいていくように感じられた。
パトカーの去っていった道の先には、朝日が差し込み始めた山の稜線だけが、何事もなかったかのように、静かに横たわっていた。
♢
夢人は、元いた地下の独房へと戻された。
以前と違うのは、扉の外に立つ看守が二人に増え、鉄格子の鍵が二重にかけられるようになったことだった。金属音は以前よりも重く、複雑に響くようになっていた。
だが、夢人自身には、何の変化もなかった。彼はベッドに寝転がり、片膝を立て、天井を眺めながら、小さく鼻歌を口ずさんでいた。それは聖歌のような、荘厳でありながらどこか物悲しい旋律だった。誰に教わったのか、あるいはどこか遠い記憶の底から湧き上がってくるものなのか、その節回しは、この殺風景な地下室にはあまりに不釣り合いだった。
やがて、静かな足音とともに、風間が姿を現した。
夢人は歌うのをやめず、視線だけを風間の方へ向けた。
「広瀬はいま、精神鑑定を受けている…」
風間は抑揚のない声で言った。
「もう、ここには来ない」
「そうですか」
夢人の返事には、落胆も未練も感じられなかった。まるで、当たり前の天気予報を聞いたときのような、乾いた相槌だった。
風間は鉄格子の前まで歩み寄り、しばらく夢人を見下ろしていた。その目には、隠しきれない苛立ちと、それ以上に大きな、得体の知れないものへの警戒が滲んでいた。
「脱獄した理由はなんだ」
風間はようやく口を開いた。
夢人はゆっくりと体を起こし、壁にもたれた。コバルトの瞳が、蛍光灯の光を映して静かに揺れた。
「ここにいることに、飽きちゃったからです」
「自分が犯した罪に対して」
風間の声に、わずかに力がこもった。
「償う気はないのか」
夢人は、その問いを面白がるように、口の端をわずかに上げた。
「僕は、僕の身体を汚した人たちを浄化しただけです。殺してなんていません」
彼はそこで一度言葉を切り、風間の顔を、そしてその頭上を、まるでもう一度確かめるように見つめた。
「あなただって、罪人なのに…」
「なんだと?」
「あなたは今まで沢山の罪を犯してきた…。僕にはわかるんです…あなたは潔白じゃない」
「私は潔白だ。なんの罪にも問われない」
風間は即座に言い返した。
その声には、明らかな動揺が滲んでいた。あまりに早すぎる否定は、かえって何よりも雄弁に、その言葉の裏側を語っているようだった。
夢人は、声を立てて笑った。
それは、独房の冷たい空気の中に、場違いなほど涼やかに響く笑い声だった。風間はその笑いを前にして、しばらく何も言葉を返せずにいた。鉄格子の向こうで、コバルトの瞳が、まるですべてを見透かすように、じっと彼を見つめ続けていた。




