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「広瀬さんは、どうして家庭内暴力を?」
夢人の声には、相変わらず抑揚がなかった。だがその平坦さこそが、刃物よりも鋭く広瀬の胸に食い込んでくるようだった。
「奥さんを、殴ったんですか?それとも子供?」
「……勝手に決めつけないでくれ」
広瀬は目を逸らした
「どうして、殴ったんですか」
答えはなかった。広瀬はノートの上に視線を落としたまま、ペンの先で意味のない線を引いていた。沈黙が、地下室の冷たい空気の中に、ゆっくりと沈殿していくようだった。
「どうして、家族に暴力を」
「……酒に酔っていただけだ」
広瀬はようやく、そう絞り出した。それから、まるで矛先を変えようとするように、早口で続けた。
「施設にいたとき、君はどうだった?殺人衝動はあったのか」
夢人はその質問を、しばらく黙って受け止めていた。表情は変わらなかったが、コバルトの瞳の奥で、何かがほんの少しだけ揺れたように見えた。
「わかりません」
短い答えだった。だがその声には、これまでのどんな沈黙よりも深い何かが滲んでいるように、広瀬には感じられた。
「広瀬さんは」夢人は続けた。「いじめを黙認して、万引きまでする子供だったんですか?」
答えを待たずに、彼はさらに言葉を重ねた。
「万引きは、立派な犯罪です。なのに、どうして自首しないんですか。僕と同じように、牢屋に入るべきでは?」
「……」
「そうやって自分の罪から目を背けたままずっと、生きていくんですか?」
「……うるさい」
「あなたは犯罪者なのに」
「黙れ!」
広瀬の声が、地下室の壁に反響した。それは彼自身にも予想外なほど大きく、そして、どこか悲鳴に近い響きを持っていた。
夢人は何も言わなかった。ただ、静かに広瀬を見つめ続けていた。糾弾するでもなく、勝ち誇るでもない。ただ、そこにある事実を、そのまま鏡のように映し出しているだけだった。
あたりが、しんと静まり返った。
換気口の奥で唸っていた機械の音さえ、その瞬間だけは聞こえなくなったように、広瀬には感じられた。自分の荒い息遣いだけが、やけに大きく耳の奥で響いていた。
夢人はゆっくりと視線を落とし、膝の上で組んだ自分の指先を見つめた。
「秋人さん」
夢人の声が、それまでとはまるで違う響きを帯びていた。
「あなたの罪を浄化します」
「!!」
広瀬は思わず身を引いた。だが夢人の瞳は、責めるでも脅すでもなく、ただ深い湖の底のような静けさをたたえたまま、じっと彼を見つめていた。
「たくさんの罪を抱えて生きるのは、苦しいでしょう?」
答えられなかった。答える代わりに、広瀬の中で何かが崩れていくような感覚があった。
「あなたの身も心も全て…僕にあずけてください…」
次の瞬間、彼は自分の魂そのものが、大きな何かに――柔らかく、温かく、限りなく寛容な何かにそっと包み込まれるのを感じた。それは母親の胎内を思わせる感覚だった。いや、広瀬自身、そんな安らぎを本当の母親から与えられたことがあったかどうかさえ、もう思い出せなかった。だが今、確かにここにその感覚があった。あまりの心地よさに、彼はこのまま意識を手放し、すべてをこの何かに委ねてしまいたい衝動に駆られた。
――矢吹夢人は、神様の子供なんじゃないだろうか。
そんな考えが、脈絡もなく広瀬の脳裏をよぎった。馬鹿げている、と自分でも思う。だが、この地下室の中では、その馬鹿げた考えこそが、唯一の真実であるように感じられた。
夢人は鉄格子の隙間から、再びゆっくりと手を差し伸べた。今度は、拒む理由を、広瀬はどこにも見つけられなかった。
彼はその手を取った。
夢人の手は、驚くほど冷たかった。まるで長い間、日の当たらない場所に置かれた石のようだった。広瀬は無意識のうちに、その手を両手で包み込み、自分の体温を分け与えようとしていた。
「秋人さん」
夢人は静かに言った。
「あなたの罪は、癒やされました」
広瀬は、夢人の顔をまじまじと見つめた。コバルトの瞳、白い髪、整いすぎた輪郭。すべてが、この世のものではないように思えてくる。
「君は……」
声がかすれた。
「君は神の子…、天使か何かなのか」
夢人は小さく頷いた。
「人を殺したと、冤罪を着せられて、ここに?」
夢人はまた、静かに頷いた。その仕草には、抗議も、悲嘆もなかった。ただ、長い時間をかけてすでに受け入れてしまった事実を、もう一度確認するだけの、穏やかな諦念があった。
広瀬の中で、何かが決定的に傾いた。
「君を救いたい」
と彼は言った。
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
夢人は何も答えなかった。ただ、その冷たい手を、広瀬の両手の中に委ねたまま、コバルトの瞳を静かに伏せた。地下室の蛍光灯の光が、その伏せられた睫毛の上に、小さな影を落としていた。
「鉄格子の鍵は、向こうで居眠りしている看守が持っています」
夢人が看守の男の方を指さす。
広瀬は振り返った。地下の階段の手前、パイプ椅子に浅く腰掛けたまま、一人の看守が壁にもたれて眠っていた。規則的な寝息が、蛍光灯の単調な光の中に、間延びしたリズムを刻んでいた。
「気絶させて、鍵をこちらに」
夢人の声には、相変わらず何の起伏もなかった。まるで、休憩時間にコーヒーでも入れてきてほしいと頼むときのような、日常的な口調だった。
広瀬は、自分の中で何かが既に決まってしまっていることに、どこか他人事のように気づいていた。迷いがなかったわけではない。だが、さっき魂を包んでいったあの温かさの記憶が、まだ体の芯に残っていて、それが彼の足を、看守の方へと自然に運ばせていた。
足音を殺し、椅子の後ろに回り込む。看守の首筋には、無防備な弛緩があった。広瀬は自分の手が、まるで別の生き物のように動いていくのを、どこか遠くから眺めているような感覚に陥っていた。
腕を回し、力を込める。
看守は一瞬だけ短く呻き、椅子の上で体を強張らせたが、抵抗する間もなく、すぐにその体から力が抜けていった。広瀬は自分の心臓の音だけを、やけに大きく聞いていた。ベルトに提げられた鍵束を外し、それを握りしめる。金属の重みが、妙に生々しく手のひらに残った。
夢人は変わらぬ姿勢で、鉄格子の向こうから広瀬を見つめていた。その視線には、感謝も、驚きも浮かんでいなかった。ただ、予定されていたことが、予定通りに進んでいることを確認するような、静かな満足だけがあった。
広瀬は看守から奪った鍵を持ち、夢人のところへと戻る。
鍵束から鍵を選び、鉄格子の鍵穴に差し込む。
手が、かすかに震えていた。
やがて重い金属音を立てて、鉄格子の扉が開いた。




