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広瀬が食事を食べ終え、皿洗いをしている中。
夢人は「少し眠ります」と言い残し、寝室へと入っていった。
刑務所の中では、まともな睡眠など取れなかったはずだ。広瀬はそう思いながら、しばらく一人でグラスを傾けていたが、ふと妙な胸騒ぎを覚え、様子を見に行くことにした。
寝室のドアをそっと開ける。月明かりが窓のカーテンの隙間から差し込み、部屋をぼんやりと照らしていた。
ベッドの上には、誰もいなかった。
広瀬が目を凝らすと、夢人はベッドの脇の、硬い床の上に体を丸めて眠っていた。まるで、そうすることに慣らされてきたかのような、迷いのない姿勢だった。
広瀬は驚き、静かに歩み寄った。ベッドがあるのに、なぜわざわざ床の上で。その答えを考えるより先に、体が動いていた。
彼は膝をつき、夢人の体をそっと抱き上げた。思っていたより軽い体だった。まるで、長い時間をかけて水分だけが抜け落ちてしまったかのような、頼りない軽さだった。
夢人をベッドの縁まで運び、そこに横たえようとした瞬間、広瀬は自分の膝の位置を誤り、バランスを崩した。とっさに体を支えようとした手が空を切り、そのまま彼は夢人の体の上に、覆いかぶさるような形で倒れ込んでしまった。
「ん……」
夢人が小さく声を漏らし、瞼を開けた。すぐ目の前に、広瀬の顔があった。
「す、すまない。起こすつもりはなかったんだ。床で寝ていたから、ベッドに__」
言葉は、途中で止まった。
夢人が、じっと広瀬を見つめていたからだった。コバルト色の瞳の中に、月明かりが小さく映り込んでいた。責めるでもなく、戸惑うでもなく、ただ静かに、広瀬の顔の輪郭をなぞるような視線だった。
広瀬もまた、その視線から目を逸らせずにいた。互いの吐息が触れ合うほどの距離で、二人はしばらくの間、言葉もなく見つめ合っていた。夢人の体温は、独房の鉄格子越しに触れた手のひらの冷たさとは違い、いつのまにか、ほんの少しだけ温かくなっているように感じられた。
広瀬の体は、頭で考えるより先に動いていた。気づいたときには、夢人の唇に、自分の唇を重ねていた。
「自制してください…」
夢人は囁くように言った。
彼はしばらく夢人の顔を見つめていたが、やがて何も言わずに体を起こし、寝室を出て洗面所へと向かった。
蛇口をひねり、両手に受けた冷たい水を、何度も顔にかけた。鏡に映る自分の顔は、いつもより疲れて見えた。自分がいったい何をしているのか、何を求めているのか、その輪郭さえもう掴めなくなっていた。
寝室に残された夢人は、ベッドの上に一人、静かに座っていた。彼はゆっくりと右手の袖を持ち上げ、それで自分の口元を拭った。その仕草には、拒絶の激しさも、後悔の色もなかった。ただ、何かを――たった今起きた出来事を、静かに、儀式のように、なかったことにしていくような、乾いた慎重さだけがあった。
♢
刑務所に、けたたましいサイレンが鳴り響いたのは、それから間もなくのことだった。
「地下にいた囚人の姿がない!」
看守長の怒声が、コンクリートの廊下に反響した。気を失っていた看守は、後頭部を押さえながら、まだ朦朧とした様子で壁にもたれていた。
「確認しろ! 独房の鍵が開いている! 誰か、あの部屋に近づいた者はいないか!?」
若い刑務官の一人が、記録簿をめくりながら早口で報告した。
「2時間ほど前、広瀬という雑誌の編集者の男が、やつと面会していました。取材許可は、正規の手続きを踏んだものです」
「その広瀬という男は、まだ施設内にいるのか」
「……」
記録簿をめくる手が止まった。
「面会記録はありますが、退出のチェックが、されていません」
看守長の表情が、みるみる強張っていった。
「広瀬を探せ! おそらく、囚人も一緒だ!」
