14
金田は夢人に何か声をかけようとしたが、言葉が喉の奥で詰まって出てこなかった。何を言えば、この状況を掬い上げられるのか、見当もつかなかった。
その沈黙を破ったのは、神父の声だった。
「どんな理由があれ」
神父は静かに、けれどはっきりと言った。
「人の命を奪うことは、許されない」
その一言を聞いた瞬間、夢人の表情が崩れ、次の瞬間には体が反転していた。何も言わず、施設の外へと駆け出していく。
「夢人!」
金田はすぐさま後を追った。
夢人は何も見えていないかのように、車道へと飛び出した。エンジン音と、けたたましいクラクションが同時に鳴り響く。金田は間一髪でその体を掴み、歩道へと引き戻した。
「なにやってるんだ!」
金田の声には、これまで聞いたことのないほどの怒りが滲んでいた。だがそれは、怒りというより、抑えきれない恐怖の裏返しだった。
「こんなの、死んだほうがましだ!!」
夢人は叫んだ。
涙が、堰を切ったように溢れ出していた。
そこへ、音無と神父が、息を切らしながら追いついてきた。
神父は、夢人の泣き崩れる姿をしばらく見つめ、やがてゆっくりと歩み寄った。
「夢人くん…」
その声には、先ほどまでの冷たさはなかった。
「君の罪は、消えない…」
夢人の肩が、びくりと震えた。
「それでも」
神父は続けた。
「今だけでも、君に安らぎが訪れるなら」
神父は、夢人に向かって、静かに手を差し伸べた。
「君の罪を、浄化しよう」
夢人は、差し出されたその手を、ゆっくりと取った。そして、堪えきれないというふうに、神父の胸に飛び込んだ。
神父は、その小さな体を、静かに抱きしめた。
その瞬間だった。神父の中に、何かが流れ込んでくるような感覚があった。ぼんやりと霞んでいた記憶の断片が、次々と像を結んでいく。
「そうか…」
神父の声が、かすかに震えた。
「いま…、思い出した…」
腕の中の体を、確かめるように、神父は少し体を離した。
「君は…、施設にいた…少年だ…」
コバルト色の瞳と、赤い瞳が、まっすぐに見つめ合った。長い沈黙が、二人の間に流れた。
そして、夢人はゆっくりと顔を近づけると、神父の頬にキスをした。
その光景に、金田と音無は思わず息を呑んだ。
夢人は唇を離すと、まるで何でもないことのように言った。
「お久しぶりです…、神父様…」
その声は、いつもの平坦な調子に戻っていた。
神父は、その言葉に驚く様子もなく、ただ静かに笑みを浮かべると、夢人の頭をゆっくりと撫でた。
夢人は、その手のひらの温もりに、目を細めた。まるで長い間、この瞬間だけを待ち続けていたかのように、その顔には、これまで見せたことのない、穏やかな喜びが広がっていた。
♢
教会の外、夕暮れが近づく空の下で、金田は音無と連絡先を交換した。
「また今度、ゆっくりお話しましょう」
音無はそう言うと、夢人に向かって柔らかく微笑んだ。夢人も、小さく頷き返した。
そして最後に、神父が夢人の前に立った。
指先で、自分が身につけていた小さな指輪をそっと外す。シルバーの台座に、コバルト色の宝石が一粒、静かに嵌め込まれていた。
神父はそれを、夢人の手のひらにそっと乗せた。
「プロポーズですか?」
夢人が、いつもの調子で尋ねた。
神父は思わず笑った。
「いやいや」
神父は首を振った。
「これは、お守りだよ」
指輪を見つめる夢人に、神父は優しく続けた。
「この先、なにがあっても、君を守れるように。もっていてほしい」
夢人は、その小さな指輪をしばらく見つめていた。コバルトの宝石が、夕日を受けて、静かに輝いていた。
「大切にします…」
夢人はそう言うと、指輪を両手でそっと包み込んだ。その表情には、これまでのどこか浮世離れした様子とは違う、確かな温もりが宿っていた。
♢
帰りの車内は静かだった。夢人は助手席のシートに深くもたれ、いつの間にか眠りに落ちていた。信号待ちのたびに、金田はその寝顔をちらりと確認していた。
不意に、夢人の唇が小さく動いた。
「……金田さん、いかないで」
寝言だった。眉間にわずかに皺が寄っている。
金田は前を向いたまま、静かに呟いた。
「……ここにいるよ」
その声は、夢人には届かなかったはずだった。だが、夢人の表情は少しだけ和らいだように見えた。
しばらくすると、また夢人の口から、別の言葉が漏れた。
「風間さんの罪は……」
金田は、思わず息を呑んだ。
「人体実験…」
ハンドルを握る手に、力がこもった。
「……」
金田はしばらく走り続けた後、道を逸れ、人気のない空き地に車を停めた。エンジンを切り、しばらく前を見つめたまま動かなかった。
やがて、決意したように、夢人の額にそっと手を伸ばす。
金田は、夢人の記憶の中から、風間と出会った時の記憶、そして刑務所で風間と会話を交わし、風間の罪を見た時の記憶を、静かに消し去った。指先に、かすかな抵抗のような感覚が走ったが、それも一瞬で消えていった。