その声は、地下の独房までも届くように、鉄とコンクリートの壁を伝って、いつまでも反響していた。監視カメラの映像が、慌ただしく巻き戻され、正面ゲートを通り抜けていく、看守の制服を着た人影と、それに続く男の姿が、モニターの中に映し出されていく。
「あの悪魔め……、男を洗脳して脱獄したのか」
画面を覗き込んだ刑務官の声が、かすかに震えていた。
♢
ログハウスの中は、いつしか静けさを取り戻していた。
広瀬はそっとベッドに近づき、眠る夢人の隣に腰を下ろした。規則正しい寝息が、暗い部屋の中に小さく響いていた。
夢人の体は、思っていた以上に細かった。骨格の輪郭が、薄い部屋着越しにもわかるほどだった。長い年月を独房の中で過ごしてきた体は、まるで今にも崩れ落ちてしまいそうなほど頼りなく、広瀬はその脆さに、胸の奥を締め付けられるような感覚を覚えた。
広瀬が夢人の頭をそっと撫でる。
それは、何かを求める行為ではなく、ただ、そこに在るものを慈しむような、静かな仕草だった。
夢人は目を覚まさなかった。ただ、その呼吸が、ほんの一瞬だけ深くなったような気がした。
広瀬は身を起こし、しばらくの間、眠る夢人の顔を見つめ続けていた。彼が神の子なのか、それとも冤罪を着せられた哀れな青年に過ぎないのか、その答えはまだ、どこにもなかった。だが、そんなことはもう、どちらでもいいようにも思えた。
窓の外では、山の闇が少しずつ、夜明けの気配を帯び始めていた。木々の隙間から差し込む最初の光が、やがてこの小さなログハウスにも届くのだろう。だがそれまでの束の間、広瀬はただ、隣で眠る夢人の呼吸に、自分の呼吸を合わせるようにして、静かに座り続けていた。
静寂を切り裂くように、パトカーのサイレンが鳴り響いたのは、夜明けの気配がようやく木々の間に滲み始めた頃だった。赤と青の光が、カーテンの隙間からログハウスの壁に、不規則な模様を描き出していた。
無線越しの声が、拡声器を通して外から響いてきた。
「広瀬! そこに矢吹夢人がいることはわかっている! すぐに外へ出てこい!」
広瀬は弾かれたように体を起こした。心臓が、耳の奥で大きく鳴っていた。
「どうして……ここにいるとわかったんだ」
呟くように漏れたその問いに答えたのは、既に目を覚ましていた夢人だった。
「僕の体には、発信機が埋め込まれているんです」
彼は静かに、他人事のように言った。
「おそらく、それで場所を特定したのでしょう」
その声には、驚きも焦りもなかった。まるで、この展開すらも、とうに織り込み済みだったかのような落ち着きだった。
夢人はベッドから滑るように降り、迷いのない足取りでキッチンへと向かった。引き出しを開け、そこから一本の包丁を取り出す。刃が、窓から差し込む赤い回転灯の光を鈍く反射した。
「な……なにを」
広瀬が声を上げるのと、夢人が背後に回り込み、その刃を彼の首筋にあてがうのは、ほとんど同時だった。
「すみません、秋人さん」
夢人の声は、相変わらず穏やかだった。まるで謝罪の言葉さえも、ただの儀礼的な挨拶であるかのように。
「少しの間だけ、こうさせてください」
夢人は広瀬の体を盾にするようにして、玄関の扉を開けた。外に出た瞬間、無数のライトが二人を照らし出した。何丁もの拳銃が、木立の陰から、じっとこちらに向けられていた。
「動くな! 武器を捨てろ!」
拡声器越しの声が、朝靄の立ち込める森の中に、鋭く響き渡った。
夢人はゆっくりと、包丁を握る手に力を込めた。刃先が、広瀬の喉にわずかに触れる。冷たい感触が、皮膚の上を這った。
「みなさん」夢人は、包囲する警察官たちに向かって、静かに、しかしよく通る声で言った。「少し、お話をさせてもらえませんか」
その口調は、独房の中で広瀬に向けていたときと、何一つ変わっていなかった。
朝の光が、少しずつ森の稜線を白ませていく中、二人の姿だけが、パトカーの赤と青の光に照らされて、奇妙なほど静かに浮かび上がっていた。