手を離すと、夢人は何事もなかったかのように、穏やかな寝息を立て続けていた。
金田は車を降りると、少し離れた場所でスマホを取り出し、電話をかけた。
数回のコールの後、繋がった。
「用件はなんだ」
風間の声は、抑揚がなかった。
「矢吹夢人から、あなたに関する記憶を消しました」
「……そうか」
「矢吹は、あなたのことを知りません」
金田は続けた。
「ですから、彼のことは僕にまかせて、あなたには手を出さないでいただきたい」
しばらくの沈黙があった。
「……いいだろう。矢吹のことはお前に任せる」
電話は、そこで切れた。
金田はスマホをポケットにしまうと、車の方を振り返った。窓越しに、夢人の眠る横顔が見えた。夜の闇の中で、その顔だけが、やけに静かに浮かび上がっていた。
車に戻ろうとした瞬間、金田の頭に鋭い痛みが走った。視界が一瞬、白く霞む。
「……っ」
思わず車のボンネットに手をついた。頭痛は波のように押し寄せ、こめかみのあたりが激しく脈打っていた。
金田は頭を押さえながら、荒い息を整えた。誰かの記憶を消すたびに、こうして体に負荷がかかることは、これまでにも何度かあった。だが今夜は、いつもより痛みが強い気がした。
しばらくその場に立ち尽くしながら、金田は頭の中で考えを巡らせていた。
もし風間が、夢人の能力によって自分の罪を知られたと気づけば__夢人は間違いなく、あの特別収容施設に送られることになるだろう。表向きは保護という名目で、実際には二度と自由な生活には戻れない場所だ。
人体実験という疑惑が浮かび上がった以上、なおさら、夢人を風間の手に渡すわけにはいかなかった。
金田は夜空を見上げた。星の見えない、曇った空だった。
しばらくして、金田は車に戻った。運転席に体を滑り込ませたその時、助手席で夢人がゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
「ああ」
金田はできるだけ平静を装って答えた。
「ちょっと電話してたから、停めてただけだよ。すぐに出発するから」
そう言って、エンジンをかける。車がゆっくりと動き出した。
「金田さん…」
夢人の声に、金田は横目でちらりと視線を送った。
「なに?」
「…思い出せないことがあるんですけど」
夢人はまっすぐ前を見たまま言った。
「もしかして、僕の記憶、消しました?」
金田の手が、一瞬ハンドルの上で固まった。
「……」
「答えてください」
その問いには、責めるような響きはなかった。
ただ、静かに事実を確かめようとする声だった。
金田は答えられなかった。軽蔑されるかもしれない。
そう思うと、すぐには言葉が出てこなかった。
金田はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐き、正直に答えた。
「……君を守る為に、消さなきゃいけない記憶だけ消した」
「だと思いました」
夢人は、あっさりとそう言った。
「話せる時がきたら、ちゃんと話してくださいね…」
その言葉には、怒りも、失望も含まれていなかった。
ただ、金田という人間を、そのまま受け入れているような響きがあった。
「わかった…」
そう言った金田は、前を見つめたまま、胸の奥が熱くなるのを感じた。何も疑わず、ただ信じてくれている。その事実に、思わず涙が滲みそうになった。
だが、それを悟られるわけにはいかなかった。金田はぐっと堪え、何事もなかったかのように、静かにアクセルを踏み込んだ。
車は、夜の道をまっすぐに走り続けた。
車内に、しばらく沈黙が流れた後、夢人がぽつりと言った。
「金田さん、しんどい時は、僕を頼ってください…」
「……」
金田は何も答えなかった。ただ、ハンドルを握る手に、わずかに力がこもった。
「大丈夫じゃない時…」
夢人は続けた。
「大丈夫じゃないって誰かに言ったこと、ないんじゃないですか?」
「……」
図星を突かれたように、金田の横顔がわずかに強張った。
「僕が思うに」
夢人は淡々と続けた。
「あなたは、悩みをひとりで抱え込むタイプの人です」
「……ちょっと待って」
金田がようやく口を開いた。
「なんですか?」
「なんか」
金田はちらりと夢人を見た。
「泣かせようとしてない?」
夢人は首を横にふる。
「いえ、ただ…」
「ん?」
「僕以外、友達がいなさそうなので…」
「……」
「……」
「…失礼だな、君は」
金田は思わず声を上げて笑った。
ハンドルを握ったまま、肩を震わせて笑い続ける。
その様子を見て、夢人もつられるように、小さく笑い出した。
車内には、しばらくの間、二人分の笑い声だけが、静かに響いていた。信号の赤い光が、フロントガラスに柔らかく反射していた。




